ソナタ







 時々、―――――――――――――嫌な夢を見ている。

 不二に言わせれば(そもそも彼はあまり夢を見ない)気にしていたら馬鹿を見るのだそうだが、生憎とそれが嫌な夢なのか時々判らなくなる。
 現実にあったことじゃない。思考の自動シュミレーションのようなものなのだから、気にする必要はないのに。
 そんな夢を見たとき、内容だけを忘れて感情だけが沈殿しているか、くっきりと思考に浮かぶ程に残っているかのどちらかで―――――――――――ああつまり、ウンザリする。






「は…、っ――――――――――――――――ぐぇ!」
 何事かを誰かに――――誰だか今となっては不明だが――――言いかけた乾の口から蛙が潰れたような声が上がったので、筋トレ中のレギュラーは総じて彼の方を見てしまう。
 見てから、馬鹿らしい感情と一緒に納得する。

『哀れ、乾』

「っ――――――こら菊丸! 降りろというか急に飛び乗るな人に」

 首が折れるかと思ったじゃないかと、外れかけた眼鏡を掛け直しながら、乾は何とか体勢を立て直す。背中におんぶお化け宜しくぶらぶらと菊丸を背負ったままで。
 腕を、首に回されているから絞まる。切実に息苦しいのだが。

「………俺を殺す気かお前は」
「う―――――――――――――――…!」
 子供がいやいやをするように、俯いたまま首を振られても、乾にはさっぱり訳がわからない。とりあえず首が痛いので前傾姿勢を取る。
「菊丸、校庭走りたいのかお前」
「嫌だ」
「……野菜汁とペナル茶飲むか?」
「―――――――――――――……」
 有る意味最凶の脅し文句だったのだが、予想に反して腕はまだ解かれない。
 流石に奇妙になって、乾はとりあえず大石にタスケロ視線を向けて、―――――――から何となく悟った。
 普通なら大石は苦笑してこちらを見ているのだが、目線が合わない上故意に逸らしてるっぽいのはどういう事か。

「……菊丸」

 首が絞まらないように菊丸の腕を両手で掴んで、とりあえず背筋を伸ばす。
 フェンスの向こうで、“あーあ”なんて顔した不二とこめかみに縦線でも入りそうな手塚。
 このまま走るのは、いくらなんでも冗談じゃない。
 あくまで小声で、務めて潜めて囁く。

「…お前、大石と喧嘩したね?」

 図星。
 首を絞めていた腕がずるりっと解けて、乾の背後にヘタレて佇んだ。
「乾」
 手塚の声に、片手を上げて言う。
「俺は悪くない、だろ?」





「なんかね、また英二がバカやったとかじゃないみたいなんだよ」

 苺頂戴と、乾の弁当箱から気安く果物を頂いて、不二は他人事のテンションで答える。
 お互い何時だったか見付けた、空き教室。
 積み上げられた机の群に腰掛けて、広げた弁当を啄みながら話すのが時々。

「…違うのか? …まぁ、確かにいつも以上にへこんでたけど」
 言いながら不二の弁当からオレンジを頂戴して、“ギブアンドテイク”と言う乾に、不二は形だけムッとしてみせる。

「ん―――――――――なんかね、英二が言うには」
 とんっ、とキュウリに突き立てられたフォーク。
 ソレが刺さったままの切っ先を乾に向けて揺らし、不二は可愛らしく小首を傾げる。
「大石が、自分を避けてるんだって、さ」
 くるくるとフォークを回転させて、どう思う? と意見を問う。
 答える前に眼前で揺れるキュウリを、不二の手首を掴んで固定させてから口に入れて、乾は“パッとしない”と呟く。
 菊丸が、ならまだしも。大石が? 菊丸を?
 理由が判らない。

「っちょっと君ねぇ! 勝手に食べる普通!?」
「勝手も何も君そのキュウリ俺の弁当から取ったじゃないの」
「うちは基本的に洋食なの」
「だったら自分で作んなさい。
 で、パッとしないよ。不確定過ぎない?」
「今時中学生の男でそこまで作れる方が希少価値なんだけど―――――――――――。
 僕もあくまで英二から訊いただけだから、大石サイドの考えとか見方はさっぱりでね」
「家庭環境の違いって奴だね……。
 でもな、なら大石サイドから訊けばいいじゃないか」
「誰に?」
「手頃なの居るだろ? お前の旦那」
「無理(即答)」
「……なんで?」

 今考えもせずに言ったねお前。
 おかずの部分だけ空になった、乾の手の中の弁当箱。
 不二はまだのんびりと食べていて、うずらの卵やスパゲティが残っている。
 実際彼の速度が遅いのではなく、乾が早いだけなのだが。
 此処に手塚でもいれば“もっと噛んで食べろ”だのと説教が飛んだことだろう。
 実際、乾は箸の持ち方も我流だったのだが手塚の苦労あって今は一般に正しいと言われる持ち方をしている。(矯正した)
 これ以上矯正されるのも嫌だし面倒なので乾は時々彼を誘わない。―――――――――――――?

