学校の門の前、きょろきょろと周囲を見回す白石の頭が背後から叩かれた。
「お前、挙動不審過ぎ」
振り返ると若干意地悪い謙也の顔。
「やってしょうがないやん」
「そらそうやな。記憶取り戻してからの初登校やし。
ま、あんまり気張んな」
お前ほど周りは気にしてへんよ、と笑うからそうだろうかと思った。
「お、白石! 久しぶり!
体調はええ?」
廊下で会った小石川にそう訊かれた。
「久しぶりて、見舞いに何度も来てたヤツがいうか…?」
自宅療養中もひっきりなしに来てたんに、とつい突っ込む白石の頭を矢張り撫でて、鳴った予鈴にまたクラス遊び行くわと小石川は離れていく。
「大袈裟」
呟いてから、白石はふと目をしばたいた。
「謙也」
「白石、はよ。俺らもクラス入らな」
急かされて、あ、うんと頷きながら白石ははて?と思う。
当たり前だが、三年の教室はみな同じ階だ。
なのに、何故小石川は階段を上っていくのだろう?
移動教室にしては、荷物がない。
……………?
疑問をもう一個見つけた。
謙也の今の台詞、「クラス入る」?
…教室に入る、じゃないのか………?
「え? 財前? お前、自分のクラスは?」
教室に入った白石の前の席、我がモノ顔で座る後輩がいる。
「俺は特殊学科ですから」
「光天才やから」
…そうだっけ?
「白石もはよ! 授業始まるで」
席につけ、と謙也に急かされる。
そこで同じ教室に遠山もいることに気付くが、突っ込むのが面倒になってきた。
(…え、あ? 嘘や! 金ちゃんがそないすらっすら問題解ける筈ないやん!?)
黒板の問題を解く遠山に内心思い切り突っ込む。
「白石、お前、普段金ちゃんにもっと勉強しろ言うといていざ出来ると本音それってひどくあらへん? アホの子でおってほしいんか?」
「いや、そういうわけや……」
あれ? 今、俺声に出した?
いい加減白石も気付いていいようなものだが、悲しいかな気付かない。
これが、夢の中の世界だ、ということに。
その後も些細だが無茶におかしい事態を何度も目にしても、段々馴れてツッコミすら心に浮かばなくなった。
昼休み、中庭を通った白石の視界に、ベンチで居眠りする巨躯が目に入る。
(あ、千歳)
なんともなしに、近づいてその寝顔を観察してしまう。
寝てると、こいつ男前なんや。
起きるとギャップ激しいけど。
ぴくり、と瞼が開いた。
白石を認識して、寝ぼけた声が「おはよう」と紡ぐ。
「今は昼や。アホ」
笑って叱ってやると、そう?とふざけたことを言う。
「あ、千歳。飯、一緒に食べへん?」
以前のようにかけた誘い。当然、イエスが帰ると思った。なのに、
「あ、ごめん。先約があるばい」
「……そう、なん?」
胸がずきりと痛んだ。
たかが昼飯だ。たまたま友人との誘いが重なっただけだと自分を諫める。
「あ、ほな、明日、部活ないし」
「え、とごめん」
「…なんか、ある?」
「付き合うとるヤツと会う約束」
胸が軋む程痛むのに、それを「あ、そっか」と認めてしまった。
千歳には、もう付き合ってるヤツがいる。
俺が忘れていた間に、出来た、恋人。
それは、俺は不可抗力なのに薄情者とか、思ったけど。
千歳が幸せならいい。千歳に待っててくれなんて言えなかったんだから、仕方ない。
―――――――――――――のに、
千歳の口から出る、その新しい恋人の話に、胸が痛んで仕方なかった。
空から、いつの間にか降りだした雨が、ぽつりぽつりと地面を濡らす。
なんで、待っててくれないん?
俺、お前のこと好きで忘れたんやないで?
俺、お前が好きなんや。
なのに、なんでそんなあっさり鞍替えするん?
まだ、まだ―――――――――――――、
「白石?」
呼ぶ声。その間にも雨は強くなって、土砂降りになった。
濡れているのに、千歳はのんびりベンチに座ったまま動かない。
「…俺、…俺」
「なん?」
「…お前が、」
まだ、まだなに?
まだ、なんだっけ?
だって、早すぎる。
「好きや……」
暢気に見上げる顔がある。
その顔も、好きだ。
「なんでそんなあっさり鞍替えするん?
なんで待っててくれんの?
なんで俺にそない残酷に言うん?
なんで?」
雨が、強くなって木々はちぎれるように揺れた。
「なんで他のヤツ好きになるん?
なんで他のヤツ抱けるん?
俺しかいらんて言うて人落としといてあんまりやないか!」
「…白石」
「なんでそこに他のヤツがおるん!?
