「どうでもいいんですけど、部長ってちっちゃいですよね」 部活の終わった部室。二年の財前が零した何気ない言葉に、固まったのはその当の白石蔵ノ介だけではなかった。 まるで自分のことのように反応して、ロッカーにしまう筈だったタオルを落としたのは千歳だ。千歳は白石と付き合っている。 「……あんな、財前。俺のどこが小さいねん。それは金ちゃんやろ。俺は平均身長越しとるで」 「そうですけど、なんていうか………並ぶとちっさいんですよ、部長」 二回目。千歳にはこの後輩が何故そんなことを言おうと思いついたのかがわからない。 「誰と」 「銀さんとか。あと、なんつーても部長、千歳さんとよくおるし。千歳さんと一緒におんの遠目で見てるとしみじみ“あー部長って小さいんや…”って思うんですよ」 その一言で、傍目にはわからないが白石の堤防が決壊したことが千歳にはわかった。 副部長の小石川が部誌の明日の欄を開いて、天気のところに“台風”と書いた。彼もわかっている。 白石は基本、事なかれ主義というか、あまり陰口の類を気にしない。細かいことにこだわらない。財前が一度、彼を指して人生サボるのも大概にしてくれと言っていた。彼は適度に役目をサボっている。しかしそれで部活が上手くいっているのだ。彼のやり方はサボっているというより、怪我をするまでは子供の好きにさせようと公園で見守る親のようだと以前思ったことがある。しかし、それは部活に関してだ。 白石は何故か、変なところで度量が狭い。それが全部、自分に関係することだと千歳が気付いたのはそう遅くないころだ。 付き合うにあたって、抱かれる側、ということにすら納得するのに時間がかかった白石は男としての自尊心がなにげに高いらしく、そういう行為で一度妥協した以上、それ以上妥協したくない―――――――――つまり負けたくない。という意識が先行する。 身長で既に千歳には負けていた白石だが、こうきっぱり言われるとやはりおもしろくないらしい。 「えー? 白石のどこが小さいん?」 金太郎が場の空気を読んでいないのか、自然緩和するようなことを口にする。 「そやなぁ……ちゅーか白石ってうちの部では四番目に身長高いやろ? 一番が千歳で二番が師範で、白石身長確か180近いやろ。十分高いやん」 一氏がフォローするでなく言った。小春がそうやなぁと頷く。 「てゆーか、俺、白石にこれ以上高うなって欲しないんやけど」 控えめに意見したのは小石川だった。何故、と聞くと彼は。 「やって、俺ただでさえ副部長の立場ないやんか。ほとんど白石一人でまとめよるから。 唯一勝ってんの身長だけやねん。身長まで負けたら俺の威厳粉々や」 真顔で言うと、白石の肩を両手で掴んで小石川は切々と言った。 「頼む白石。財前の言うこと真に受けてこれ以上身長高うなってくれんな。 そうなったら…俺もう自分の隣にたてる自信あらへん」 最後は涙ぐんでまで訴える小石川に、白石は先ほどの怒りが余所へ行ってしまったらしい。半笑いを浮かべて、そらこれ以上高うならんと思うけど、泣かなくても。と言った。 「ワイも白石は今のまんまでええわ〜」 「おお金太郎さん。その心は?」 「あんな、ワイ抱きつくとちょうどええの千歳なん。けど、千歳と話してんのは首疲れるんや。銀と話すんも疲れる。白石やって今でも充分疲れるんに、これ以上高うなられたらワイ首骨折してまう」 金太郎の嘘のない単純な意見に、白石は何故自分があそこまで怒ったかもどうでもよくなったらしい。金太郎の頭をなでて、ほな千歳の膝乗って会話したらええやんと笑う。 「そやけど」 「なんや嫌なん? 金太郎」 「ワイも男やで? 中学生にもなって男の膝に乗るのは嫌や」 「そうやな〜すまんな金太郎」 「まあでも、白石が膝に乗ってるよりは絵になるけどな。