(そう言えば変だな。普段俺が誘わずとも手塚はいる。それは不二が誘ってくるからだが)

「――――――――――――――――。
 お前も手塚と喧嘩中?」
「はいせーかい。賞品でないよ」
「要らないよ。何だ揃いも揃ってか難儀な。
 まさか事情は違うだろうな?」
「え? ああ。いや最初は避けられてたんだけどマジで」
「笑っていう事か」
「っていうか何で君気付いてないのさ」

 おかしいよと真顔で不二に言われる。確かにその通りなのだが、そういえばこの数日自分は彼らを観察している暇がなかったような。いやしかし。

「…それも謎だけどね。
 で? 最初はって?」
「あ、うん。最近になって手塚が寄って来るようになったんだけどね」
「寄るってお前虫じゃないんだから」
「あははそれ親父ギャグ?」
「俺の名誉のため言っておくが“無視”と掛けた訳じゃないからなっていうか気付ける辺りまだお前は平静なのな」
「だって今は違うもん」
「続行中じゃないのか? 喧嘩」
「喧嘩はね」
「……続けろ」
「ん。でもすぐ終わる。
 だっていきなりシカト喰らって理由もなく戻ってこられたって腹立つじゃん。
 だから今シカト返し続行中」
「ああなるほどお前そーゆー奴だもんな。手塚に同情する」
「なんで?」
「はいはい落ち着け。前言撤回するから」
「とかいって君が撤回したのなんか“平静”って部分じゃん」
「俺時々お前本気で解剖したくなるわ。うん」
「セックスする?」
「人の話訊け」
「今解剖したいって言ったじゃん」
「国語辞典引いて来い」
「『性。男女・雄雌の別または性行為』」
「そうゆう事を引かずに述べられる辺りお前は中学生として大いに間違ってる」
「乾だって空で言えるじゃないどーせある程度の意味なんか」
「あ――――もう誰か来てくれ…」

 形だけ脱力して、乾は硝子の窓に目を遣った。
 人の気など知らず舞う鳥が、それさえ誰かの感性に触れそうになる。
(大体、あいつらが喧嘩すると俺が絶対巻き込まれるんだ。時給くらい貰わないと割りに合わない)
 片づけ終わった弁当を手に立ち上がると、ついと自分を見上げる不二の髪を数度撫でて梳く。

「とりあえず、俺も暇じゃない。
 今回ばかりは手伝ってやらないからな」
「―――――――――――――――、なにそれ」
 僕そんな事言った?
 そう見上げて拗ねる表情を見下ろして、乾は教室を後にした。





 鞄から引っ張り出した分厚い冊子を手に、時計を確認しながら席を立つ。
「あれ? 乾何処行くん?」
「音楽室」
 これ、と冊子を見せればクラスメートもああと納得した。
「折角の自習なんだから遊ぼーぜ?」
「早く終わったら戻るよ」
 ばいばいと手を振って、廊下に出たときに視界に入り込む青空は晴れて。
 冊子を肩に乗せて、踵を返す。

 案の定音楽室はがらがらだった。調べた上で来たのだ。
 スイッチを入れて、薄暗い室内を申し訳に明るくしてから、黒のピアノに手を掛ける。
 冊子の目当ての部分を開いて立て掛けて、鍵盤に指を乗せた所で扉が開かれたので、先生かと思って振り返ったのに。
「手塚?」
 背もたれに腕を乗せて、どうして彼が此処にいる―――来る――――んだろうと考える。
 手塚もまさか授業中に、しかも乾が此処にいるとは思いも寄らなかったのだろう。乾よりは素直に驚きを現した。
「あれ、一組自習だったか…。そういえば誰か言ってた」
 本当に、調子が狂ってるんじゃないか自分。二人の喧嘩にも気付かなかったし。
「お前の方もか?」
「ああ。なんでちょっと弾きに」
 口にしてから、ふ、と乾は自分の脳裏に浮かんだ考えに笑いそうになった。
「…手塚、お前何しに来たの?」
 少なくとも、お前に音楽の心得があるとは全く思ってなかったんだが。
 一言だけで、乾の言わんとする事を察したらしい。
「いや、俺は図書室に行こうとしたんだが。お前が見えたから」
「追って来て…というかサボるなとでも言いに来たわけね」

