始まりはいつから

終わりは誰も知らない







---------------------------------------------------------------
笹百合の腕の中で
---------------------------------------------------------------






「あ」
 店から出てすぐ、荷を傍の大男に取られてしまい、白石は驚いたあと、綺麗に微笑んだ。
「千歳。それくらい持てる」
「よかよか。持つとよ。お前、力なかけんね」
「…そんなにあらへんかな…」
 千歳はない、と即答した。
 袴姿と、着物、そして洋装の入り交じる街。今は明治の時代。
 白石は絵描きだが、外見から異人と間違われ、あまりいい視線は向けてもらえなかった。
 そんなある日、白石の元に雨宿りに来た千歳。
 彼は悪狐神という悪い稲荷だったが、白石を病から救ったことで人になり、今は白石と共に暮らしている。
 病が癒えても生来の病弱さは拭えず、力もないに等しい白石は、なにかと千歳に庇われ、助けられた。

 白石が以前から借りている部屋に戻ると、今日買ってきた食材を仕舞ってから、奥に向かう。
 食事を作ろうとすると、千歳はいつも座敷の方に引っ込んでしまう。
 少し寂しいが、力仕事が出来ない自分は料理以外で役には立たないからと、包丁を手に取った。




 白石は今頃、自分のために料理をしてくれているのだろう。
 その度に奥に引っ込んでしまう自分は情けない。

(これで、沢山人間喰らった稲荷って言うんやから、情けなか…)




「アホやろ」
 千歳の顔に本を投げつけて、白石の幼馴染みで医師の息子の謙也は言う。
 彼は度々白石と千歳の部屋に顔を出す。
 純粋な白石の身体の心配と、あとは近況の心配。一応、千歳も気遣われている。
「やけん、…怖か」
 白石が絵に向かっている間、暇で、なにか要るものはないか聞いて出てきた。
 塗料などを扱う店の出先で謙也に出くわしたのは、何度目だろう。
「自分がやれや。そんなら」
「…料理は、出来んばい」
「…謙遜やなく?」
「うん」
「蔵ノ介から仕事を奪う口実でも?」
「なか」


 ……………………。


「ハっあ――――――――――――!? お前、何百年稲荷やっとんの!?
 人間食う暇あったら料理の五つか六つ覚えて来い!」
「声がでかか!!!」
 千歳が慌てて塞ぐと同時、謙也も自分の手で口を塞いだ。幸い、店先に人はいなかった。
「……お前なぁ」
「…やって、まさか、…」
「?」
 視線を逸らした千歳は、「暇やなか」と呟く。
「蔵ノ介を見とるんは好きばい。絵を描いてる時のあいつも、綺麗か。
 ばってん、…襲いたくなるけん…離れる」
「…あー。で?」
「……まさか、思わんばい。あの頃の自分は。
 …こぎゃん、一人の人間が愛しくて、堪らんようになるなんて……」
「お前ももう人間や」
 店先には屋根がない。突然ぱらつき出した雨に顔を上げると、二人の視界を不意に傘が覆った。
「てか、蔵が包丁持つのが怖いなら怖いて言うたれ。お前が離れる方があいつは泣くわ」
「あ、侑士」
 傘を差しだしたのは、眼鏡をかけた黒髪の青年。
 千歳達と同じく着物をまとった同じ年頃。
 あやかしの祓い人で、以前の千歳を敵視したが、今は理解者の一人だ。
「……そうやね」
 相変わらずいきなり現れて、的確なことを言う。千歳は怖くなる。
 稲荷として長く生きても、自分はこんなにも人間の感情の機微に無頓着で、察しが悪い。
 もっと喰らう時に、学んで来ればよかった。
 でも、白石以上に心を奪われたことはなく、白石以外に愛しい人間などいなかった。興味を、持ちようがなかった。
「侑士、そういや、なんでまたおんの?」
 謙也の声に、千歳も意識をそちらに戻した。この男が現れる時は、大抵なにかあやかしを追っている時だ。
「ああ…。千歳、お前、鬼火って知っとるか?」
「…ああ」



 鬼火とは、小さな炎だけのあやかしだ。
 動物や人の魂を喰らう。
 手口も簡単で、呼びかけ、返事をした人間しか食らえないし、生命自体弱く、他のあやかしの餌になりやすい。



「それがこの辺でなんかやらかしとるらしい。三人、喰らわれて意識ないのが出た」
「うわ」
「居場所知りとうても、神出鬼没でな」
 千歳も喰らったことがある。鬼火は。狐だったころに。
 結構魂を抱えているのだ。おもしろ半分に取ってきた時を聞くと、人間は簡単に返事をするから、と話す。待ち人が来ない家の扉を叩けば、すぐ返事がある、と。
「……、」
「おい、千歳?」
「……蔵?」
 一瞬で千歳の顔色が青ざめる。すぐ踵を返して走り出した千歳を見送ってしまってから、二人もすぐ追った。