金太郎さんが膝」 と小春。彼に他意はない。彼は白石と千歳がそういう仲だと知っているので、単純にそう思っただけらしい。 「千歳も金太郎さんなら膝乗せても微笑ましいやろ?」 「そうばいね……あんま重かないし」 どうやら話題の矛先は金太郎に移ったらしい。白石は汗まみれの上着を脱いで鞄に常備しているビニールにつっこんだ。 「けど千歳さんが遠山乗せてたら先輩後輩っていうか、親子に見えません?」 「光上手いこと言うなぁ」 「遠山かて、どうせ強制で膝乗せられるんやったら千歳さんの方がいいやろし」 目線高うなるから。 「うーん……どうしてものらなあかんのん? ならやっぱ銀か千歳がええ」 「やろ?」 「そやーあ、前千歳にしてもろた肩車すごかったで!」 「普通最初は怖がるんやけど、金太郎さん全然怖がらなかったもんなぁ」 「あれ高さ二メートル越えますもんね」 「普通怖いって」 「でも千歳さんとしてはどうせ膝乗せるなら部長の方がいいでしょ」 「ああそうばいね」 言ってから、部室の空気が再び凍ったことに、誰もが遅れて気付いた。 あまりに自然に会話に組み込まれたので、自然に答えてしまったが(いや嘘ではないのだが)。 「………ってこら財前なに言わせんね」 「律儀に答えたん千歳さんでしょ」 「わかった。自分単純に今日も俺と白石に負かされたんが悔しいから嫌がらせしてるだけとね?」 「……」 図星らしい。千歳の言葉に、財前は半眼になった。 「てゆーか、俺を天才とか言い出した馬鹿誰ですか。部内に勝てない怪物が二匹も三匹もいるんに」 あ、財前がやさぐれた。と小石川。白石は気にしていないのか、着替える手を止めない。 (誰も言わない。千歳さえ言わないけど) 「自分、俺んこと膝のっけたかったんか」 帰り道で寄ってくかと誘ったら、白石は意外なほど素直に千歳のマンションにやってきた。 携帯で家に、今日ダチの家泊まってくわと言って切ってから、そう言った。 「…しっかり聞いとったとね?」 「あの狭い部室で聞き逃すかいな」 「…逆に聞くけん、白石は俺ば膝乗りたい思っと?」 「………」 速攻、乗りたくない、と返事が返ってくる。それを予想していたので、白石のらしくない沈黙に、千歳は振り返った。彼はうつむく姿勢で、鞄を降ろさない。 「白石? ちょお、顔あげてみんとや?」 言われて、白石は素直に顔を上げた。それが今にも泣きそうだったので、千歳は胸を突かれた思いで抱きしめた。 「なんて顔しとうね…。そげん嫌やったとか」 白石は答えない。無言で千歳の背中に腕を回した。 普段、こういうことに積極的ではない白石がまるで縋るように抱きついてくるので、千歳は腕の力を強くした。 「なあ、俺、白石より高くてよかった思っとうよ?」 「……なんで?」 そこで初めて返事があった。拗ねてはいない。 「腕とか身体、白石よりでかいんは当たり前とや」 「…それがなんや」 「だけん、こげん抱きしめたら、白石の全部閉じこめてやれったい」 本心だった。自分が彼より大きくてよかったと思っている。 心は見えないから、見える身体の全部くらい、余すところなく包んでやりたい。 「…………なんで」 白石はまた質問を繰り返した。参った。 白石は普段明るい分、一度悩むと悩んでいる内容を教えてくれない癖、どんどん落ち込む。 「なんで俺ら当たり前なんや」 徹底的に甘やかすしかない、と思った千歳に聞こえた声は、質問の“なんで”ではなかった。 「……え?」 「なんで部内で、膝乗せるとか、当たり前に言われる」 「…そら、みんな知っとうし」 「なんで当たり前に言う。なんで当たり前に受け止める。部内で例えそうやかて、親の前行ったら俺らの関係は悪や」 泣き出しているんじゃないかという声で矢次に言った白石の言葉に、千歳は、ああそれでと納得した。 