 納得。手塚なら有り得る。
 ひょいと前屈みだった体勢を直すと、寄りかかっていた椅子が鳴った。
 構わず、ドアの側に立ったままの手塚に閉めるか出ていくかどっちかにしろと促した。
 少しの間のあと、ドアを閉めた彼はどうやらしばらく音楽室にいるつもりらしい。
 手近なパイプ椅子を乾の側に持ってきて、何を弾くんだという風に覗き込んだ。

「合唱コンクールのだよ。近いだろ」
「といことは、十一組のピアノ伴奏はお前か?」
「うん。一応人並みな心得はあるものでね」
 お前には無縁だろうと笑えば、眉間に少し皺が寄った。
「そういえば」
 簡単なメロディを弾き連ねて、ついでのように横の男に話し掛ける。
「六組の伴奏は不二だとか訊いたけど」
 瞬間、ぴくりと彼の指先に籠もった力に、乾は気付かぬ振りで鍵盤を叩く。
「あいつとかは難なく弾けそうだからいいけど。多少弾ける位で抜擢された奴は大変だろうな」
 くすくすと笑い声を漏らしながら、横目で手塚を伺えば、ただ動く乾の指先だけをじっと、難しい顔で追っているのが判る。
 追う視線をからかうように弾いていると、“よく両手を動かせるな”と言われた。
「小さい頃にやったからね。基礎は出来てるし。なんで?」
「指先がどうしても釣られるとか、大石が言っていたからな」
「……大石? って、もしかして二組の伴奏って大石か?」
 指先を止めて立ったままの手塚を見上げる。
 なんでまたと呟けば、他の奴が居なかったらしいと返った。
「大石以外、クラスの奴は皆鍵盤に触れたこともないような奴らばかりらしくてな」
「それで大石。…でもあいつだってあまり弾けたもんじゃないだろうに」
 気の毒な。

(…いやでも。もしかして大石が菊丸を避けていたというのはただ単にその練習で忙しかっただけなんじゃないのか? 恥ずかしいだろうから言わないだろうし)

 馬鹿らしい。そう思っていると、手塚が不審そうに見ていることに気付く。

「てっきり、お前は全クラスの伴奏者を知っていると思ったが」
「…ちょっとね」
 調子崩れだ。
「手塚のクラスなんだっけ?」
「…“時の旅人”とか」
「ああ…、六組は“川”だって」
「……、お前は?」
「“モルダウ”」
「弾けるのか?」
「弾けるよ」
 さらりと答えると、手塚は意外そうな顔もせずに漸く椅子に腰を下ろした。
「ま、最近やってないから手慣らしにね。来たんだけど。
 弾いてやろうか?」
「どのみち弾くんだろう」
「ま、ね」

 口の端を上げて見せる。
 鍵盤に置いた指先を、軽くだけ立てて、一小節目だけを視線で捕らえてから、指先を落とした。
 弾ける、とはっきり言っただけあって。つかえる事なく動いていた指先が、高音を叩いて戻る辺りでふと止まった。

「…あれ?」
「? どうした急に」
「いや、高音の、音が出ないのがある」
 幾度か叩かれている鍵盤が、それでも音を鳴らさない。
「一音だけか?」
「うん」
「なら別に」
「俺は気になるの。
 調律してないなコレ…。不二辺りなら調律出来そうな気がするのに」
「出来そうな?」
「出来るかは知らないけど、出来そうじゃないか」
 言いながら開いた部分を閉じて、“まあいいや”と座り直す。
 とりあえず最後まで通そうと思ったのか、もう一度最初から音を指先が辿り始める。
 手塚にすれば何処の音が抜けているのか判らない。
 それでも自在に動く指先を追っているのは飽きなくて、いつの間にか押し寄せた睡魔にも逆らわなかった。



 ピアノを始めた経緯について、人に訊かれると“さあね”と答える。
 自分自身覚えていないので、答えようもない。
 ただ、初めから好きな訳ではなかった。



 疲れてるのかな。と思う。
 椅子に凭れて眠ってしまった同級生の、それでいてなお皺の入った眉間。
 眼鏡くらい外せよと、取った眼鏡をピアノの上に置く。
 軽く、鍵盤を弾いた指先。
 確か、最初に覚えた音階。
 窓の外の、日差しは紅には遠く。まだ白い。ベージュのカーテンを梳けて、折れて床の継ぎ目を照らす。
 拙くて、必至に鍵盤と楽譜を追った眼。幼い頃、ろくに届かなかった指先との違いに、苦笑する。
 それでも僅かにつった感覚は、最近ご無沙汰に触れていないとよく判る。

「…、練習?」
 声を掛けられるより先に、振り返って問い掛けると、大石が驚いたように眼を開いた。
 極力音を立てないようにと、配慮して閉じようとしていた教室のドア。
 片手に、似たような冊子。

