責任とります? それは、中学二年の夏。 全国大会会場で、昼飯にがっついていた時のことだ。 「千歳。千歳? 訊いとっと?」 「んー。ん」 「…訊いちょらんね」 隣に座る橘は呆れて言う。なんとでもいえ。さっきまで獅子楽のメンバーとはぐれていた所為で、昼飯が遅れてしまったので千歳は腹が空いていた。 鬼の仇のように買い弁を食べる場所は通路の真ん中で、前後にはコートがある。どちらもフェンスの向こう。 地べたに座って巨躯を丸めて飯を食いあさる千歳には馴れているのか、橘はそれ以上なにも言って来ない。そもそも、千歳が年中会場で自分たちとはぐれるのは、彼が放浪癖を発揮して勝手にいなくなるからで、自分たちは悪くない。 「千歳。小腹すいた」 「あげんよ」 「ミートボール一個でよか」 「これは最後に食うと!」 橘はああ、そうと思った。そういえば千歳は最後に好物を残すやつだ。 千歳はお茶を浴びるように流し込んでから、最後の楽しみだったらしいミートボールを箸でつまみ上げる。口に放り込む寸前にそれは聞こえた。自分たちの背中側のコートから。 「んんーっ! 絶頂!」 という、大変テニスコートに似つかわしくない声が、した。背後から。 橘はリアクションが少ない方だから、あまり見た目驚いていなかったが、千歳はせき込んだ。前に口の中にいれて咀嚼中だった卵が喉に引っかかったんだろう。 ミートボールが箸から落ちて、地面を転がった。橘は驚きから醒めないまま「あーあ」と思う。 「……なんね今ん」 「俺が知るかよ」 橘は即そう返した。自分の方が他校にはそれは詳しいが、あんなの初耳だ。 二人はフェンスを覆う木の茂みをかき分けて、そのコートを覗いた。 今ゲームが終わったところらしい。 聞こえた声は、内容を除けば、大変耳障りのいいテノール。 周囲と話す声から、誰が言ったか知れた。今仲間からタオルを受け取った、少年。 風体も、結構冗談にしていただきたい感じだ。 まず白金の手触りのよさそうなさらさらの髪に、翡翠の瞳。 通った鼻筋に、細いが体格のいい身体は筋肉が綺麗についている。睫毛も長い。 そして、炎天下で試合が日課のテニス部なのに、真っ白い肌はきめ細かそうだ。 顔は、冗談にしてくれといいたいほど、美しい。 その顔から、出たのか、あれが。あの「絶頂」が。 しかも左手には包帯。その左手にラケットを握っている。 なんだ、あいつ。なんだあれ。 千歳はそう思った。 不意に彼はこちらを見た。彼からしたら、茂みが変なとこで割れてそこから顔を出している珍妙な二人組に気付いた、というところだ。 なんだあれ?という顔をして首をひねった。 ひねりたいのはこっちだが、他のヤツらまで気付くと面倒だ。千歳と橘は顔を引っ込めた。 「あれはどこの学校?」 「えー…あのユニフォームは、大坂の四天宝寺ばい」 他校に詳しい橘はそう答えてくれた。 それにしても、一瞬こっちを見た彼の表情は、やけにあどけなかった。 大人びた美貌なのに、少年らしい顔。 かつ、唇が遠目にも、少女じみているという程綺麗に見えた。 はっきりいって顔は男前だから、それが更に魅力に見える。 「あ、わかった」 千歳が考え込んでいる間無言だった橘が唐突に言った。 「あれ、部長ばい」 「部長?」 「四天宝寺の部長の、白石。あんな口癖やったって思い出した。先輩に訊いたと」 千歳は思った。え、口癖なの? あれがマジで?と。 勘弁してとも。 「…先輩か」 「いや、同い年ばい。二年部長」 橘はそう繰り返した。 なんの巡り合わせか、その半年後にはその四天宝寺に来ることになった。 あれから、常に彼のことが頭を過ぎっていた。 橘の調べでフルネームがわかった。「白石蔵ノ介」。 名前から、顔から、包帯に口癖に、二年で部長というところまで。 冗談にしてくれという存在だった。 とんでもなく、すごい、恵まれた存在。天才で、恵まれた人種はあんなんだろうと思う。 が、あの包帯に口癖が台無しにする。ちょっと違う。変な謎を抱かせて、変な気分にさせる。どんなつもりであんなこと試合中に言うんだろう。なんで言おうと思ったんだろう。周りはなにも言わないのか。好きな言葉なんだろうか。そういうことが?清楚そうなのに。いやだったら逆に言わないんじゃないか?そもそも怪我しているのか?ああ、訊きたい。傍に行って根ほり葉ほり聞きたい。 