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禁断の果実/三匹のヤギとガラガラドン
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木手は誰にでも優しい。
敵には厳しいけど、味方にはとても優しい。
甘やかさないけど、時に甘やかすような優しさを見せられた時、身体の奥が弛緩するように落ち着ける。
気づけば、みんな彼を頼って。
彼は“ゴーヤ食わすよ”なんて言いながら許して笑う。
俺や凛にとっては、冗談じゃないのだが、結局どんなこともその一言で許してしまう木手は、誰より優しいと思う。
怒りを後に引きずらないし、悲しみがあってもそれは見せずに隠してしまう。
それを。
―――――――――愛(かな)しいと、最近感じる。
木手は人がずるいと、言っても笑ってたしなめる。
既に大人でいるような、子供を注意するようなところがある。
それは俺だけにではない。といっても、知念は端からそんなことはしないし、新垣も不知火も要領がいい。田仁志が怒られるのは、主に体重が増えた、とかそういうことで、俺たちのような理由じゃない。
結構くだらなかったり、その実真剣なことで怒られる主な人間は俺と凛だ。
木手にある日、俺を見張ってない? と聞いたら、あっさり見張っている、と言われた。
文句を言ったら、キミと平古場クンは要注意なんですと言われた。
木手曰く、俺か凛がそこにいて、片方が田仁志を呼ぶと、つられて不知火と新垣も来る。
最後に知念が来て、全員で固まって部活から脱線する。
だから要注意らしい。
でも、そんなことで見張られているのはつまらないけど。
なんでだろう。
最近、その視線は、俺が気づくと逸らされる。
それに、意味もない苛立ちを感じた。
呼べば届く距離にいるのに―――――――――今日はキミが遠い。
「……………裕次郎。もう起きろよ」
平古場の呼ぶ声にも、甲斐は机に突っ伏したままだ。
「先生くんぞ? 次晴美だぞ?」
「……しんけんへこむ……」
「……あー、まあ気持ちはわからなくもない。けど起きろ。お前が寝てると俺もとばっちりもらうんだ」
「…そういう理由かよ」
け、と唇をとがらせた甲斐に、平古場がべしぃっと教科書で頭をはたいた。
「っで! なにするか凛!」
「いーから起きろ! 晴美くんだろ!」
がたんと二人して立ち上がった背後で、聞き慣れた肩に竹刀を当てる音。
じょば、とイヤな汗がでた。
「もう来とるわ。いい度胸だ平古場、甲斐」
「……は、晴美…」
「今すぐ廊下立っとれ! プラス部活の時間に腕立て千回な」
晴美の鬼ー! と叫びながら、平古場と甲斐は廊下に飛び出す。
なにやってるんだか、と一番後ろの席で知念があきれた顔で見送った。
「で、まだ廊下に立ってるの」
移動教室の帰りの木手が、二人を見てそんな風に言った。
「だって晴美が次の授業までって言うから」
「…しんけんへこむ〜。うぇええん」
「で、甲斐クンはなにそんなに落ち込んでるの」
「つきあって半月の彼女にふられたんだと。よくあることさ」
「よくあるっていうな凛!」
「馬鹿だよなー裕次郎は。端から告白受けなきゃいーんさー」
「だってー」
今すぐ蹲りたいという風情の甲斐に、木手はふうんと言葉を漏らしただけだった。
「あ、なに木手。それだけ?」
「他に俺になにを言えと?」
「あーわかる。なに言っても傷えぐるだけやっし」
「凛〜」
「第一、キミ、そこまで好きだったわけじゃないでしょ?」
木手にそう言われれば、まあ、そうなのだけど。
「でも半月でごめんなさいはへこむ」
「だから、つきあわなきゃいいんだって最初から」
平古場はのんきにそう言う。
けど、そうじゃないんだ。
ああ、まただ。木手は関心があるふりして、余所を向く。
なんでだよ。こっち見ろよ。
駆け寄ってきた知念となにか話している、木手の背中をにらみつける。
