「千歳」

 そう、彼が自分を呼んだ時、彼は踏み切りの向こう側にいた。
 隣を歩いていたのに、何故向こうにいるのだろう。
 きっと、浮かれていたんだ。この日に彼と一緒に帰れることに。
 彼が自分を、特別に思っていると自惚れて。

「千歳」

 寒い風が、千歳の大きな身体に当たる。白石の髪もそれに揺らされている。
 空間は、繋がっている。切り離されてなんかいない。
 そんな馬鹿なことを一瞬考えた。
 踏み切りの遮断機のこっちと向こうは、二度と交わらない場所にある気がしたのだ。
 恐ろしくなった。
 二度と、白石を抱きしめられない気がして。
「…白石?」
 怖くなって呼んだ。その声は、あまりに掠れて風に吹き消される。
「白石!?」
 だからもう一度呼んだ。届いた声に、白石は顔を上げた。泣き出しそうな、あまりに辛そうな顔。
 千歳の胸がずきんと痛む。
 白石の唇がなにか言うために開かれた瞬間、二人の間を電車が通り過ぎた。
 がたんたたん…という電車の音。早く通り過ぎてくれと痛いほど、なにかに願った。

 けれど、電車が通り過ぎた後、踏み切りの向こうに、誰もいなかった。
「…白石!?」
 呼んで、今来た道を引き返す。
 けれど、いくら走っても彼はどこにもいなかった。








Teens-バレンタインにまつわる



「…―――――――――――――らいし……」
 譫言が漏れた瞬間、その自分の声で目が覚めた。
 視界に映るのは、自分の部屋の天井。
 古びたアパートの天井の染み。
「……夢」
 呟いた声は、寝起きの所為で掠れた。
 起きあがると、枕元の時計を見遣る。まだ時刻は六時。
 部活を引退した人間が起きるには、早い。

(なして…あげん夢ば……)

 確かに、今日は二月十四日。バレンタインだ。
 意識していないわけはない。
 大坂に来てから心を奪われた白石蔵ノ介は、別に自分の恋人ではない。
 だからといって諦めるつもりはなく、けれどそのまま過ごしてしまった十一カ月。
 思いを告げようと、最近ずっとこの日を待っていた所為か?
 告げる前から、ふられた気分になるなんて。




「あ、おはよ健二郎」
 朝、廊下を二組を目指して歩いていると引退したのに早い元副部長が視界に見えた。
 足を止めたのは、四組の前。
「あ、はよ。白石」
「はやいなぁ」
「ついなぁ…」
「わかる。俺も」
「とかいうて、謙也は遅刻やろ」
「…どうやろ…バレンタインやから…」
 小石川も理解したように「ああ」と笑った。
「あ、そうや。健二郎。借りてたDVD今返してええ?」
「ああ」
 白石が鞄を床に降ろして、中からDVDのケースを取り出す。
 拍子になにかが落ちた。
「…チョコ?」
 綺麗にラッピングされた手作りらしいそれを拾って、小石川はまじまじと見つめた。
「もうもらったん? 早いうちからご苦労な子がおるんやな」
 白石に返しながら、時計を見遣る。まだ七時丁度だ。当然、ほとんど生徒は教室にいない。
「いや…自分で」
「え?」
 思わず聞き返した小石川も、白石の苦虫をかみつぶしたような顔に嘘ではないと知る。
「お前が……」
「…何度も言うなや」
「……千歳にか?」
 軽く屈んで、白石と目線を合わせて聞いてきた小石川に白石は視線を彷徨わせる。
 うん、と頷こうとした唇は耳聡く遠くで響いた音を聞きつけたのか閉ざされ、白石はぐいとそのチョコを小石川に押しつけた。
「…え」
「健二郎にやる!」
「…え!? なんで?」
「やから、健二郎にあげるんに作ってきたん! はい。ほな、俺は教室行くから」
 小石川が異論を唱える暇なく、早口で強引に受け取らせると白石は疾風のようにその場から消えた。
「…なんやあれ」
 ぽかん、と見送って呟いた小石川だったがすぐ、白石があそこまで焦った理由を悟る。
 傍でがらん!という思い切り床を蹴ったような下駄の音。
「…千歳」
 ハッとしてそちらを見遣ると、そこにはあからさまに不機嫌にむすっとした…いやそんな可愛いモノではなく、独占欲と嫉妬を露わにした険しい顔。
「…いや、あんな、これ」
 お前に渡す予定のもので、白石は多分照れたんだ、と言おうとしたがその前に千歳がその場にしゃがみ込んだ。
 勢いよくしゃがむから、もう崩れ落ちた、というレベルだ。
「……ちとせ?」
 おそるおそる、前に回って屈んだ小石川の耳に、大きく嘆いた千歳の声。
「……あれは、やっぱり正夢ばい…………」
 その声が、本気で涙混じりだったので小石川は放置出来なくなった。

 部室に行くと、新部長の財前だけがいた。
 他の部員は?と聞くと今日は部活は午後からです、と素っ気ない。
 だが、小石川の姿を見た時点では少し嬉しそうだった後輩も、千歳の姿を背後に見つけてあからさまに不満げになった。
「悪い、ちょお貸して?」
「…はぁ、まぁええっすけど…」
 すごい嫌そうだが、今は気にする場合じゃない。
 招き入れた千歳をベンチに座らせるが、千歳は重い溜息を吐いていて、これでは世界が明日終わるか、親の葬式だ。
「…取り敢えず、正夢ってなんやねん?」
「……今朝、夢で…」
 それでも、相談した方が我が身のためと思ったのか、千歳も素直に口を開いた。