そんなことばっかり考えていたら、橘に「お前、恋してるみたいやね」と言われてしまった。 恋。 橘が言うならそうなのかもしれない。だって、なにしろ彼は男なのが惜しいくらい、綺麗だった。 そして、才能もある。部長を任されるということは、リーダーシップがあって、性格も面倒見がいいだろう。他の弱小学校ならわからないが、四天宝寺みたいな強豪で、いい加減なヤツが二年から部長はあり得ない、と橘は言う。四天宝寺は全国常連であり、関西では文句無しの覇者なのだ。 そこで二年から部長。だから、テニスもきっとすごく強い。 そこも惹かれる。 なにはともあれ、訪れた四天宝寺校舎。今は三月で、三月から来いと顧問に言われた。 あの部長は訊いているはずだ。 千歳はテニスコートに向かって歩くと、練習中の部員を見つけて、肩を叩いた。 金髪の髪の、足のすらりとした部員。おそらく、三年生。 「お前、…」 彼は千歳を見て眉をひそめたが、すぐ手を打った。 「ああ、千歳!? 獅子楽の」 ああ、やっぱり訊いていた。千歳はホッとした。手間がはぶけた。 「ああ、そうたい。今日から来るように言われとう」 「そか。今、部長呼ぶから」 「ああ、あの」 「ん?」 橘のことは疑っていない。ただ不安になった。やっぱり彼は怪我を負っていたのかもしれない。最後の全国だから出たいと無理を言ったのかも。と思った。 今の部長が彼なのか、気になる。不安だ。 千歳は真剣な顔をした。相手もつられて神妙になる。 「今の部長さん、って……あんエクスタシーの人と?」 訊いた相手の部員は、固まったが、背後のフェンスの向こうで聞こえていたらしい部員たちが複数噴いた。水分補給中のドリンクを。 ああ、しまった。そうだ。自分だって初聴きの時噴いたんだった。毎日聴いてる部員たちが平気とは限らない。 「い、いや…それどこで聴いた?」 金髪の部員が、冷や汗を垂らしながらそう聴いた。千歳は正直に「去年の全国で」と答える。彼は「ああそうか。うん、うん…」とぶつぶつ言っている。困っている。ひどく。 他の部員も、困り果てた気配をこちらに寄越している。 「…謙也?」 横手から声がかかった。それはあの日、聴いたテノールで、あの日よりずっと柔らかく、聴き心地がいい。千歳は心臓が甘くうずいたと感じた。どくん、と音が聞こえるくらい。 振り返ると、そこに彼がいた。以前と変わらない、いや少しまた大人びて、綺麗になった。 「白石、あの、こいつ…獅子楽の」 「ああ、千歳くん?」 彼はぱっと表情を明るくして、千歳に駆け寄った。 傍に立つと驚くほど細い。小さい。自分が大きいだけかもしれないが。 華奢で、線は細い。唇はやっぱり、薔薇色のようで柔らかそうだ。 白い肌はやはりきめ細かく、傍で見る顔はとても綺麗だった。 「部長の白石です。よろしく」 手を差し出した彼が、少し首を傾げた。何故手を出さないのか、と千歳に向かって。 そのコトリ、と首を傾げる仕草も、またとんでもなく可愛い。 その手には、やはり包帯。 「あ、千歳ばい」 慌てて千歳は手を差し出して重ねる。ふれあった手は温かく、驚くほど手に吸い付いた。 「えっと、…よろしくな」 「ああ」 白石はそこで、あ、と呟いた。にこりと笑う。 「ええと、とりあえず案内するな。部室に」 「ああ」 彼が歩き出すのをそのまま追った。周囲の部員がはらはらと見守る。 部室に案内されると、扉を閉めてから、白石はくすりと笑った。 「どげんしたと?」 「いや、千歳くんって、去年俺の試合見とったよな?て」 あ、覚えていた。 「フェンスの向こうの茂みから顔覗かせとったから」 「ああ、うん、ようわかったとね」 「いや、キミははっきり覚えとらんかったんやけど、一緒にいた金髪が橘やろうって仲間が」 なんだ橘かよ、と標準語が使えるならそう吐き捨てたい気分になった。 「せやけど、千歳くん背ぇ高いな。カッコイイし」 「え、そう…? 白石の方が、…美人ばい」 その言葉に打ってかわってデレっとしてしまう。白石はうんうんと頷いたあと、「美人?」と聞き返した。千歳は繰り返す。 「自覚はあるけど…千歳くんほどカッコええヤツに言われても」 「俺は白石の顔、好いとうよ」 そう言ったら、白石は固まった。少し、頬を赤くする。それも薔薇色で、そうして見ると唇は桃の果実のようだ。柔らかそうで、食べたらきっとおいしくて甘い。 