死のつく去りし後

ああ、あと少し、もう少しだけでいいから







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蓮華の咲くほとり
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 その絵を見たのは、偶然だった。
 時代は明治。まだ、異人への排他の残る時代。
 立ち寄った茶屋で、飾られていた絵に、千歳は目を留めた。
「ああ、その絵?」
「ああ、…綺麗、とね」
 気付いた主人が声をかけてくる。
「若い画家でね。その子が描いたんだ」
「ご主人、そんな絵飾るなっていってるだろ、茶がまずくなる」
「?」
 首を傾げた千歳に、客の一人が言った。
「それ描いたの、異人なんだよ。だから!」
「白石くんは異人じゃないよ。血が混じってるだけで…」
「でもまるっきり異人じゃないか、顔も髪も瞳も」
「…白石」
 千歳は呟いて、その絵をもう一度見遣った。





 また筆が落ちて、溜息を吐いたところで下宿家の扉が叩かれた。
「…謙也?」
 ここに来るのは、幼馴染みの友人か下宿させてくれているあの茶屋の主人だけだ。
 白石は立ち上がると、簡素にまとった白い着物の裾をさばいて、扉を開ける。
 いたのは、見知らぬ大男だった。
「…あの?」
「ええと、すまん。ちくっと、雨宿りさせてくれんね?」
 どこの人だろう、と声で思いながら、はい、と招き入れた。
「何故ここに…? 他にも」
「みんな、俺の言葉聞いて嫌がるたい。あと見た目で怖がられとう」
「…ああ」
 白石は小さく笑って、彼を居間に通した。
 狭い下宿部屋だ、居間においてある書きかけの絵に自然男は気付いただろう。
「ああ、やっぱり」
「え?」
「茶屋の主人に聞いたと、あの絵、描いたんお前さんって」
「……ああ」
「綺麗な絵たい」
 言われて、驚いた後、自然胸に暖かい気持ちが沸いた。
 主人と謙也以外、自分の絵を綺麗と言ってくれる人はいないのに。
「名前、聞いていいですか?」
「千歳」
「千歳さん」
「千歳でよか。お前さんは白石って聞いた」
「はい、白石蔵ノ介っていいます」
「そっか。…絵、描くの邪魔したとや?」
「…いえ」
 白石の言葉に、千歳はいぶかしんで見下ろす。
「書きかけじゃなかね?」
「……そうですけど」
「煮え切らんね」
「………」
 黙り込んだ白石に、千歳は近づくとその白い手を唐突に取った。
「…ああ、お前さん、手がよう動かなかね?」
 急な接触に驚いた後、もっと驚かされた。
 最近、手に酷いしびれが走るようになって、筆を持つことすら出来ない日が続いている。
 だが、それは謙也くらいしか知らないことで。
「…なんで」
「勘? お前さん、お茶煎れようとして、いちいち両手使うとる。
 片手で済む作業まで」
「………、ええ」
 気付かれていたのか、と白石は苦笑した。
「…症状が出たのは、二ヶ月くらい前です。
 その後、いくら診てもらって、薬飲んでもダメで。
 …それから、ずっと」
「絵も、続き描けなか?」
「…はい」
 俯いた白石の顎をその大きな手が掴んで、不意にその闇色の瞳が言った。
「…書けるようになるなら、よか?」
「…え?」
「描きたかとだろ」
「…それは、そうです。でも、医者でも無理なのに」
「俺がなんとか出来っと」
「…」
 そのまま深く口付けられた。
「…っ」
「おとなしくしなっせ。俺の言うとおりにすればよかと」
「………」
 言われて、何故か抵抗出来なくなった。
 そのまま畳の上に押し倒される。
 着物を開かれて、肉厚の舌が肌を這う感触に身をよじりながら、押さえられた片手を掴む手がひどく冷たいと思った。


「…っあ…」
 貫かれた瞬間、思わず声が悲鳴になった。
「あ…ぁ…っ」
「狭かね…もう少し、我慢せ」
「…ん…っ……ぁ」
 千歳の背中にすがりついて、なんとか息を吐いてその度漏れる嬌声を他人事のように聞いていた。
 何故拒まないのだろう。
 何故。
 でも、何故か、逆らえなかった。



