千歳の放浪癖には慣れている。 一番近くにいるのだから、馴れる。 だが、馴れると、寂しくないは別物である。 ―――――悲しくない、とはもっと、別物だ。 「千歳、お前、今日から一週間キス禁止な」 完全に日の落ちた空。部室にいるのは白石と千歳だけだが、タイミング悪く忘れ物を取りに戻った謙也と財前も居合わせてしまった。 「……え?」 「やから、一週間キス禁止。破ったら別れる」 「え!?」 目を丸くしたあと、すぐ青ざめた千歳を隣に放置して、白石は着替え終わるとロッカーを閉めた。 「あ、…謙也と財前。おったんか」 そこでやっと扉の方を向き、二人に気付いた白石は涼しい顔で言った。 「うん、おった。…ごめん」 「いや? 俺らがこない話しとんのが悪いんやし、ごめんな」 と、涼しく謝る白石はいいが、彼の背後の千歳が見える謙也はそれどころではない。 今はまだ、理解が及ばず青ざめるに済んでいるが、これ以上邪魔したら多分あれは夜叉になる。 すー、と後ろ歩きで逃げようと下がった謙也の肩は、背後から押しとどめられた。財前だ。 「光?」 「部長も連れてきましょ。あそこに置いてったら、千歳先輩守りませんよ?」 約束、とこちらも涼しい顔。 「そもそも約束しとらん!」 千歳の反論に、財前はしれっと答える。他の理屈があるのかと言いたげに。 「あんたと白石部長の喧嘩で悪いのは毎回千歳先輩やないですか」 千歳も黙った。が、すぐ「今回はわからん!」と反論する。 「ですって。部長」 「…千歳。お前、マジわからんの?」 千歳に向き直った白石の肩にはテニスバック。帰る準備万端だ。 なんとか引き留めたい千歳は必死に考えるが、わからない。 「…昨日、…約束しとったやんな? 出かける」 「………………あ!」 「てことや。じゃ、ほな一週間な」 やっと理解した千歳に背中を向けて、白石は踵を返す。引き留める暇なく扉は閉ざされ、机に残された鍵はどう考えても自分が返す役目。 千歳はがっくりと項垂れた。 「え? なに、あいつデートすっぽかしたん?」 「いつもやで」 真っ暗の帰宅路。白石は冷静な口調だが、僅かに怒ったような棘が含まれている。 「俺は待っとんのや。電車が遅れたんかとか、なんやあったんかとか。 …で、あいつは約束自体を忘れてんねんな」 「…不毛になりません? 付き合っとるのが」 即答されるのを予測して、財前は聞いた。 だが、白石はそれに小さく微笑むと、「いや」と穏やかな口調。 「毎回、あいつの方からメールか電話があんねん。 『今日、家に来ないか』とかのお誘いが。こっちは待ち合わせ場所におるんに。 過ごしたいとは思ってくれとるらしいから、そこは別に」 本当に穏やかに言うから、本心だとわかる。 「でも、それと約束を毎回忘れることのお仕置きをしないのとは、別」 にっこりと微笑まれて、謙也と財前は一歩下がった。これは、怒りの笑みだ。 「…そうか。襲われないよう、ガンバレや」 「頑張ってくださいね」 「ああ」 と、いうのが、三日前の出来事。 テニスコートに響くガリガリガリガリ、という謎の音は、千歳が自分のラケットのガットを引っ掻く音だ。 「千歳、千歳、おい」 「ん?」 「ん?やなくてな?」 ベンチに座っている千歳が、気付くと小石川が隣にいて引きつった笑顔で手元を指さす。 手元に目を向けた千歳は、自分のしていることに気付いて、ガットから手を離した。 「ずっとやっとった?」 「やってたな。なにかと思うたわ」 遠くで、謙也が「今のはなんでもないで〜」と一年生たちに笑顔で伝えている。 千歳は内心、ごめんと思う。 「てか、お前、怖いから。白石凝視したまんま『ガリガリガリガリ』。 怪談か!」 「……欲求不満で」 「事情は聞いたけどな…情状酌量の余地ないで?」 「わかっとうから我慢しとるばい。わかってなかったら即押し倒しどッ!!」 千歳の声は途中でぶった斬られた。小石川は「わあ」と思う。頭上から、いつの間にかそこにいた白石が、ベンチに座っていて自分より低い位置にあった千歳の後頭部に肘鉄をお見舞いしていた。 「わかっとんなら、練習中にそないなこと言うんはやめときなさい。 