◆君といつまでも◆
鼓膜までを振動させて響く、聞き慣れた音色と英語の歌。 耳朶に引っかけたヘッドフォンから、範囲を絞り込んだ音がかき散らして響いてくる。 「…“Don't let me down...I”」 覚えのあるフレーズを小さな声に乗せて口ずさむ。ヘッドフォンの御陰で自分の声はほぼ全く聞こえない。 聞こえるほどの大きさで歌ったら、いくら屋上で誰もいないとはいえ聞き咎められる可能性があった。 高い青い空が圧し掛かるでなく視界に飛び込んでくる。眼鏡を外した素の視力にも澄み切った柔らかい夏色の空。屋上への扉のある、突き出た場所の屋根に寝転んで、何度もリピートさせた歌を聴いていた。 眠気が襲うわけではない。ただ、何となく動きがたくて、乾はそのまま身体から力を抜いた。 白い雲の断層は如何にも夏の風情。影が時折視界を覆った。 風は、涼しい。渡っていく鳥と同じに、頬を撫でていった。 「“Don't tell me nothing.....What is not knowing mutually...”」 ふ、と思い浮かべては消える。 記憶だとか、感情だとか。 感傷だとかを。 判ってしまうから、空しい。 「良いご身分だな」 頭上から、ヘッドフォンの音も掻き消して降ってきた声。 歌に邪魔されても、聞き分けられない程付き合い短いわけじゃない。 ただ、裸眼では見下ろされている事くらいしか判らなくて。 咄嗟に起き上がったら避け損ねた相手の顎が後頭部にヒットして、乾はしばらく頭を抱えて呻いた。 相手も同じくらいの威力で痛みを受けて、顎を押さえて睨み付けている。 眼鏡を何処に置いたかもう不明だが、ひとまずヘッドフォンを外して、久方に外気に触れる耳がすぅっとした感触を味わうのに任せた。 「………で、大丈夫?」 凄い音したし。 「……注意して起きろ」 「眼鏡がないから位置が判らなかったんだ。…痛いみたいだね流石に。 俺もまだ頭痛いし」 「なら避けろとか言うなりしてから起き上がれ」 「無茶言うなよ手塚」 他の顔見知りでない生徒なら“大丈夫”で済ませる癖にこれだから。 なんて内心で呟いて、乾は稼働しっぱなしだったMDを止める。 「十一組は五時間目は体育だろう。完全なサボリか」 「そういう一組は数学じゃなかったっけ?」 「自習だ」 「課題出たんじゃない?」 「もう済ませた」 「はい流石」 「思ってもいない事を言うな学年首席の分際で」 「……分際って。誉められてんだか貶されてるんだか」 「貶して欲しいのか?」 「いえ全く」 降参とばかりに両手を上げて、乾は一つ彼に判るような息を吐いた。 「体育は別に自習じゃないけどね。諸事情により俺は休み。 教室にいても暇なので」 「諸事情? 朝練に来なかった事と関係有るのか?」 「有りますとも」 「なんだ?」 「……どうして命令口調かね君は」 「手を上げただろうお前」 「……………はいはい」 言わなきゃこの場は終わらないなとこれまでの付き合いから判断。 手塚に眼鏡取ってと要求したら、言ったらと告げられて視線を見えもしない空に流した。 「捻挫」 「…足、をか?」 「うん」 ほれとばかりに包帯の巻き付いた足を見せてやる。 意外そうな顔をしていたかは判別不能だが、納得はしてくれたらしい。 眼鏡を渡された。 「何をやった」 「まるで俺が危ない事をやったような言い方は止めてくれない? ただ単にマンションの階段踏み違えただけだよ」 「ふうん」 興味失せたような呟きが風に乗る。本当はそうでないと知っているから平静でいられるが、そうでなければそれなりに腹は立っただろう。 すくっと立ち上がって、敷いていたジャージの上着を掴む。 「じゃ、俺はそろそろ教室戻るんで」 「よくその足で此処に上れたな」 「コツ掴んだから」 じゃ、ごゆっくりなんて言葉を吐いて、乾は両足を鉄の梯子に掛けると器用に片足だけに力を入れて下まで降りた。上から見る限り、左足が僅かにぎこちなく動くだけでさほど目立たない。 此処まで来るくらいだからそんなに酷い捻挫ではないのだろうと考えて、手塚はぼんやりと空を見上げた。 