雨音

静寂の中の声

五月雨の森





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五月雨の蒼い社-もり-
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「師範も、出会ったらわかる」


 そう、言ったのは隣町に住む謙也だった。
 彼は、医者の息子で、その医者にかかったことが、昔あった。
 その時の縁だ。石田の住む町に、大きな病院はない。

 街の隅にある、戦災孤児や口減らしの子供を預かる施設。
 石田は週に四回、そこに子供達の面倒を見に行く。
 収入源はあるし、そこでの仕事はほとんど、石田がやりたいからやっているだけだ。
 施設のオーナーは、石田を歓迎していた。




 雨の日だった。
 最近は、暑くて滅多に雨が降らない。
 たまの雨なら心地よいものだ。もっと降ってくれないかと思う。
 子供達も、暑がっている。
 施設から、自宅に帰る途中、考え事の所為で普段歩く道を外れてしまっていたと、人通りのない小道の真ん中に来てしまってから気付いた。
 戻ろうと踵を返す前、なにかが聞こえた。
 よく訊くと、口笛だ。
 誰かいるのかと、近くを見渡すと、丁度傍にあった木々の向こうに、壊れかけた社があった。
 その下に、雨に濡れながら、口笛を吹いている子供が居る。
 石田は迷わず近寄ると、子供に声をかけた。
 子供はびっくりした様子で石田を見上げる。怯えて逃げてはいかない。
 子供が怯えることもある巨躯だ。石田はそれにホッとした。
 近くによって見ると、十三、四歳の男の子。
 薄い色の髪に、蒼い目。異人ではないが、近い姿。
「どないした?」
「え?」
 石田の質問に、子供は口笛を止めて、首を傾げた。
「こないなとこに一人で」
「え? あー…遊んでた」
「家は?」
「あるで」
 子供の無邪気な調子の言葉に、石田は安堵した。
 一瞬、行くあてのない戦災孤児か口減らしかと思ってしまった。
「すまん」
 それを謝ると、子供は気持ち悪そうに顔をしかめた。
「なんでいきなり謝られなあかんの?」と。
 それもそうだ。説明してから、再度勘違いしてすまないと謝ると、子供は笑った。
「おじさん律儀やなー。子供なんか誤解させとけばええんに」
「いや、一応そういう立場やしな……。やなくて、誠意やろう」
「……そうなん?」
「そうや。子供やから子供扱いしかせんでええっちゅうんは、大人の傲慢や。
 甘やかすとこは、甘やかしてやらないかん義務もあるが」
 羽を伸ばさせて、ただ楽しいことに没頭させてやるのが、大人の義務だ。
 ただ、子供だから意見を尊重しなくていい、というのは傲慢になる、と石田は真面目に言った。
 子供はきょとん、としたあと、大仰に吹き出した。
「おじさん、あんた頭かったいで! 石頭や!」
「よう言われる」
「せやけど、いい大人なんやな。多分」
 さらっと少年が付け足した「多分」が妙に引っかかったが、気にするトコじゃないんだろうと石田は流した。
 薄い、黒の着物を着ている子供。身長は倍近く違う。
「家まで送る」
「いや、ええ」
「そこは、甘えるんが仕事やぞ。子供の」
「………」
 子供は、「変なおっさん」とむくれた顔で言った。
「…名前は?」
「……健二郎」
「儂は石田銀や。…上の名前は」
「教えてやらん。意見の尊重が大事やておっさんが言うたで」
 健二郎は得意げに言った。まあ、家まで送れば問題ないだろうと、石田は問いつめなかった。
 小さな手を掴んで、家はどこだと問う。
 こっち、と健二郎は石田に手を委ねたまま、歩き出した。






 あの子供−健二郎は今どうしているだろう。
 雨が降るたび、石田は思いだした。
 そんなに気になるのは、彼に出会ったあの日、結局彼の家も、彼の家族も見なかったからだ。
 街で知り合いに話しかけられ、一瞬余所見をした間に、彼はいなくなっていた。
 やはり、家はなかったのではないか。今頃死んでいないかと、気にかかった。
「師範ー」
 施設の洗濯物を取り込んでいた時だ。聞き慣れた声が石田を呼んだ。
 振り返ると、謙也が居た。
 使いで来たついでだ、と彼は笑った。