「伴奏、なんだって?」
 訊いたよ、と笑えば、参ったなと額に手を当てる様。
「…手塚、寝てるのか?」
「見ての通り。これで狸寝入りだったら随分図太いよ」
 足音を立てないように、側まで歩いてくるのもそれなりの心配りで。
 自分はともかく大石にまで狸寝入りをしているなら、それはそれで凄いけど。
「弾けそう?」
「………訊かないでくれ」
「苦戦してそうだね」
「…言わずもがな、だよ」

 また胃薬増えてるんじゃないだろうなと、大石を見上げてから、手にある冊子を覗き込む。また、知っている曲だ。合唱コンクールなんてそんなものだが。
 伴奏は、それなりに楽なのだ。歌わなくて済む。

「代わってやろうか?」
「え?」
「二組の。知ってる曲だから代わりに伴奏しようかって言ってるんだ」
「…いいのか…って、弾けるのか?」
「俺はモルダウが弾ける中学男子だぞ」
 えばることではないが。
 安堵半分、けれどクラスの連中のことを気にしては迷う大石に、もう一度振り返って左胸の辺りを指先で指す。

「乾?」
「それに、そろそろ菊丸の機嫌取ってもらいたいんだよな」
 ん? とわざとらしく首を傾げると、露骨に赤くなったので思わず吹き出しそうになった。手塚が寝ているので堪えたが。

「喧嘩の理由。図星だろう?」
「……乾…」
「安心しろ。俺からは言わん」

 暗に“自分で言えよ?”と言っているようなもんだ。
 あたふたと表情を変えた大石が、引きつったような苦笑を浮かべる。
「…楽しんでるだろ」
「いえいえそんな滅相もない」
「…………、お前に隠し事って不可なんだな」
「お前等が顕著なだけだよ」

 でも、その位分かり易い方が、今のうちはいいんだ。

(年がら年中人の先手を読むヤツが居たら、俺だったらおっかないね)

 一瞬不二が浮かんだが、気付かないでおく。
「……」
 お互いに視線があって、少しだけ口の端を上げた。

「…じゃ、頼んでもいいか?」
「ああ」
 金取りはしないから。
「早く、仲直りしといで」

 ひらひらと見送るように手を振る。
 ドアの側で、手を掛けてから大石が不意に振り返った。

「…乾も、ちゃんと休めよ」
「え? ああ、うん」

 一応頷いて。ドアの向こうに消えた大石とドアの硝子に反射する日差しをしばらく眼で追って。
 こんと、自分の額に手を当てる。

「…流石大石」
(もしかしたら微熱くらいあるかもしれない俺…)
 少し、今更に彼の脅威を悟ってみて、乾は正面の時計を見遣る。
 後、二十分。

 保健室、行ってくるか。




 体温計を貰って、寝台に腰掛けて計る。
 しばらく暇で、意味もなく時計の針の経過と、置いてきた手塚のことを考える。
「乾君。記帳出来る?」
「ああ、はい」
 怠くは感じないので、机の方まで行って、ペンを保険医から受け取る。
 日付と理由と名前を書いて、それからふと。

「…………先生、手塚来てたんですか?」
 十くらい前の行に、記された名前にぎょっとする。
 しかも、理由の欄に自分と同じ事を書いている。
「え? ええ。風邪で。乾君より酷かったみたいだけど」
「…流行ってるんですかね。風邪」
「そうね」

 胸元でした電子音に、体温計を取りだしてそれを保険医に手渡しても、乾はしばらくその欄を見下ろしている。

「37度3分。薬出して置くから。今日はちゃんと休んで」
「はい」

 横になっていくかとも言われたが、断って廊下に出る。
 そのまましばらくは静かに歩いていたが、階段に差し掛かった辺りで乾はいきなり吹き出した。誰かが見ていたら退く程だったが、幸い誰も側に居ない。
 単純だ。何て言うか単純すぎる。
 多分間違っていないが。
 服の裾を叩いて、乾は立ち上がると口元を軽く押さえる。

「恋人思いなのはいいんだけどねぇ…?」

 とんと、爪先で段を蹴ったら思いの外いい音がした。
 まぁ教えてやらないけど。
 そばらくして聞こえてくるピアノの旋律に、邪魔する気もなくて踵を返した。





 時々、―――――――――――――嫌な夢を見ている。

 不二に言わせれば(そもそも彼はあまり夢を見ない)気にしていたら馬鹿を見るのだそうだが、生憎とそれが嫌な夢なのか時々判らなくなる。
 目が覚めて、それから夢だと知るばかりでも。
 結局、現実に敵う夢もない。