「……………て、いう夢ば見て」
 大体の内容を聞き終えた小石川は、首を傾げて考え込む。
 悪い夢には違いない、が、そんな漠然とした不安を煽る夢なんて人間はなにかを控えた時にはよく見るものだ。
 この場合バレンタインと、告白。
 千歳の不安が作用しただけで、正夢というのは違うだろう。
 そもそも、白石はあのチョコを千歳に渡すつもりで持ってきたわけで、自分が受け取ったのは不可抗力だ。
「で、白石先輩は小石川先輩に渡して、正夢その通りめでたしめでたしってことでええでしょ」
「光!」
 直球過ぎる後輩を小石川が諫めた時には遅く、千歳は俯いてしまう。
 喉が鳴った。しまった。泣いている。
「いや、千歳。これは白石は、お前にやるつもりで…」
「そげんこつ、白石が言ったとや?」
「いや、せやけど、あいつがお前を好きや言うんは誰の目から見ても明らかで…なぁ?」
 財前に証人、とばかりに話を振ると、後輩は「明らかに(親友として)小石川先輩を好きなんはわかります」とだめ押しされた。
「光、お前、今日そういうモードか? あまのじゃくか? 千歳にSなモードか?」
「いやこの空気すら意に介さない…謙也さんみたくKYというのとはちゃう…空気ごと悟っていてその上で介さないタイプ…の典型が夢に左右されとるという珍事件があまりに愉快でおもろくて…」
「いじりたいだけか…」
 半目で小石川が問うと、後輩はこくりと素直に頷いた。
 そういうモードの後輩の相手を諦め、小石川は携帯を操作しておもむろに千歳の目の前で白石に電話をかけた。
「あ、白石?」
 小石川が白石にかけたのだと、その声で理解した千歳ががばっと顔を上げるが、今にも泣きそうだ。
 やめてくれ、とでも語っている目を交わして小石川は部活の連絡事項のように、
「今、部室で千歳が「白石にふられた」って泣いとるんやけど。誤解させたままでええ?
……切れた。あいつが人の話最後まで聞かないとは珍しい」
「小石川なんばしよっと!?」
「いや、仲を取り持ってみようと」
「どこが!?」
「え、どこって」
 そのままだろう。と言う前に部室の扉が開いて白石が大股で中に入ってきた。
「…しら」
 顔を引きつらせた千歳の腕を掴むと、普段劣っているとは思えない力で引っ張って「ごめんな」と小石川に謝ってから千歳と一緒にいなくなった。
「俺は?」
 謝罪の向けられなかった後輩が、ぽつりと呟いた。





 教室にはちらほらと生徒が集まり始めていて、そこでは話せない。
 屋上に連れてくると、寒い風が顔を撫でた。
「…千歳?」
 振り返ると、千歳は泣きそうな顔で自分を見下ろした。
 夢と同じ、寒い風だ。
 そんな自分の胸中など気付かず、白石がそっと千歳の手を握った。
「堪忍な」
 ああ、やっぱり。
 夢だ。正夢だ。
「…わかった」
「…ホンマ?」
「うん。白石の気持ちば、わかったから」
 言って、屋上を去ろうとする千歳に白石が慌てた。
「え、ちょお待て!」
 素早く回り込んで、屋上の出入り口を身体で塞ぐ。
「お前、なにをわかっとるん? 俺の気持ちて…」
「…やけん、俺をフったってこつやろ」
「は!? いつ!?」
 素っ頓狂な白石らしくない声に、千歳は絶望で閉鎖状態だった思考をうっかり少し開いてしまった。
「…え? やって、白石、今」
「あれは、チョコを慌てて健二郎に渡して「堪忍」なって意味や!」
「……え、あ…。…そうやったと?」
 本当に小石川が言うとおりなのか、と聞くと白石は気まずそうに目をそらした後、うんと頷いた。
「姉貴が作っとるの手伝って、一個もらって…俺が作ったことにもなるし、あげるヤツなんてお前しか…」
 ぼそぼそとした声だが確かに千歳に届いた。
 胸がじんわりと暖かくなる。白石は重ねてごめんと謝った。
「せやけど、いざお前の下駄の音聞いたら、そんな寒いこと出来るかって…」
「…白石、意地っ張りやけん」
「…知っとる。…し」
「し?」
「……お前、高校どないすんねん」
 白石の急な質問に、千歳の方が目を瞬かせるところだった。
「…高校?」
「九州…帰るん?」
「…いや、親父に頼んでこっちに…通うこつば決めとう」
「……そっか」
 途端、白石が酷く安堵した顔で息を吐いた。
「…白石、それが不安で…俺に言えんかったとや?」
 白石も、自分との別離に脅えて今まで言い出せなかったのだろうか。
 いや、でも白石がそんな前から自分を好きな筈がない。そうすぐ撤回しようとした千歳を見上げて、白石は頬を赤く染めてコクリと頷いた。
「…し、らいし…っ」
 瞬間、世界の寒さなどどうでもよくなり、ただ目の前のたった一人が愛しくて堪らなくなって抱きしめる。鼻をシャンプーの匂いがくすぐった。
 少しだけびっくりした白石も、力を抜くよう努めてくれている。受け入れられている。
 それが堪らなく嬉しくて、また愛しくなった。
「…好いとう。好いとう…白石」
「…俺も…」

 好き、と小さく腕の中で囁かれた。





 ちなみに、後日夢占いで小石川の考えた通り、ただ不安が作用しただけということがわかったが、既に想いが報われた千歳はどうでもいいと聞かなかった。
 財前一人が、だからあの人の世話を焼くと損をする、と言った。








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 バレンタインが過ぎた後に、バレンタイン話を量産していて、自分で不思議…。
 たまには付き合い前、を書いてみました。…前から書いていたっけか…。
 最初でシリアスムード漂ったのに、ただのアホ話でした。

 2009/02/19