 迂闊にも程があった。
 以前のように、自惚れた。
 もう、自分はただの人間なのに。

 助ける力なんか、皆無に等しい。

「蔵ノ介!」

 階段を三つとばしでのぼって、たどり着いた奥の扉を開け放つ。
 扉から少し離れた床に、倒れて動かない身体が見えた。
「蔵!?」
 まさか、と駆け寄って身を抱き起こすが、身体が冷たい気がする。
 揺すっても瞼は開かない。
「蔵!」
 何度目かに呼んだ数秒後、背後の扉がすー、と閉まった気がした。
 白石を抱きしめたまま、背後を振り返る。開け放ったままのはずの扉は閉まっている。
 とんとん、と扉を叩く音。

 鬼火だ。間違いない。

 どうしたらいい。捕まえられるかもしれない。今でも。

「…―――――――――――――」
 口を開いて、返事をしようとした。声が出る前に、扉の向こう側から、聞き慣れた一喝。
「返事したらぶっ殺すで!」
「っ」
 千歳が思わず声を殺したのと同時、鬼火の悲鳴が響く。
 炎が扉の障子越しに見えて消える。
 忍足だ。退治出来ても、返事してしまっていたら、タイミング的にまずかった。
 あの鬼火が白石の魂を喰らっていれば、取り戻せる。
 意識のない手を掴んで、額に寄せた。





「……あれ?」




「あれ? て、なに、侑士」

 忍足は心底、意外そうというか、まずいという顔で白石を見遣る。
「今、魂は吐き出されたから、戻っとるはずやけど……ちょお、見してな」
 忍足が白石の傍に近寄り、布団に寝かされたその瞼を指で軽く開く。
「………あの、千歳さん?」
「え?」
「こいつ、……寝てるんデスケド。寝てるだけデスケド」
「…………………」
 しばらく、謙也と二人で沈黙。のちに、叫んでしまった。

「「ええっ!?」」

「いやいや、ほんまに。寝てるだけ。貧血かなんか起こして倒れただけちゃうの」
「…」
 本当に寝てるだけだとわかると、全身から力が抜ける。
 一応結界などを施したあと、なんやかんや言ってから二人は帰る。忍足は、他の被害者の家に寄るのだとか。
「……」
 音が途絶えてどのくらいか知らないが、伏していた瞼がそっと開いた。
「あ、れ…千歳?」
「…、貧血やないかって」
「…あ」
 もそり、と起きあがった身体を支えて、頭を抱き込む。
 胸板に当たる、頼りない背中。
「ごめんな」
「え? なんで?」
「…包丁ば、持つとこ見るんが怖か。怪我しそうで怖かよ」
「……」
 白石はそれが、料理の時にいなくなる理由だと察して、急に笑い出した。
「沢山、食べてきたんちゃうの? 人を」
「あいつらは別勘定。…蔵だけは、…指軽くでも…怖い」
 きつく抱かれて、白石は千歳の胸元に頬を寄せてもう一度瞼を降ろす。
「……でも、それで逃げられたら、困る」
 それはあまりに、小さいが、拗ねていた。
「…ごめん。やけん、俺にも料理教えて。…覚えるから」
「……、そ、そんなんしたら、俺余計やることなくなる!」
「もうよかよ。俺におんぶに抱っこで」
「俺が嫌や!」
 じゃれ合いの延長で嫌がる身体を押さえ込み、唇で声を塞ぐ。
 甘いそれを何度かついばむと、すぐ声も消えた。
 そこで、自分を見上げるのは、綺麗で、快楽を欲する瞳。

「…目、閉じて…」

 逆らわない身体を布団に押し倒すと、おとなしく閉ざされた瞼にキスをした。

 あの頃、快楽のなにかすら、知らなかった無垢な瞳。
 それを染めたのは自分だった。
 快楽の代わりに得ていた力を、生き甲斐を。
 自ら求めていた頃とは、違う。
 それだけを、ただ自分との交わりに見いだして欲しがるだけの、ただの瞳。

 自分だけを映すそれには、もう誰も映らなくていい。

 自分以外のなにも。








===========================================================================================
 かなり前に書いた「蓮華の咲くほとり」の続き。
 この千歳は世話焼きだけど、人間の感情に疎いからぽかをやる。
 そしてこの白石はあらゆる意味で一人にさせられない人。

 作成日時:2009/06/05