なんで、…。
そこは俺の場所や! 他のヤツなんか置くな!
俺だけ選んでろや!!」
見上げるばかりで、なにも言わない顔が不意に笑った。
「お前が、そういうこつ、俺が待っとうよ?」
「……?」
千歳は笑って空を指さした。
「お前が帰ってくるん、俺が待っとうよ」
―――――――――――――ああ、そや。
これは、
これは、夢や。
白石が飛び降りてから、一ヶ月半が経った。
受け止めた衝撃で怪我をしたが、先頃退院した千歳と違い白石はまだ病室にいる。
彼は、まだ意識が戻らないままだ。
「また、来とったん?」
病室の扉を開けて笑った謙也に、千歳は一度視線を向けただけだった。
「…あんま、気ぃ張るなや」
「…無理ばい」
「…せやな」
微笑で頷いた謙也の視線を背後に感じた。
でも、もう、なにも取り返せない。
助かったけど、白石ももう身体の傷は癒えたけど。
たまたま大事に至らなかっただけで、間に合っただけで。
「……もし死んどったらどげんすっとや…!」
「…そやな」
「なんでん、なんもわからんくせにあげんこつば…!
起きたら殴って責めちゃるばい。すぐ忘れっとやろ。ばってんすぐ忘れてもこぎゃんこつされて、言わずにおれなか…!」
「…うん」
「………、なんで」
それが、多分初めて千歳が他人に漏らした弱音。
千歳はずっと、笑っていた。
俺達の前で、白石の前で。
人一倍辛いのに、堪えていた。
後から来た財前たちが扉をくぐってくる。
一番最後に扉をくぐった小石川が、はたとベッドを見た。
「健二郎?」
謙也が不思議そうに彼を見て、それからハッとした。
寝台の上、眠っていた身体の瞳がうっすら開いている。
「白石!」
謙也の声に、ぼんやりと瞬きをした白石の瞳から一筋涙が流れる。
「白石…!」
一瞬、ひどく安堵したと全身で語った千歳がすぐ、表情を引き締めて立ち上がる。
その姿を目で追った白石の瞳が、一瞬後に青ざめた気がした。
「千歳!」
勢いよく起きあがった白石がそう叫んで千歳の胸の服を掴んだので、千歳はおろか謙也達も一瞬、反応が出来なくて。
「千歳! お前、新しい恋人って誰やねん!
財前? 謙也!? しらん女!?
そやなくて、なんで鞍替えすんねん!」
「……え? ちょ、白石? 待つばい。なんの話ね?」
何故白石が自分たちを認識できているかより、千歳はその聞き捨てならない発言に突っ込んだ。
「やってお前、俺が忘れてた間に他の男か女作ってたんやないんか!?
ベンチで言うてたやん! 新しい恋人の約束がって!」
「ちょ、ちょ、ちょ…おい、それ、絶対夢ばい!
現実じゃなかし!」
「……っ…捨てられんの嫌や!!!」
「捨てなかよ!!」
ぼろぼろに泣いて混乱した白石に即答した千歳を、白石がようやくまともに認識して見上げた。
「…………千歳?」
「うん」
「…ここ、病院?」
「うん」
「……なんで?」
「お前が自殺未遂した所為ばい!」
「………………………え?」
「つか、白石、俺達がわかんの? なんか忘れてることあらへん?
全部覚えとる?」
おそるおそる割って入った謙也に、こくりと頷いた。
「多分」
「多分……」
掠れ声になった謙也の声を問いただす前に、千歳にきつく抱きしめられた。
「死ぬほど安心した……」
「……、ごめん。…ごめん」
背中にゆっくり、手を回して謝ると、千歳が白石の肩口に顔を埋めて小さく嗚咽を零した。
ごめん。ずっと、多分待たせた。
何度も、傷付けた。
ごめん。
「…。千歳、俺のこと、好き…?」
「…当たり前ばい。他んヤツなんかいらん。……白石、は?」
「……、好きや」
診断結果、――――――――――飛び降りのショックが、あるいみ功を奏した、らしい。
それ以上はわからなくて、説明が難しすぎて、ついていけなかった。
けれど、今は軽い記憶障害に落ち着いている。本当の本当に。
忘れている人が数人いるかもしれない、程度。
後の日に、青学の手塚が見舞いに来てくれた。
落とされたキスに目を閉じると、あまりにしつこくキスをされて思わず目を開けた。
「なんや、しつこいな」
「やって、あん時ば、ほんに一生幸せなキスなんか出来んて絶望しとったばい。
堪能させなっせ」
「意外とそういうの大事にすんねなお前…」
気恥ずかしくてぼやいたら、真剣に見つめられた。
「黙って」
耳元で、いつもより低く囁かれる。
反射的に目を閉じたら、一番優しいキスが降った。
2009/01/19 THE END