「……………………」 何処までも高かった。晴れていた。 「……“Don't tell me nothing....”」 乾が口ずさんでいた歌詞を声に乗せて、ひっそりと息を吐く。 まだ遠い。 かんかんと軽い音を立てて階段を上る。 途中で乾の姿に気付いて、不二は“あ”と短い声を上げた。 「…、乾」 授業はどうしたんだろう、という感情が胸の内にありありとあったが敢えて口にはしなかった。自分のような状況もあるだろうと、考えた上で。 乾も、不二の名を呼びはしたがやはり不思議そうな顔をした。 その足の動きが、妙にぎこちない。ついで十一組は体育だったと思い出す。 「見学?」 指で示すと、口の端を上げた彼が“まぁね”と呟いた。 「不二こそ。まさか自習とかじゃないだろ?」 ちゃんと先生いたよな。 乾の言葉に不二はふるりと首を振って中途半端に階段を踏んでいた足を、キリの良い踊り場まで上げた。 「六組はプリント終わり次第自由。終わったからフリー」 「ってことは菊丸はまだだな」 「あはは正解」 いたらついて来てる。 「屋上?」 「うん。ついでに美術のやっちゃおうと思ってさ」 「スケッチブックなしで?」 「次の授業。記憶スケッチなので覚えて置こうと思ったの」 「成る程」 眼鏡の奥で、数度瞬きを繰り返して、乾は言おうか迷うが、結局言わないことにする。 どのみち、手塚とは鉢合わせるだろう。 なんなら、もう少しいるんだった。 「じゃ、せいぜい頑張って」 「嫌味。乾も気を付けてね」 「どうも」 お互い素っ気なく言葉を交わし合って、過ぎる。 瞬間に、視線を掠めた淡い色の髪筋だとか白い首筋。 ちょっとした悪戯心に手を伸ばして首の後ろを掠めた。 何かと振り返った不二を見上げる形で紙屑を見せる。 「ついてた」 「あぁ…英二だな。 ありがと」 大方菊丸が何かやったんだろうと見当はつく。 今度こそ別れて、乾は彼に気付かれぬように見えなくなる一瞬の背を眼で追った。 乾が寝転んでいた場所でしばらくうとうとと微睡む。 空の模様だとか、そんなものを見る気は特になくて。 外した眼鏡を傍らに置いたまま、手塚は一度だけ手を伸ばした。 眼を伏せて、頬を撫でる風にいよいよ眠ってしまいそうになる。 強ければ煩わしくなる風の呼吸も、柔らかな時には酷く落ち着いて。 頬を撫でる。髪を流していく、心地よい感触。 真下で扉の開く音がしたが、特にどうしようという気にもならなかった。 上に上がられなければ気付かないし、何より瞼が重い。 もしかすれば乾が引き返してきただけかもしれないと、そのままを決め込んだ。 何処かで聞いたような鉄の音が、時折鼓膜をくすぐる。 そんなものにすら興味も持たなくなってきて、何時しか淡い眠りの中にいた。 唖然としたものだ。 最初は。 空を見るならフェンスに寄りかかってでもどうとでもなるのだが、梯子を登った上ならさらに空に近いだろうと思いついた。 上半身が屋根の上に出て、そこで直ぐに気付いたのだが。 やはり、ギョっとした。 「……………………………」 眼鏡を外して。 不二に気付いた様子もなく眠っている姿。 (………なんで手塚が) 声にもならなくて、胸中で突っ込むので精一杯。 硬直状態から抜け出しても、しばらくはそのままの体勢だった。 よく考えたなら、屋上までの階段は一本道に等しい。 乾は知っていたんじゃないだろうか。 そう思うと恨めしいような、悪態付きたくなるような。 音にもならないような吐息をつくと、不二はとりあえず屋根の上に身体を降ろした。 あのままの体勢もなにげに疲れる。 手塚は本当に眠っているらしい。 不二が傍らに腰を下ろしても微動だにしない。 「…………………………、」 手塚の、髪が風に梳かれて時折ぱさりと音を立てた。 顔に落ちる影。髪が掛かった瞼は閉じられたままで、ぴくりとも動かない。 外された眼鏡。素顔の。 (………………………やっぱ綺麗) どうして眼鏡掛けてる人って外すと美形ってオチが多いかな。 少なくとも自分の近場ではそうだ。 乾もあれで、一度水泳か何かで眼鏡を外した時にはクラスの女子に“コンタクトにしないの?”