「へえ、それで気になって?」
「ああ、あんまし寝覚めがようない」
「てか、師範のそれは単に子供好きなだけやんか…」
 出会った日、開口一番「師範て呼ぼう」と言い出した謙也は、以降ずっとこうだ。
 謙也の人なつっこさは、あの子供にも似ているな、と今更気付く。
「大丈夫……て言い切ったらあかんな。俺も探してみる」
「すまん」
「『健二郎』って子供やろ? 十三歳くらいの」
「ああ。で、目が青い」
「わかった」
 謙也は縁側から立ち上がると、縁側に置いてあった茶を一気に飲んでから、ふと服に突っ込んでいた紙を石田に突きだした。
「?」
「週末にやる花火大会。子供たち連れてきたら?」
「ああ。ありがとう」
 石田は柔らかく笑って受け取った。





 最近雨がよく降るな、と謙也は最後に言った。
 少し前まで、全然降らなかったなと、石田も思う。
 降るようになったのは、そうだ、健二郎と出会った日からだ。

 そんなことを考えていた所為ではないだろうに、気付くと石田の前にその健二郎が立っていた。
 ここは変わらず施設の庭で、謙也が帰ってほんの小一時間。
 彼はどうやって知ったのか知らないが、石田の前に立って、考え事にふけっていた石田を見つめていた。
「健二郎!」
「え? わ、なに」
 突然我に返って立ち上がり、自分の手を掴んだ石田に健二郎はびっくりした様子で身を退いた。逃がさないように更に腕を掴むと、健二郎は痛いと訴える。そこで、やっと間違えたと悟って手を緩めた。
 石田は彼の手を優しく引くと、縁側に誘導する。意図がわかったのか、健二郎も逃げずにそこに座った。
「ようわかったな」
「? ここが?」
「ああ」
「すぐやで。石田っていうでっかいおっさんわかるかって人に訊いたら」
 そうか、見た目ですぐわかるか、自分は、と石田は思ったが特に感想はなかった。自分の外見に不満はないし、それで健二郎がわかったなら幸いだ。
 石田は本題を切り出した。
「家は?」
「ある」
「ならなんでいきなりおらんようになった」
 あの後、健二郎はどうしているかずっと心配だったと言うと、健二郎はぽかんとしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「…健二郎?」
 その笑顔が子供ながらに綺麗で、またあまりにも切ないくらい、嬉しそうに笑うから、胸が痛くなった。
「おっさん。また来てええ?」
「あ、ああ。家は?」
 再度繰り返す。健二郎は、「ここに来とればええやろ?」と誤魔化した。
 たまに来ていれば、困ってないってわかるんだから、と。
 そうじゃない。
 生きていれても、安全だとはわからない。
 幼くとも働かせて、ご飯もろくにやらない大人がたくさんいる。
 彼のあの笑顔があまりに儚く見えて、逆に不安になった。
 不安と不満をない交ぜにした石田の顔を見て、健二郎は黙ったが、すぐ石田の手元の紙を掴んだ。
「はなび?」
「ああ。うちでも行くことに……お前、来るか? 一緒に行こう」
「ほんま!?」
 健二郎があまりに勢いよく、今度こそ子供らしく嬉しそうに微笑んだから、石田は大きく頷いた。連れていってやるから、行こう、と。
「うん!」
 明るく、頷く彼の指を握った。指を切った。約束だと。
「あ、お……銀」
 いつものように「おっさん」と言いかけて、健二郎は言い直した。手を背中に隠すようにして、笑う。また、切なくなるような笑みで。
「そん時な……一個、お願いしてもええ?」
「ああ」
 叶えてやりたくなった。だから、石田は頷いた。
「肩車してや。花火見るとき」
「…わかった。約束する」
「………おおきにな」

 何故だろう。そう、礼を言った彼は、子供には見えなかった。
 自分より、ずっと大人の、達観したあきらめのような、願いのような。
 そんな、礼だった。







 花火大会が迫ったある日、街でまた謙也に会った。
 最近、よく会う。訊くと、蔵ノ介のとこに居着いたヤツの所為であまり会いに行けないと零す。蔵ノ介とは、彼の幼馴染みらしい青年。石田は会ったことがない。
「そういや、この前話しとったやんか」
「?」
「子供や。健二郎っちゅう」
「ああ」
 それは見つかったから、いいと言おうとした。やめた。
 彼の身辺に不安を感じるのは、今もだからだ。
 やはり、無理矢理働いているのだろうかと不安になる。
「あれ、人間やないと思う」
「………」
 石田は返す言葉を失った。謙也は本気の顔をしている。
 彼の従兄弟に、祓い人がいると訊いた。
「誤解せんといてな。悪いもんちゃうよ。
 ただ、そういう清浄なとこにしかいられんあやかしやと思う」
 あやかし―――――――――人ならざるモノだ。
 謙也は悪いあやかしではないと言った。
 祓い人の従兄弟に訊いたら、以前見たことがあるあやかしだろうと答えが返ってきたという。
「十三歳くらいの、黒い着物を着た、青い目の子供。
 …侑士が言うたんと同じや。
 雨を司る、雨童や」

