[君のことが好きなんだ]

□君のことが好きなんだ□



 朝から、彼は機嫌が悪かった。



「………保健室、行くか侑士?」

 あまりにぶすっとした表情が眼前にあるので、向日は思わずそう訊いた。
 屋上の空気は寒くて、涼しくて仕方がない。
 教室にいればいいのに。もう本鈴は鳴ったが。
 しかしそうすると彼のこと、そんな素振りは欠片も見せなくなるだろうから。
「ちょっと熱いぞ本当。熱あんじゃねぇ?」
「平気や」
 とても、そんな体温ではない。
「……やっぱ、行け保健室」
 ほっといたらやばいと思った。
 いくら体力があっても、環境によっては治るものも治らない。
 腕を掴んで無理にでも立たせると、意外にも素直に歩き始めた。
(これは…本格的にやばいな)
 思考力が低下してるのが丸判りだ。
 階段に注意させながら保健室へ連れて行き、熱を計れば三十八度。
 寝台へ寝かせる。保険医も居たので早々に教室へと戻った。


 扉に掛かるはずの手がぴたと止まる。
 そういえば二時限は数学である。五月蠅い教師だ。
 少しだけサボるか悩んだ後、諦めて扉を開けると一斉にクラスメートの視線が集中する。
 場違いなほどの驚きと焦りに似ている。
 向日が訳もわからず佇んでいるうちに、クラスメート達は一様にして安堵の息を吐いた。

「なんだ…向日かよ」
「びっくりさせんなよ〜…遅刻は後ろから入って来いよな……」
「…はぁ…?」
 クエスチョンを頭に浮かべてから、向日は漸く理解する。
 教師はどうやら、自分以上に重役出勤らしかった。
「…なんだビビらせんなよ」
 思わず呟くと、側の机の生徒に“ソレはこっちの台詞だっつーの”と返された。

「よう重役出勤」
 席に着くなり掛けられた言葉に軽く眉を寄せて振り返る。
「お前に言われたくないな跡部」
「尾田の授業に遅刻するようなチャレンジャーはお前くらいだつってんだよ」
 どうせ寝てたんだろなんて笑って言われるが、不思議とその時は腹が立たなかった。
 呆れたように一瞥を返して前を向きかける。思い出したのはその瞬間だ。

「…あ、そだ跡部」
「あ?」
「今日、部活多分侑士休み」
「…なんで?」
「熱有ったんだよ。さっき保健室連れてった」
 一応の詳細を話すと、跡部は軽くああと納得した声を上げた。
「お前の遅刻の理由がソレか」
「そーゆーことだ」
「判った。言っておく。
 しかしあいつも風邪ひく人種だったんだな」
「……侑士の事馬鹿だと思ってんのか?」
「いやソレはむしろお前だが」
「は?」
 完全に椅子に膝立ちで、向日は跡部の机に手の平を付く。
 教室内は微妙に騒がしく、静かだ。多分いつか来る教師を警戒している。

「…ま、いい。
 とにかく――――――――――――――――この分じゃ尾田は来ねえな」
 ちらりと時計を見れば、授業開始から二十分の経過。
 ここまで過ぎたらあいつは来ないと言い切って、跡部は向日の質問をなかったことにする。
 どーゆう意味かと問う気は、経験上失せた。
 こうなったら、跡部は余程機嫌が良くない限り言わないからだ。

(ああそういえば、侑士のクラスに伝えてなかった)

 後で言えばいい。
 早く治ればいい。
 同じクラスじゃない。
 だから詰まらない。





 保健室の扉は、多少の引っかかりを持って開いた。
「すいません…」
 ひとまず声は掛けたが、返らない。
 薄いカーテンが遮った、昼間なのに薄暗い室内。
 幾つもの寝台。不在の保険医の机と棚と、申し訳程度な照明。
「………………」
 後ろ手に、音にならないように扉を閉める。
 真ん中の寝台だけが、仕切に覆われていた。
 一瞬の逡巡のあと、向日は手を掛けて僅かに隙間を空ける。

