終わりは誰も知らない
「あ」 店から出てすぐ、荷を傍の大男に取られてしまい、白石は驚いたあと、綺麗に微笑んだ。 「千歳。それくらい持てる」 「よかよか。持つとよ。お前、力なかけんね」 「…そんなにあらへんかな…」 千歳はない、と即答した。 袴姿と、着物、そして洋装の入り交じる街。今は明治の時代。 白石は絵描きだが、外見から異人と間違われ、あまりいい視線は向けてもらえなかった。 そんなある日、白石の元に雨宿りに来た千歳。 彼は悪狐神という悪い稲荷だったが、白石を病から救ったことで人になり、今は白石と共に暮らしている。 病が癒えても生来の病弱さは拭えず、力もないに等しい白石は、なにかと千歳に庇われ、助けられた。 白石が以前から借りている部屋に戻ると、今日買ってきた食材を仕舞ってから、奥に向かう。 食事を作ろうとすると、千歳はいつも座敷の方に引っ込んでしまう。 少し寂しいが、力仕事が出来ない自分は料理以外で役には立たないからと、包丁を手に取った。 白石は今頃、自分のために料理をしてくれているのだろう。 その度に奥に引っ込んでしまう自分は情けない。 (これで、沢山人間喰らった稲荷って言うんやから、情けなか…) 「アホやろ」 千歳の顔に本を投げつけて、白石の幼馴染みで医師の息子の謙也は言う。 彼は度々白石と千歳の部屋に顔を出す。 純粋な白石の身体の心配と、あとは近況の心配。一応、千歳も気遣われている。 「やけん、…怖か」 白石が絵に向かっている間、暇で、なにか要るものはないか聞いて出てきた。 塗料などを扱う店の出先で謙也に出くわしたのは、何度目だろう。 「自分がやれや。そんなら」 「…料理は、出来んばい」 「…謙遜やなく?」 「うん」 「蔵ノ介から仕事を奪う口実でも?」 「なか」 ……………………。 「ハっあ――――――――――――!? お前、何百年稲荷やっとんの!? 人間食う暇あったら料理の五つか六つ覚えて来い!」 「声がでかか!!!」 千歳が慌てて塞ぐと同時、謙也も自分の手で口を塞いだ。幸い、店先に人はいなかった。 「……お前なぁ」 「…やって、まさか、…」 「?」 視線を逸らした千歳は、「暇やなか」と呟く。 「蔵ノ介を見とるんは好きばい。絵を描いてる時のあいつも、綺麗か。 ばってん、…襲いたくなるけん…離れる」 「…あー。で?」 「……まさか、思わんばい。あの頃の自分は。 …こぎゃん、一人の人間が愛しくて、堪らんようになるなんて……」 「お前ももう人間や」 店先には屋根がない。突然ぱらつき出した雨に顔を上げると、二人の視界を不意に傘が覆った。 「てか、蔵が包丁持つのが怖いなら怖いて言うたれ。お前が離れる方があいつは泣くわ」 「あ、侑士」 傘を差しだしたのは、眼鏡をかけた黒髪の青年。 千歳達と同じく着物をまとった同じ年頃。 あやかしの祓い人で、以前の千歳を敵視したが、今は理解者の一人だ。 「……そうやね」 相変わらずいきなり現れて、的確なことを言う。千歳は怖くなる。 稲荷として長く生きても、自分はこんなにも人間の感情の機微に無頓着で、察しが悪い。 もっと喰らう時に、学んで来ればよかった。 でも、白石以上に心を奪われたことはなく、白石以外に愛しい人間などいなかった。興味を、持ちようがなかった。 「侑士、そういや、なんでまたおんの?」 謙也の声に、千歳も意識をそちらに戻した。この男が現れる時は、大抵なにかあやかしを追っている時だ。 「ああ…。千歳、お前、鬼火って知っとるか?」 「…ああ」 鬼火とは、小さな炎だけのあやかしだ。 動物や人の魂を喰らう。 手口も簡単で、呼びかけ、返事をした人間しか食らえないし、生命自体弱く、他のあやかしの餌になりやすい。 「それがこの辺でなんかやらかしとるらしい。三人、喰らわれて意識ないのが出た」 「うわ」 「居場所知りとうても、神出鬼没でな」 千歳も喰らったことがある。鬼火は。狐だったころに。 結構魂を抱えているのだ。おもしろ半分に取ってきた時を聞くと、人間は簡単に返事をするから、と話す。待ち人が来ない家の扉を叩けば、すぐ返事がある、と。 「……、」 「おい、千歳?」 「……蔵?」 