 雨音がまだしている。
 目を覚ますと、一組しかない布団の中で千歳は眠っていて、白石の身体はその腕に抱かれていた。
「…………」
 ぼんやりとその寝顔を見る。
「………」
 何故だろう。
 思いながら、起きあがって無駄と知りながらまた絵の前に座った。
 けれど、あれほど酷い痺れを訴えていた手は今日に限って思い通りに動いた。
 気付けば夢中で描いていて、目覚めた千歳が背後で笑っているのに気付いたのは描き始めて四刻過ぎた後だった。
「手、動くだろ」
「……え、ええ。でも、なんでか」
「俺に抱かれたからたいね」
「…え」
 瞳を揺らして見上げた白石の前、座る千歳の、灯りに照らされた影が揺れて歪な姿になる。
 まるで、狐のような。
「…わかったと?」
「…あなた、は?」
「最近まで寺に封印されちょった狐神…稲荷の一匹と。
 だけん、人間の病を一時的に治す力ばあるけん。
 俺と交われば一日は病は身体から消える」
「……一日は」
「…どげんする?
 俺はしばらく隠れられる場所が欲しか。
 お前さんが望むなら、絵が完成するまでおって抱いてやる。
 そうすれば、手の病に悩んで絵が描けないことはしばらくなかろ」
「…本当ですか?」
「ああ。ただ、仮にも神と交わるんは、生気奪われる。
 …最悪死ぬこともあるけん、それは考えた方がよかよ」
 言って立ち上がった千歳の腕が、伸ばされた白い腕に掴まれた。
「なら、いてください。行かないで…。
 どうしても完成させたいんです。あれだけは。
 …あなたさえいいなら、…抱いてください」
「…そげん、大事なもんと?」
 そのまま出ていくつもりは全くなかった。ただ雨が止んだか窓を見ようとしただけで。
「…はい」
「…わかった。…ここおって、抱いちゃる。
 だけん、……名前なかは不便たい」
「…?」
「蔵ノ介、て呼んでよかと? 俺は千歳、でよか」
「……はい、千歳」
 微笑む儚い顔は、今まで見たどの人間より美しかった。
 そのまま押し倒すと、拒まず身体をゆだねられる。
 そのまま着物をはいで、肌に手を這わせた。
 知っている。


 自分は、あの絵を見た瞬間に、この人間の魂に囚われていた。


 布団からはみ出た白い手を追って、掴むとすがるように握られた。





 そうして、千歳が白石の元に住み着いて半月。
 だいぶ絵の形になってきたそれに筆を走らせている白石をぼんやりと見遣りながらいた千歳の耳に、扉を叩く音がした。
「…蔵ノ介、客やなか?」
「え、あ、本当や…」
 出てきます、と言った白石が立ち上がって扉を開く。
 現れたのはどこか色素の多少薄い、しかし白石ほど異人と誤解される姿でもない青年だった。
「謙也」
 謙也、という名は聞いていた。
 白石の幼馴染みで、白石がかかっていた医師の息子。
「どないしたん?」
「どないしたやない。薬全然取りに来ない癖に」
「…ああ」
「ああ、やないわ!
 親父が心配しとった。
 …それに、やけに憔悴しとるやん」
 白石は、そうか? と暢気に答えるだけだ。
 千歳は仕方ないと思う。狐と交わって生気を奪われているのだ。
 死なない程度と言っても、白石が最初会った頃よりやせてやつれてきたのは事実で。
「いや、気のせいやって」
「そうか…?」
 そこで謙也は部屋の千歳に気付いたらしい。
 千歳が礼儀に頭を下げると、誰?と一言。
「雨宿りに来て、そんまま世話になっとる千歳って言うと。
 それは悪かし、最低限家事はやっとうが」
「うん、俺は助かっとるから。それに、絵のことアドバイスくれるし、助かる」
「…って、描けてんのか!?」
「うん、見てくか? まだ途中やけど」

 通されて、謙也は随分驚いたようだった。
「ほんまにだいぶできあがっとる…。もうすぐ…?」
「うん」
「でも、薬もなかったんに…」
「……さあ、元々心身症の一過性やったんちゃうかな?
 で、寝るのも惜しんで描いてたから、やつれてる?
 千歳がおって有り難いんや。千歳がおらんと、俺平気で食事抜くし」
「うわ、…そら有り難う? な?」
「いや」
「ほな、一応薬おいてくわ」
「うん、ありがと。謙也」
「…うん、やけど、また痺れが出たらちゃんと来いや?」
「…うん」