多分、ずっとそんなことを悩んでいたんだろう。部内で当たり前だからって、親の前、社会の前では自分たちの関係は非難されるべきもの。当たり前に思うようになったら辛い、と。 「……白石、ちょっと離れんね」 言って返事を待たず身体を離した。その瞬間、白石は今まで千歳が見たことがないほど、悲壮な顔をしていた。別れよう、と言われたと思っている。彼は残酷だ。先ほどお互いの関係を試すようなことを言っておいて、いざ離れるようなことを言われたら今すぐ死ぬんじゃないかと思うほど悲劇になる。 そして、自分の胸のうちが歪んだ愛情に満たされるのを千歳は感じた。 (ああ、彼はまだ、俺から離れられない) それほどには愛されている。そう思えて、一人絶望したような顔をしている白石の前で安心している自分が、一番ひどいと思った。 そのまま、その表情を見ない振りしてベッドに腰掛けた。 白石とまた向き合う。 「おいで」 と招いた。 白石は、別れるという話しをしていたんじゃないのか、という顔でこちらを見る。 「おいで」 別れるとか言ったつもりは本当にない。ただ、ベッドに移動したいから身体の接触をいったん離そうと言っただけだ。それでも、参っていた白石にはそれだけの効果があった。 今望めば、彼はなんでもする気がした。 「別れたくないんだろ? だったらおいで。自分から俺の膝の上おいで」 わざと標準語で言った。酷薄に笑ってまで見せた。白石は数歩逡巡して、自分の眼前まで歩いてきた。足は引きずられて、今にも倒れるんじゃないかという死人の足だった。 白石はまだ、別れると言われたと信じている。 「ほら」 腕を広げてやる。そこにおいで。自分との関係は、人生の暗闇だ。 引きずり込んだのは全部自分だ。告白も、最初の恋慕も全部自分だ。 知っていて、招いた。白石が自分から側にいると、離れたくないと意志を示して欲しかった。 「…………行ったら、捨てへん?」 死ぬような声は相変わらずで、彼はそう聞いた。 「捨てない。別れない」 「……ほんまに、もう、別れよとか言わん?」 「言わないよ」 「……………、………………九州恋しさに、卒業したら俺置いて帰らへんよな…!?」 それも、彼の不安の一つだったのだろう。 躊躇うように、すがるようにのばされた腕を軽く引いてやっただけで、白石は自分から千歳の身体の上に乗ってきた。 そのまま膝の上に乗って、抱きついて、答えてやと言う。答えるのを、少し迷った。 彼に対して、これ以上ひどい思いをさせたいわけではなかった。 ただ答えたら、答えが応にしろ否にしろ彼は泣くだろう。彼は滅多に泣かない分、泣いた時はまるで世界で独りぼっちになったようにあまりにも可哀想な様になって泣くので、その辛くて堪らないという彼の顔を見たくないのだ。 それでも、肩に触れるすがる指先だけで、あまりに酷いように哀れでならなくて。 「帰らない」 そう答えた。 「帰る時は白石を連れてくたい。親に、俺の相手ですって紹介しにつれてくったい。逃がさなか。白石なしの人生なんば俺は描くつもりなか。だけん、置いてかん」 し、別れない。そう言うと、彼はやはり泣いた。 今日にも世界のすべてが終わるように泣いた。 その様があまりに痛くて、ずっと腕の中に抱いていた。 今日世界が終わるはずもないのに。 どうして彼はそんな泣き方しか出来ないのだろうと思った。 ずっと側にいて、愛していると死ぬまで言い続けたら、普通に泣くようになるだろうかと思った。 自分は臆病だから、彼の死ぬ様は見たくないから死ぬ順番を選べるなら自分が先がいいと思った。 そのとき、やはり彼は世界が終わったように泣くだろうということを、考えないふりをした。 やはり、自分は彼に対して、どこまでも酷かった。 誰より愛しているのに、酷い、そう思った。 |