「変なこと言うなや」 ぼそぼそとそう言う彼を、本気で可愛いと思った。 練習に合流してから数日。 ある日、あの金髪の部員と柔軟を組んだ。 謙也というらしい。千歳は兎に角白石しか興味がなくて、名字を覚えていない。 「なあ」 合間に謙也が聴いてきた。なんだろう。 「お前、白石をどない覚え方しとったん?」 「…」 そういえば、あの日は妙な空気が部に漂っていた。自分の所為か。 「…えー、綺麗で、強くて、怪我しとうかもしれんくて、エクスタシーの人」 最後はやっぱりエクスタシーの人、か、と謙也は苦笑を禁じ得ない様子だ。 「おかしかと?」 「いや、うん、白石に全く他意はないから、おかし……いんやけど、おかしくない」 矛盾した日本語を使うものだと思った。言いたいことはわかる。弁護したいが、おかしいのは事実なんだ、という意味だ。 「心配でな」 「…あの日、みんなが噴きだしたん、おかしいんをやめてほしかって意味?」 白石のことをそう言った時、みんなが噴いた。困った空気だった。 「嫌やないで? やって、白石は理想の部長や。ものっそう、よく出来た部長や。 あいつに不満ある部員はおらへん。やから、あいつを『変なヤツ』って思われたら嫌や、…って意味かな」 「ああ」 それならわかる、と千歳はにっこりと笑った。 「千歳は、あいつを気に入っとるよな」 謙也はそう判断したらしい。気に入ってるんじゃなく、好きなんだけど、敢えて言わなかった。 白石は実際、とてもよく出来た部長だった。 分け隔てがなく、後輩や同輩に好かれ、周囲のことを、チームを第一に考える。 模範的な人格で、他人を全肯定する正しい人。 四月の半ばには、そう千歳は思ってしまうくらい、彼は正しく、優しかった。 「白石は、なしてあげなこつば言っとう?」 「…聴きたいことはわかるんやけどな」 白石はそう、困った口調で言った。放課後の部室。 二人しかいなかった。 夕暮れが窓から中に入ってくる。 部誌を書く机に、押し倒された白石は、千歳を見上げてそう言う。 「退いてくれん?」 「質問が先」 「……本気で」 白石は真面目だった。ちゃんと答えた。 「本気って」 「真面目に言うとるよ」 「…」 「やから、ちゃんと真面目に」 要領を得ない。悪いが。 「…せやから、白石、あの言葉の意味わかっとう? 破廉恥ばい」 「…お前が言うかぁ?」 白石は少し不満そうにした。 「意味はわかるけど、やらしい言葉ってわけでもないやろ。 そういう意味なく、他意なく本気で言うなら、悪ないと思う」 そう言う白石の顔も眼差しも真剣だった。本気だ。 彼はやっぱり、ちょっと、ボケだ。 ちょっと前からそうじゃないかと思っていたけど。 千歳は彼にのし掛かったまま、ため息を吐く。 「千歳?」 不思議そうな白石の声。身じろぎする気配。 「…俺、白石のこつ、好きになっとうよ」 「…」 「その言葉がきっかけ。気になった。ずっと、考えた。白石の顔や、唇や、包帯や、声」 「……」 白石は幼い表情で、ぽかんとしたが徐々に真っ赤に顔を染める。 「…好き。好いとう。 白石が、悪い」 「なんで!?」 「あんな言葉、口癖にしよって。悪い」 「…そ、んな」 「やけん、なぁ」 細い身体を机の上で抱きしめる。少し強ばった身体は、今は抵抗しない。 彼はやっぱり呆けてる。この状況で、逃げないなんて。 少し、期待して、胸が甘い毒に犯される。 彼は、媚薬みたい。罠みたい。甘い声と、顔と、手足で、言葉で誘惑する。その気なく。 「…責任ば、とって」 耳元で低く、甘く囁くと、白石は身を震わせた。 真っ赤になった顔で、自分を見上げる。 「キス、してよかとね?」 「……」 彼は真っ赤になったまま口をぱくぱくさせる。緊張して、パニクったのか抵抗すら忘れている。可愛い。 抱きしめたまま、その唇に吸い付くと、ぎゅっと肩の服を掴んだ。 やっぱり、甘くて柔らかい唇だった。 首の後ろに触れると、柔らかい毛が指にまとわりつく。 「責任ば、とって」 そう言うと、彼は真っ赤な顔で、か細く言う。 「どうやって」 「俺を好きになって、俺のもんになるこつ」 「………」 白石はなにも言えずに、黙り込んだ。でも脈はある。だって、赤いし、逃げない。 「お前は、…卑怯」 彼はしばらくしてそう言った。可愛い声で。 2009/08/14 |