 白石の住む下宿部屋から出て大通りに出ると、雨がまたぱらついてきた。
 傘、と思っていると隣から傘が出された。
「よ」
「お、侑士!」
 従兄弟の侑士だった。
 確か、あやかしの祓い人の修行中とかで、しばらく会ってなかったが。
「こっち戻ってたんか」
「ちゅーか、やばいもんの祓い頼まれて…」
 侑士が不意に真顔になった。
 謙也の服についていた一本の黒い糸を取る。
「…あ」
「さっきまで、どこおった?」
「…いや、ほら、蔵ノ介の」
「…誰かおった?」
「…なんか、流れで住むことになったヤツがいたよーな」
 真剣な従兄弟に、ごまかせず謙也が答えると、侑士は指で操ったその黒い髪を一瞬で燃やす。
 すぐ、黒い煙は狐の尾のようにねじれて、ついでその獣のような悲鳴。
「…今の」
「そいつ、間違いない…俺が追ってる、悪狐神(あこがみ)や」
「…悪狐神?」
「…人の生気喰って生きる悪い狐のあやかし。
 代わりに、人の病を一時的に治せるらしい。
 …蔵ノ介、例の手の病気、治ってたか?」
 侑士の言葉に、謙也は思いだして、青ざめた。



“一過性やったんやない?”




 首筋を這う舌に身をよじると、動くなと押さえつけられた。
「…すいませ」
 もう反射なのだと弁明しようとすると、千歳が不意に言った。
「そのしゃべり方、やめんね?」
「…え?」
 大きくはだけた着物から覗く胸に痕を残していた顔があげられて、真剣に言う。
「謙也?と話しちょったんがほんなこつの話し方とだろ。
 そっち」
「……いいんですか?」
「俺が、そう言っとーと」
「……わかった」
 頷いて首に手を伸ばしてきた白石を抱いて、その翡翠の瞳を覗き込む。
「…知っとうだろ?」
「え?」
「もう、知っとうだろ? …俺が悪狐神ってことくらい」
「……やけど、…俺の願い、叶えてくれる。
 …俺には、…とても優しい神様や」
 伸ばされた白い指が千歳の頬を撫でて、ふわりと微笑む顔に口付けた。
「…ほんなこつに? お前の命、喰らってるとよ?」
「…でも、俺を殺すことはせん。
 …それに、それ以外でも、…ちゃんと食べろとか…。
 …千歳は、…優しい神様や。俺には、…千歳は綺麗に見える」
「………っ」
 微笑む身体をきつく抱きしめて肌を暴く。
 自分を。

 自分を“優しい神様”だなんて、綺麗だなんて、誰も言ってくれなかった。

 彼だけしか。



 その細い手がすがるままに、足を開かせて貫こうとして千歳は顔を上げた。
「千歳…?」
 いぶかしんだ白石を抱き起こす暇なく、扉が乱暴に開かれた。
 いたのは、あの謙也という幼馴染みと、知らない眼鏡の青年。
「…お前っ!」
「侑士…?」
 叫んだ謙也と、白石が茫然と呼んだ瞬間、千歳は白石を抱き起こすと片手で抱え、窓に足をかける。
「なるほど、俺ば追ってきた祓い人さんか」
「そういうことや。観念せえ、悪狐神」
「嫌と」
「蔵ノ介! そいつから離れろ!」
「…っ」
 謙也の声に、白石は思わず千歳の前に立ってその身体を庇うようにしがみついた。
「…蔵…?」
「邪魔せんで…。お願い」
「蔵ノ介! そいつは人間やない…お前を殺そうとしてんや!」
「でも俺には…優しい人なんや!
 絵を完成させてくれるって…!」
「もうそんなんええやろ!」
「…よくない!」
 白石が震える手で、千歳の腕を掴む。
「…あれは、あれは…父さんの…」
 しかし言い終わらぬうちに、激しくせき込んでその口から血が零れた。
「…蔵…っ!?」
「そうか…! 悪狐神は病を一時的に治すだけや。身体ん中では進行しとるようなもん。
 蔵ノ介の手の痺れは…、死病の前兆やったんや…」
「そんな…」
 謙也が茫然と呟いた間に、千歳はその身体をしっかり抱え直すと、そのまま抱いて雨の空に消えた。
 残された絵が、吐かれた血の彩りで色彩になって、それが完成したようにしか見えなかった。