 彼と出会ってから、雨は降るようになった。
 彼の家族も家も知らない。

 背後で草履の音がした。振り返ると、健二郎がいつの間にかいた。
 謙也は気付いていて、そう確信したのだろう。彼に向けた言葉だったのかもしれない。
 健二郎は、無表情だったが、石田の視線に潜む恐怖を読みとったのか、笑った。
 ひどく、悲しそうな笑み。

「約束、ナシな。“おっさん”」

 そう言って、背中を向けて駆け出した。
 戻った呼び名。悲しそうな顔。
 一瞬でも恐怖した自分の愚かさを呪った。
「雨童はええもんや。人に幸を運ぶ、座敷童の眷属。
 …綺麗な、神様や」
 あやかしっていうと、印象悪いけどな、と謙也は言う。
 背中を叩かれた。逆らわず、走り出した。追いかけた。







 彼のいる場所なんか、きっとわからない。
 彼は人じゃないから。
 でも思い当たるのは、たった一つ。初めて出会った社。
 雨のおかげか、そこには紫陽花が咲いていた。
 雨の下に立つ、姿は間違いなく健二郎だ。
 ただ、さっきまで自分が知っていた十三歳の姿ではない。
 自分と同じくらいの長身の二十歳くらいの“男”の姿。
 石田の呼びかけに、疲れたように振り返る。
「約束、ナシやゆうたろ。おっさん」
 自分にぶつかる声も、以前のように高くはない。
「ナシやない。儂は、ナシや言うとらん」
「俺は人ちゃうねん。化け物やねんから。
 痛い目見る前にはよ去ねや」
「綺麗な神様やて、訊いたぞ」
 石田の言葉に、健二郎は驚いたが、すぐ冷たく「訊いただけやろ」と返す。
「俺がそうとはいえへん」
「儂はようしらんが、あやかしの方が、人より誠意があると思う。
 眷属によって、介在しない感情もあるて」
「……?」
 謙也に訊いた話だが、それが全てではない。石田の亡くなった父母も、それに詳しい人たちだった。
「座敷童とか、清いあやかしは、悪意の介在しない生き物や、てな」
 お前は、それやろう、と、石田は言った。健二郎の方が、言葉を忘れたように黙り込む。
「雨が降って助かった。子供が喜ぶ」
「……それしかでけんわ」
「充分や」
「……、人やないねんぞ?」
「わかっとる。やから、優しいんやろう」
 暑さを、地を潤す雨は、ただただ優しかった。
 決して、嵐に変わらない、優しい雨。
 だから、彼もそうだ。
 石田が一瞬瞬きしたあとには、そこには前と同じ、幼子の姿があった。
「…全くないわけやない。敵意向けようとか、身を守ろうとするとああなる。
 …綺麗ばっかやない」
 子供の高い声が、まだ迷うように石田にぶつかる。
「誤解させて、怯えさせたんは儂や。身を守るのは、悪いことやない」
 大股で近寄った石田に、彼は一歩だけ下がった。それだけだった。
 信じてみようと思ったのか、それ以上逃げない。
「約束はアリや。行くで、健二郎」
 身をかがめて眼を合わせて、そう石田は強く言った。迷ったあと、彼は微かに微笑んだ。
 やはり、子供らしい明るい笑みで。
「しゃあないな。…肩車してや? 銀」
「わかっとる。約束や。…とりあえず、うちに来い」
 小さな手を握って、そう言った。
 健二郎は今度は、とても綺麗に微笑んだ。嬉しいと、そう。





 師範も出会ったらわかる。

 そう謙也は言った。

 運命を変えるほどの、たった一人の誰か。

 そうしたら、きっと立場も関係なく、回り出す。

 運命が、優しく軋みながら。









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 かなり前に書いた「蓮華の咲くほとり」のぎんふくサイド。
 小石川はあやかし現在進行形だし、まだ恋人って仲じゃないしで、大変な二人。
 蓮華とは謙也で辛うじて繋がっています。

 作成日時:2009/07/30