一瞬で千歳の顔色が青ざめる。すぐ踵を返して走り出した千歳を見送ってしまってから、二人もすぐ追った。 迂闊にも程があった。 以前のように、自惚れた。 もう、自分はただの人間なのに。 助ける力なんか、皆無に等しい。 「蔵ノ介!」 階段を三つとばしでのぼって、たどり着いた奥の扉を開け放つ。 扉から少し離れた床に、倒れて動かない身体が見えた。 「蔵!?」 まさか、と駆け寄って身を抱き起こすが、身体が冷たい気がする。 揺すっても瞼は開かない。 「蔵!」 何度目かに呼んだ数秒後、背後の扉がすー、と閉まった気がした。 白石を抱きしめたまま、背後を振り返る。開け放ったままのはずの扉は閉まっている。 とんとん、と扉を叩く音。 鬼火だ。間違いない。 どうしたらいい。捕まえられるかもしれない。今でも。 「…―――――――――――――」 口を開いて、返事をしようとした。声が出る前に、扉の向こう側から、聞き慣れた一喝。 「返事したらぶっ殺すで!」 「っ」 千歳が思わず声を殺したのと同時、鬼火の悲鳴が響く。 炎が扉の障子越しに見えて消える。 忍足だ。退治出来ても、返事してしまっていたら、タイミング的にまずかった。 あの鬼火が白石の魂を喰らっていれば、取り戻せる。 意識のない手を掴んで、額に寄せた。 「……あれ?」 「あれ? て、なに、侑士」 忍足は心底、意外そうというか、まずいという顔で白石を見遣る。 「今、魂は吐き出されたから、戻っとるはずやけど……ちょお、見してな」 忍足が白石の傍に近寄り、布団に寝かされたその瞼を指で軽く開く。 「………あの、千歳さん?」 「え?」 「こいつ、……寝てるんデスケド。寝てるだけデスケド」 「…………………」 しばらく、謙也と二人で沈黙。のちに、叫んでしまった。 「「ええっ!?」」 「いやいや、ほんまに。寝てるだけ。貧血かなんか起こして倒れただけちゃうの」 「…」 本当に寝てるだけだとわかると、全身から力が抜ける。 一応結界などを施したあと、なんやかんや言ってから二人は帰る。忍足は、他の被害者の家に寄るのだとか。 「……」 音が途絶えてどのくらいか知らないが、伏していた瞼がそっと開いた。 「あ、れ…千歳?」 「…、貧血やないかって」 「…あ」 もそり、と起きあがった身体を支えて、頭を抱き込む。 胸板に当たる、頼りない背中。 「ごめんな」 「え? なんで?」 「…包丁ば、持つとこ見るんが怖か。怪我しそうで怖かよ」 「……」 白石はそれが、料理の時にいなくなる理由だと察して、急に笑い出した。 「沢山、食べてきたんちゃうの? 人を」 「あいつらは別勘定。…蔵だけは、…指軽くでも…怖い」 きつく抱かれて、白石は千歳の胸元に頬を寄せてもう一度瞼を降ろす。 「……でも、それで逃げられたら、困る」 それはあまりに、小さいが、拗ねていた。 「…ごめん。やけん、俺にも料理教えて。…覚えるから」 「……、そ、そんなんしたら、俺余計やることなくなる!」 「もうよかよ。俺におんぶに抱っこで」 「俺が嫌や!」 じゃれ合いの延長で嫌がる身体を押さえ込み、唇で声を塞ぐ。 甘いそれを何度かついばむと、すぐ声も消えた。 そこで、自分を見上げるのは、綺麗で、快楽を欲する瞳。 「…目、閉じて…」 逆らわない身体を布団に押し倒すと、おとなしく閉ざされた瞼にキスをした。 あの頃、快楽のなにかすら、知らなかった無垢な瞳。 それを染めたのは自分だった。 快楽の代わりに得ていた力を、生き甲斐を。 自ら求めていた頃とは、違う。 それだけを、ただ自分との交わりに見いだして欲しがるだけの、ただの瞳。 自分だけを映すそれには、もう誰も映らなくていい。 自分以外のなにも。 =========================================================================================== かなり前に書いた「蓮華の咲くほとり」の続き。 この千歳は世話焼きだけど、人間の感情に疎いからぽかをやる。 そしてこの白石はあらゆる意味で一人にさせられない人。 作成日時:2009/06/05 |