 雨が降っている。
 山のほとりの、森の傍の湖に、雨が落ちる音が響く。
 そこに座り込んだ千歳の膝に寝かされて、白石は吐血の収まった口で笑った。
「…完成、させられんかった」
「…お父さんの、絵やったと?」
「…うん。…やから、俺が充分な絵を描けるようになったら、完成させるって。
 それで、必死に勉強してやっと、…描けるようになった矢先に」
「…病気になったとか」
「…………もう、助からないんやろ? …千歳は、もう行きや」
「…なに、言うと」
「…死にかけの人間なんか、食えへんやろ」
 笑う濡れた頭を抱きしめて、そげんこつなかと叫んだ。
「…千歳?」
「俺は確かに、悪狐神たい。
 でも、…だけん…お前の、お前には…本物の神様になってやりたかった…。
 …お前の傍で、…お前を害さず、…ただおりたかっただけと。
 絵なんか、もう…」
 俺には、ついでだった。口実だったと泣く千歳の涙を拭って、白石は笑った。
「…やっぱり、千歳は…優しい、ええ神様やな」
「…なんで」
「こんな俺を…要るいうてくれる……」
「…当たり前とだろ!」
「……千歳。俺、お前が悪狐神でもええ。
 なんでもええ。会った時、感謝した。
 …お前に、会えて良かった」
「…蔵…っ」
「………なぁ、千歳」
 震える指が、そっと頬を撫でて笑う。
「…俺が、お前を…好きって言ったら…お前を…苦しめるんやろか」
「……」
 首を必死で左右に振った。
「っ…そげんわけ、絶対なか」
「……よかった……」
 呟いた唇が、大量に血を吐いた。
 ダメだ。ダメだこのままじゃ彼が死んでしまう。
 どうして、自分は普通の神じゃないんだ。
「……千歳」
「…もう、しゃべらんでよか…!」
「……とせ………、…俺…」
「……わかった、わかったから」
 あまりに細い身体を抱きしめて伝える。
「俺も…」


「俺も…お前を、好いとうよ……」


 どうして、普通の神じゃなかった。
 そうすれば彼を、愛せたのに。
 彼を本当に害さず、守れたのに。
 救えたのに。
 どうして。

 優しい、神様に生まれたかった。



「…愛しとうよ…蔵ノ介…」




 蓮華の花が雨の中で揺れた。

 蓮華の群が輝いて、気付くと巨大な蓮華のある、水の底。
「…え?」

『悪狐神、…その人間を救いたいと願うか?』

 誰の声だ。
 いやそんなこと、どうでもいい。

「当たり前と!」

『なら、そのために己を捧げてもか』

「…それで、蔵が助かるなら」

『わかった。悪狐神は前世の罪が生む。お前は、罪を償ったようだ…』



 光が爆ぜる。

 すぐ、視界はただの蓮華の咲く湖のほとりに戻っていた。


 すぐ、違和感を感じた。
「……?」
 身体が重い。
 まるで、ただの人間のように。

“お前は既に悪狐神ではない。ただの人。お前の悪狐神の中の神の力は、その人間を救うための贄となった”

 蓮華の声がする。
「蔵ノ介!?」
「……っ…。………千歳?」
「蔵ノ介…? 苦しくなか!? 痛くなか!?」
「…え、……あれ」
 茫然として起きあがった白石が、手を握りしめて、千歳を見上げる。


“その人間は既に病ではない。お前も、人である。人の身同士、…傍にいるがいい。
 願ったままに”


 思わずその細い身体を抱きしめた。
 暖かい。
「…蔵ノ介」
「…千歳…?」
「……お前が、…生きててよかった。
 ずっと…傍に、おるよ」


 悪狐神であることが、彼の救いになったというなら。
 きっと、自分は彼に会うために、罪を背負って生まれてきた。





「なぁんか、納得いかへん!」
「まあまあ、侑士…」
 カフェで酒の入ったカップを叩き付ける侑士を宥めていると、反対に座った白石が、きょとんと見遣った。
「どしたん、侑士」
「いや、なんでもあらへんし」
「…なんでんなかって顔じゃなか」
「お前が言うな!」
 後日、千歳がただの人になったと知った侑士に、祓う必要は最早なく。
 白石と正式に一緒に暮らすようになったこの大男が、憎いのをわかっているのは自分が蔵ノ介に片恋していたと知る謙也のみ。
 蔵ノ介の病が治ったのがこの男のおかげというから、邪魔すら出来ない。
「侑士?」
「いや、なんでも。
 …絵、飾ってもらったんやな」
 あの茶屋には、完成した絵が飾られている。
「うん」
「よかったな」
「うん…、千歳がいたし」
「描いたんは蔵たい。俺ば料理くらいしか役立ってなか」
「……傍におってくれんが、一番やと思う」
「…可愛か、蔵」
「……」
「侑士、堪えろ」
 昼時のカフェは人でにぎわっている。
 自分たち以外、誰も知らない。
 人を愛して、人を救った悪狐神のことを。
 悪狐神を人にした、一人の人間のことも。


 蓮華は咲く。

 優しい、湖のほとりで、許された罪過を抱いて。








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 ちとくらホラー、つかパラレル?
 夢で見て書いた。本当最近ちとくらの夢ばっか。
 …何故かな。

 作成日時:2008/08/12