「………ゆーし」
 黒髪を枕の上に散らして、いつもよりずっと不快げな表情で、それでも眠っていた。
 多分、まだ熱が下がっていない。
 時折漏れる呼吸の熱さが、そう伝えた。
 掛けられたシーツは乱れているし、皺だらけで。寝苦しいのかなと思った。
 それはそうだ。

「……………」
(でも、俺最近風邪なんかひいたことないしな…)
 自分で考えれば、ふと思い出される跡部の台詞に、ムッと眉を寄せた。
 そのまま踵を返す。
 棚を勝手にあさって、それから椅子を寝台の側へと運んだ。
「せめてアイスノンくらいないのか此処は…」
 伸ばした指を、忍足の額に這わせる。
(…マジ熱い)
 屋上の時より上がってる。
 前髪を掻き上げて、ほんの少しだけ笑いながらひえぴたを貼ると、運んできた椅子に陣取った。

 苦しげな呼吸とか、そんなものだけが、鼓膜に届く。

 昼休みの、騒がしさはやがて鳴るチャイムに押さえ込まれるだろう。
 お腹、空いているのだから、教室に戻って食べればいいのに。
 動きたくはならない。
 保険医が来たら、そんなのは通用しない。

 椅子の縁を握り締めると、小さく音がした。
(そういえば…)
 閉じられた全ての窓。
 ざわめき。
 熱の残る呼吸。
 見つめて、瞼を閉じる。
(跡部の言葉の意味はなんだ?)
 ぽすんと、寝台の縁に額を埋めた。
 柔らかい、けれど独特の匂いのするシーツ。
 ごろりと頭の位置を変えたら、間近に彼の顔が見えた。
 近すぎて、ぼやける視界に、暖かい感触。
 もういいや。
 言い訳も、よくなって、そのまま眼を伏せた。
 いいや。
 笑われても。
 授業より、側に居たい。
 勇気なんてろくにない。

(君のことが好きなんだ)





「………………………………………」
 開口一番に出る言葉もない。
 放課後のざわざわした空気に紛れて、小さな一息。
 保健室の片隅の寝台に、開けられた仕切。
 横たわった知り合いと、椅子に座って寝台に頭を伏せた知り合いと。
 馬鹿らしい意味で、起こすのを躊躇った。

「……バカップル」

 にしか見えない。
 思わず呟けば背後の後輩に“ウス”と同意されて、跡部はぺしりと自身の額に手を当てた。
「……おい、こら起きやがれ」
 ごんと忍足の額を拳で小突く。暖まったひえぴたを思い切り容赦なくひっぺがしてやると、思いの外あっさりと目を開けた。
「………よう」
 暖まったソレを、樺地にゴミ箱に放らせながらにやりと笑う。
 状況把握の間のように、忍足は少し瞬きを繰り返してから眉を寄せた。

「なんや…もっと丁寧に起こさんかい」
 ひりひりするらしい額を一度撫でて、忍足は億劫そうに上体だけを起こす。

「もう放課後だぜ。部活どうすんだ?」
「あー………………いいわ。悪化すんのも馬鹿らし」
「じゃ、欠席二名報告しとくぜ」
 得意げに笑って、お互いに見下ろした寝台に、心地よさげに眠りを貪る向日を眺めて。
「頼むわ」
「ああ」
 行くぞ樺地、と声を掛けて踵を返してから、跡部は首だけで寝台に振り返る。
「ついでに看病してやれよ」
 明らかに楽しんだ口調で言って、扉の向こうに一緒に消えた。
 謎と言うほどの謎でもない謎は、簡単に理解できる。
 眠り続ける向日の額は普段より熱くて、伝染したなと思える。

「…ほんまに馬鹿な子やなぁ………」
 伝染するってのが判らないわけでもないのに。
 こうなるのは判りきっているから、風邪なんかひいていられない。
 寝苦しくなったのか僅かに体勢を動かした彼の髪を梳いて、笑みを一つ。

「………岳人」

 微笑ましい気持ちで、名を呼んで。








ノ――――――――――――――――コメント……
血迷って!