―――――――――――――ふと目が覚めて。死にそうになった。 カチカチと規則的な音を鳴らす時計。 義務的に、狂い無く、静かに。 二時を指す短針。 真っ暗な、世界。 見慣れた自分の部屋が、別物のようで。 乾はぼんやりと眠りの余韻を引きずることも出来ず、寝台の上で茫然とした。 「……………………………………………………………」 のそりと寝台の上に起き上がる。ずれるシーツ。 落ちた髪を、手の平でぱさりと撫で下ろす。 置いた眼鏡を取る気もなく、しばらく。 (……嫌だな) ぞろりと、胸の底にわだかまる感触。 昔の頃、あった気がする。 自分以外にいない家。マンションなのだから、近くに人の息遣いはあるのに。 「…………………………いつもの、事なのにな」 誰もいないのは。 なのに、 怖い。 泣き出しそうなくらい、身体の芯が凍えた。 何故か判らない。 怖い夢を見たんじゃないのに。嫌なことがあったわけでもない。 何故だろう。突然、 足下が、確かでない感覚。 崩れそうだ。 地上は止まってるのに。 「……………………」 眠れない。無理だ。 結論付けで、乾は寝台から降りる。少し身体が傾いだ。気にせずに眼鏡を取ると、軽く着替えて真夜中の道路へと身体を晒した。 吐く息は、白い色で大気に拡散していく。 本当は、時間外なのだが。 眠れないのだから、仕方ない。 規則的に道路を蹴る、足はいつもと変わりなく動いてくれる。 誰もいない道路。ひんやりとした静けさが、夜が圧し掛かってくる。 けれど、何もかも許されたような空は、幾分気持ちを和らげた。 時々。 あるのだ。 急に胸が潰されそうになる事が。 意味もなく、怖くなる。 (本当は怖いんじゃなく寂しいというのが正しいんだろうけど) 昔からの現状を、そう思う自分自身が判らない。 過ぎ去るのをただ待つ。一晩くらいでそんなものは消えてしまうから。 いつも親が帰らないのは当たり前のこと。 (“寂しい”のは突きつけられた現状に怯えている証で。俺は一番ソレが嫌いだ) あまりに、考えたままで走るから。声を掛けられた事にも乾は気付かなかった。 そのまま足をアスファルトに振り下ろして駆ける。 つい足下の靴の降りるタイミングと、呼吸音に意識を向けてしまっていて。 普段なら絶対にやらないことをした。 「――――――――――――――――……」 コンマ一秒。目の前に、柱。 ベキという何だか痛そうな音がして、顔にも痛みが走った。 思わず顔を押さえて乾は電柱の前にしゃがみ込む。 「………――――――――――――――――……」 額が痛い。 (……間抜けだ) 何やってるんだああもう。 夜でよかった本当に。 「…眼鏡、傷付いてないよな」 裸眼と、夜目には見えないから。手探りでレンズに軽く触れて割れていないかを確かめる。 一応無事らしいと知って、掛け直すと少し見難い気もした。 立ち上がって、意味もなく振り返ってしまったのだが。 乾は思わず身構えて、固まってしまった。 月明かりの真下。 反射する眼鏡の奥の目を細めて。道路の上でしゃがみ込んで、紛れもなく笑いに身体を揺らしている。 「……手塚」 見られていたとか、なんでこんな時間にいるんだとか。 そんな疑問より彼が笑っていることの方が要因で衝撃だ。 「…………………………大丈夫か?」 思わずそんな事を訊いてしまった。 少しして、笑いに混じった声で。 「……………眼鏡は?」 と返された。 自販機の人工的な明かり。 公園の中でも密やかな物で、点滅する外灯の方が余程存在を訴える。 コンと暖かい缶をベンチの上で手の平に包んで、開いた足の僅かな間でぶらぶらと揺らす。同じように何かを買ってきた手塚が、隣に腰を下ろすのが見なくても判った。 「手塚、こんな遅い時間にランニングしてるの?」 「今日はたまたまだ。お前こそ」 「俺もたまたま」 まだ飲むには熱い缶。プルトップも開けず、ただ手の平だけを暖める。 手塚はよく、平気で飲んでいると思うが、中に入っていた時間によって缶の熱さはまちまちだから、手塚が買ったのは入って間もない缶なのかも知れない。 