俺は今はまだ、その気持ちなんてわかってないのだけど。
そっぽ向く、彼の視線がイヤだ。
もう俺の愚痴など忘れた顔で笑う、キミがこっちを見ない。
「……気のせいだったんかなぁ」
ぽつり、呟く。
平古場が、なにが? と聞いていた。
三匹のヤギとガラガラドン。
谷の怪物ガラガラドンに一匹目の子ヤギは言います。
“次に来るヤギがおいしいです。だから見逃してください”
谷の怪物ガラガラドンに二匹目のヤギは言いました。
“次のヤギがおいしいよ。だから僕はおいしくないよ”
そして二匹のヤギを見逃して三匹目を待つガラガラドン。
しかし三匹目のヤギはガラガラドンを越える巨大な怪物ヤギでした。
三匹目のヤギに吊り橋を揺らされて、ガラガラドンは谷の底へ逃げていきます。
そして三匹のヤギは、見事吊り橋を渡り、旅を続けるのでした。
借りた絵本に描かれたガラガラドンは、稚拙な絵で、小さな子供でも怖がらないだろ、という姿だった。
谷の底に逃げたガラガラドンは、またヤギを待つのだろうか。
また、騙されるのだろうか。
そして今日も俺は明日を忘れる。
可哀想なガラガラドン。物語の神様はヤギは救うのにガラガラドンを救わない。
騙されたままのガラガラドン。お前の視線に騙されたままの俺。
お前は今日も俺を見ない。だから俺は今日も明日を忘れる。
明日の希望を信じられない。明日もヤギが来ると信じるガラガラドンは、きっと騙されたままの怪物。
明日もお前が俺を見ると信じていた俺は、その怪物に似ている。
今は信じられない。
“キミを見張っていれば、収集つくからね”
そのとき、本当はうれしかった。
注意でもなんでも、お前が俺を見ている。
嬉しかったのに、お前は俺を見ない。
もうヤギは通らないよ、と明日の希望を待つ怪物に絶望を投げたまま、視線をあさってに遠ざける。
可哀想なガラガラドン。もうヤギは通らない。
可哀想な俺。もう、キミは俺を見ない。
だから俺は、明日を忘れる。
「甲斐」
うたた寝していたわけではないのだが、絵本をぶらさげたまま机に突っ伏している様はそうとしか見えないらしい。知念の声に顔を上げると、部活? と聞いた。
「いや、今日はミーティングだけ」
来週には新入生入ってくるから、それじゃないか? と知念は言う。
ああ、そっか。もう三月だ。
明日を忘れる俺は、そうやってすぎる月日を忘れる。
もうすぐ三年生になるけど、俺はガラガラドン。谷の底の置き去りの怪物。
きっと明日も、あいつは俺を見ない。
「知念クン、甲斐クンは…、ああ、起きたの」
噂をすれば(してないけど)木手の声だ。
「今からつれてく」
「そう。俺はあと、新垣クンに声かけなきゃ」
そうやって、お前は今日も俺を見ない。
「……甲斐」
廊下に消えた木手を見送って、知念はぼそりと呟く。
知念の寄りかかった、机がぎしと鳴る。
「いい加減、子供じみたことして永四郎をいじめるな」
「……は? ぬーが? してないってそんなん」
「嘘だろ。普段彼女なんか作らない癖に。わざと今回だけ作って、」
「それに木手がなんの関係が」
「永四郎がお前を見なくなったの、彼女が出来てからだ」
廊下の向こうの窓の日差し。まぶしくて、思わず顔を上げた。
置き去りのガラガラドン。けれど、ヤギはもう通らない。
けれど、食べるぞ、と言わなければヤギは逃げなかっただろうか。
騙さなかっただろうか。
置き去りのガラガラドン。最初から、一緒にいたいと言えば、ヤギは逃げなかっただろうか。キミは俺を、騙さなかっただろうか。
ミーティングが終わると思い思いに帰っていった部員たちを見送るでなく部誌を開いて、そこで木手は甲斐の方を初めてのように見た。
「……帰らないの?」
「ん」
好きだ。けど、男同士で、木手は俺を好きになりっこないって思ってた。
だから、ちょうど告白してきた女の子を代わりにした。
この子を好きになれれば、俺は笑えるんじゃないか。
置き去りのガラガラドン。でも最初に騙したのは誰?