な? これ以上続けたら、三日延長!」 千歳は慌てて口を自分の手で塞ぎ、こくこくと頷く。 「よし」と頷いた白石はさっさと足を返して、コートの中に向かってしまった。 「…わかっとるんや? 自分が悪いて」 「続けんでくれ! 三日延長ばされる!(小声)」 「俺から言い出したって言うたるから。…で、わかっとるんや?」 「……わかっとる。毎回、なしてか忘れてしまうばい」 千歳は練習試合などの類は忘れたことがない。だとしたら、何故だろう。 「楽しみすぎて?」 「俺は幼稚園の遠足前日の子供か?」 「緊張しすぎて」 「試験前日の高校生じゃなか」 「……寝過ごした?」 「〆切明けの漫画家じゃあるまいし…」 レスポンスよく例えを出す千歳に、こいつ割と関西に馴染んでるんじゃ、と思いつつも小石川は不思議になる。やっぱり、忘れるのはおかしい。千歳は頭がいいし、記憶力も。 「メールに残っとらんのか?」 「え?」 「デートの約束や」 「…いや、大抵、電話ばい」 「いつ?」 「…? 前日の、夜中?」 そこまで聞いて、小石川は「まさかな」と思った。まさかだ。いやしかし、千歳だって中学生だ。 「なあ、一個聞いてええ? お前らが約束すんのって、いつも前日の夜中の、…寝入る寸前やったりする?」 「……、多分。眠いから」 小石川はがくっ、とその場に崩れた。周囲の一年生が不安そうに見上げてくるのに、なんでもないと手を振ってやる。 「それや!」 「どれ?」 「お前ら、寝る寸前に、電話で口頭約束やからや! 白石はそら忘れないやろうけど、お前は忘れるやろ! 眠いんやもん」 「…………………」 真剣な顔で無言になった千歳は、どうやら先日の約束の時のことを辿っているらしい。 「……あ、うん。かなり眠かったから、夢って勘違いばしてメールで当日、家に誘って…」 「…ほらみろ」 毎回こんなことをやっているのなら、千歳ばっかりを責められないじゃないか。 「千歳。白石に話しつけてくる」 「え?」 「情状酌量いけるかも」 「ほんなこつ!?」 「おとなしいしとればな」 お前が、と言われた千歳はベンチに座ったまま何度も頷く。犬みたいだったので、軽く笑ってから白石の方に向かった。 小石川から、あのあと伝言もなにもないまま、部活は終わった。 部室に残ったのは、彼と自分。 (やば) 気付けば白石の唇を見ている。さっきもだった。 (見とると、無理矢理してまう…) 意地で視線を逸らした瞬間、無言だった白石の手が頬に伸びて、白石の顔が近づいた。 その間隔に、千歳は手放しで喜びそうになったが、腕を彼の背中に回した瞬間、白石はキス直前で顔を逸らして「あかん」と一言。 「…え?」 我ながら情けない声が出た。だって、アカン、ってなに。 「…俺も悪いんはわかったけど、あかん。自分から折れたない」 「………」 (この意地っ張り) と思ったが、口に出すと本気で三日延長されるから黙っておく。 「…ごめん。白石。…ちゃんと、メールで約束したら、守っけん。 …夢やって思っても行くから…、キスさせて…」 低く囁くと、腕の中の顔を背けたままの身体が震えた。 微かに千歳の方を向く顔が薄く、赤いのは、嫌がられていないからで。 「…キスして、よかと?」 「………、うん…っん」 一言頷いた瞬間、唇は塞がれた。深く貪られて、千歳の身体に必死に手を伸ばし、すがりつく。 何度も、馬鹿みたいに角度を変えて重なってくるキスに、頭の芯がぼやけて役に立たない。 「…ん…っ」 何度目かのキスの後、ふらついた白石の身体を千歳が支えて、耳元で「大丈夫?」と聞かれる。 息を荒く吐きながら、もうダメだと思った。 千歳の首に手を回して、自分からキスを仕掛けると、合間に強く言った。 「ええから、はよ抱け…!」 直後に唇はまた重なって、千歳は問い返せなかったが、目を見開いた彼はすぐ、身体を掻き抱いた。 三日でこれだなんて。 触れられただけで、うずくなんて。 もうアカン。 もう、忘れたりするな。 この禁止令は、俺も辛い。 それは二人の『白旗』。課した人間が免れるような、楽な繋がりじゃない。 作成日時:2009/06/05 |