「手塚、そうしてると徹夜明けのサラリーマンみたいよ」 「……」 返る、不機嫌な沈黙に乾は喉の奥で殺した笑いが漏れるのを感じる。 「よく怒られなかったねぇ?」 一応中学生でしょう君。こんな真夜中に家出て怒られないの? そう言うと、手塚は乾と同じように缶をベンチの縁で抱えて、視界の先の方で点滅する外灯を見上げた。 「気付かれないように出てきた」 「…、お祖父さんにもか?」 笑いながら問うと、横に首を振る。 「今日はいない」 「成る程」 暗に、いたら無理だというような言葉。どうしても笑ってしまう。 無理だなんて、思えることは、幸福なのかどうか判らない。 「手塚の家は広いからね」 とんと、踵を石畳に押しつけて立ち上がる。開けていないままの缶、ベンチの上に。 落ちる影。 暗黙の色。 今なら。 誰が死んでも見ない振りをしてくれそうな夜。 今の瞬間にも誰かが死んでいるんだと、人はいつも考えるだろうか? 「そういう事いうから手塚。鈍いって言われるんだよ」 「お前から言ったんだろう」 「いつ」 「さっき」 手塚は、思っているより馬鹿で鈍くて賢い。 それは普段から考えれば不二の足下なのだが。こういう時は不意打ちだ。 大抵彼が不意打ちを起こす時は、自分や不二が簡単に引っ掛かってしまうときだ。 不二の彼に対する常套句は“狡い”だが成る程確かにそう思う。 「“自分の家は狭いから”って」 (手塚の家は広いからね) 言葉の裏側を読むなんて、無意識でやってしまうことだ。 人がいるからねと理由を言えば、きっと誰もいないからと読んでしまう。 「気楽だよ。誰もいないのはね。 月の色なんか何時まで見ていても文句は言われない。今日は硝子片みたいだ」 掴むみたいに手を伸ばせば、寒い空気だけが指を掠める。 黒い絵の具で切り取ったような月。 (寂しくて死にそうなんだ) 「お前は兎か」 「俺はそこまでセンチメンタルじゃないし」 「モラリストでもないだろう」 「そっちの方が俺向き。手塚はロマンチストなんじゃないの?」 「誰が」 「寂しいよ」 伸ばした手は、何も届かない。 開けたドアの先に、誰もいない。 溜まっていくダイレクトメールは、ゴミ箱の中。 「淋しい」 張り付けた能面のような表情は、仮面ではなく、自分の顔そのものだ。 とんと踵を軸に振り返って、置いたままの缶を取る。まだ熱い。 お互い表情に変化のない顔を見合わせて、先に口の端を上げたのは乾だった。 「手塚は“淋しい”と思っても誰かを頼りはしないんだろうね」 「お前もな」 「不二もね」 「ああ」 「不毛だよねぇ誰も慰めは欲しがってないんだ」 「欲しがってないと思い込んでいるだけで。お前も不二も俺もそう強くはない」 「うん」 麻痺した感情を、確認するだけ。 俺達は子供。大人なんて本当は居ない。 (淋しくて死ぬのなら自殺と変わりはしないのだ) とんと片膝をベンチの縁にかけて、右手でベンチの背もたれを掴んだ。 月明かりは自分の背。逆光に俺の顔なんて判らないだろう手塚が、見上げる動作がやけに大人びて見える。 そのまま軽く唇に口付けて、手塚が何かを言う前にさっさと離れた。 流石に茫然とした顔に、先程の彼のように身体を折って笑ってやる。 (そうやって沈殿した寂しさを紛らわすだけでいいのだ) 死ぬ前に、馴染んでしまえば死ぬ必要はないのだ。 しばらく笑っていると、手塚は呆れたようにもう一度腰を下ろした。 「おやすみ手塚」 立ち上がって、告げる。 そろそろと近づく夏の終わりが、足踏みしている。 蝉の声も、消えていく。 「おやすみ」 最後の、夏も終わる。 寂しさが死を促すなら、そんなものは消えてしまえ。 |
意味もなく急に不安に取り憑かれるような瞬間。
特に目立った理由はないはずなのに。でもってしばらくすると消えてたり。
足が地に着いてないような不安定極まりない状況なんですが、時々主に例の日に来るので結構困ります。
マタニティブルーってこんなんか…妊娠してないけど。
暗い話はこういう時ぱかぱか思いつきますがあまり考えてるとシンクロしすぎてマジ泣きはいるのでほどほどに。
最近どうしようもなく乾フィーバー(私が)なので乾。
一応塚不二前提に。