“私のこと、好きじゃなくてもいいの”―――――――――都合のいい告白。
最初に騙したのは、誰。
「用事、ないなら早く帰りなさい」
「……木手」
きっと、きっと、俺はお前より自分が大事だった。
苦しみたくなくて、最初に騙したのは俺。
お前より彼女が好きなんだ、と。お前を騙したのは、俺。
「……なに」
「こっち見ろよ」
「なんで? そういうなら、キミが書きなさいよ部誌」
「逃げんなよ」
思ったより怒気がこもった。木手の指先が、ふるえたように止まった。
「こっち見ろよ」
ペンが離れた指先が、一瞬また震えて、机におかれる。
その瞳はまだ、俺を見ない。
「…木手」
「部誌」
木手は立ち上がると、鞄を持って甲斐の隣を通り過ぎる。
「キミが出しておいてください」
その、置き去りの言葉。また置き去りにされるガラガラドン。
そんなのはイヤだ。もう食べるぞなんて言わないから。
―――――――――こっち見て。
「甲斐ク…」
背後から抱きしめた腕に、腕の中の身体が竦んだ。
「……行くなよ。逃げんなよ。ここにいろよ」
「……………そう、彼女に言えば、ふられなかったんじゃないの?」
「お前が逃げるなよ!」
叫ぶと、木手が小さく息をのんだ。
「……ここにいて、俺のこと見て」
お願い。
逃げないで。
「………どうして」
こぼれる声に、腕の力をこめた。
「……俺は、お前が好きだよ」
身が震えたのがわかった。
「好きだ。逃げるな。ここにいて。……俺はお前がいればいい」
嘘、と呟く唇を引き寄せて、重ねた。
その頬を、涙が伝う。
「…嘘…信じない。……キミのすることなんか」
信じたら、痛くて死んでしまう。
そう呟く、愛(かな)しい人。
ああ、俺は気づかないうちに、お前をどれだけ傷つけたんだろう。
それなら繰り返すから。お前が信じられるまで。
「好きだ。…木手」
キミが、安心して俺を見られるまで。繰り返すから、こっちを向いて。向こう行かないで。名前を呼んで。
「……っ」
こぼれる涙を拭うでなくもう一度口付けた。
お前は覚えていないかもしれないけど。
「キミが甲斐クン?」
「……」
桜が踊る小学校の庭。
ほほえむ顔が、眼鏡を外して声で伝える。
「初めまして―――――――――」
まっすぐ、俺を見る瞳に。憧れは自然、胸に落ちた。
お前が、教えてくれたんだ。
人を見つめるということ。人を信じるということ。
人を、好きになるということ―――――――――。
だから、今度は俺が繰り返す。
お前が信じるまで。
二人の矢印が、向き合うまで。
「あぢぃ〜」
炎天下の蒸し風呂状態のコートから避難して、甲斐は木陰に座り込む。
凍らせたペットボトルを首に当てて、もうすぐ来る夏の大会を思う。
「大丈夫?」
声を見上げる。
逆光で見えないが、木手だ。
「無茶なペース配分で試合したでしょ」
「あれくらいヘーキ。一回どのくらい飛ばしても大丈夫か試さないと」
「まあ、そうだけど日射病起こさない程度にしなさいよ」
「大丈夫。な、目指せ全国制覇、だし」
「…そうだね」
笑った木手が側に座った。
近づく夏は、俺たちの夢をつれてくる。
「…」
きっと勝つから、その先に夢がある。
「木手」
それでも、今はここにいるキミに。最上級の愛を込めて。
「好きだ」
肩を寄せて、口付けて。馬鹿ですか、と言いながら笑う、キミを愛そう。
もう逸らされることのない視線を。
ガラガラドンは、もう騙されない。
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