と問われたらしい。 上空を渡る風が降りる度、髪やシャツを緩やかに揺らしていく。 (……本当に寝てるんだなぁ) そう思うと笑えたけれど、吐く言葉もなくて思わず片膝を抱えた。 チャイムなら鳴らないでと願う。 もっと早くにプリントを終わらせればよかった。 英二のまで手伝ってるんじゃなかった。 もっと早く。 来れば。もっと見ていられるのに。 彼の寝顔なんて珍しい。二人でいるのも、珍しい。 「………、」 手塚の肩の側に両手をついて、右側から寝転んだ姿を見下ろした。 自分の髪や服の影さえ彼の上に落ちていく。そう思うと、余計に感情がざわついた。 ついと伸ばした指先で、前髪を梳くように触れた。 「………早く起きなよ」 囁きじみた声は、風に吹き散らされ空に拡張して消える。 瞬きの動きすら、起こさない眼下の人。 「……………………襲っちゃうよ……?」 脅しというより、お願いめいた響きは、自分の耳に残るだけ。 ぴたと、額に指先を這わせて。 それでも開かない瞼に、そっと口付けた。 ほんの一瞬。 震えた瞼に、即座に身体ごと離れた。 「……………………」 一度は開かれた瞼が、何度も覚ますように瞬いた。 まだ焦点が合わないのか、手塚はしばらく天上を見上げたままでいる。 不二に気付かないまま伸びをした、手に当たった眼鏡が僅かに転がって、不二は慌てて拾い上げてしまう。 そこでお互い、視線が合った。 「……………おはよ」 「……………………………………、……おはよう」 という時間ではないのだが、“どうして不二が?”という疑問も手伝って、手塚はついつられてしまった。 上体を起こして、ぼやけた視界でも何とか不二の姿を捕らえようとする。 「………ね、寝惚けて、る?」 妙な部分で区切られた言葉に、いやと答えるが。クリアではないのは確かだった。 急に起きた自分に驚いたのか、不二も妙にぎこちない。 「………自習?」 「ああ。お前は?」 「僕はプリント終わったら自由」 だから美術の記憶スケッチの為に覚えておこうと思ったんだけど。 という補足を耳にしながら、手塚はしばらく経っても晴れない思考をなんとかしようという思考すら、失せてきている事に気付く。 眠い。確かに昨日は遅かったが。それにしても眠かった。 一眠りする前はこれ程ではなかったのだが、一度中途半端に眠ってしまうと我慢が効かないというのは強ち嘘でもない。 ふと考えて、不二は何をしていたのかと思う。 目覚める間際、酷く近くに人の気配を感じた。 裸眼でも何とか捕らえられる、不二の笑顔と、肩口に落ちた髪の影。 酷くぼやけて、それがやけに勿体なく感じる。 「………? 何か言った?」 「…いや」 そういえば、眼鏡はどうしたんだろう。 今更、どうでも良いことのように思う。 チャイムはまだ鳴っていないはずだ。鳴らなければいい。 不二はぼんやりと空を見上げて、こっそりと息を吐く。それが伝わって、ふと不安になる。 軽く向けられた背に、不意に突き放されたような気になって寄りかかる。 びくりと驚いて、震えた感触すら、眠いのを理由にして無視をした。 「……手……塚?」 慌てた声で、話し掛けられる度背中に押しつけた頭に軽い振動が響く。 構わず、カッターシャツ越しの体温を追うように眼を伏せていた。 風が頬を撫でるままにして、体重を預けっぱなしにする。 何度か名前を呼んで、起こそうとしていた不二も、やがて諦めたのか一息吐くのが伝わった。 起きたら“また夜遅かったんでしょう”なんて言ってくるだろう。 抱き締める勇気なんてない事すら、気付かないで笑うだろう。 今は、まだ遠い。 せめて後十分くらい、チャイムの音が聞こえないことを願う。 「……仮病?」 少し痛み出した足を休めようと立ち寄った保健室の部屋の主は不在で。 次いで来た来客者に、思わずそう言ったら。“違うわ!”と怒られた。 「乾こそ、どうしたんだよその足」 「捻挫。菊丸は? プリント終わったの?」 後ろ手に扉を閉めた菊丸に問えば、うげといった表情に変わる。 「…なんで知ってんの?」 「不二情報」 「え? 会ったの?」 「まぁね」 「え、何処?」 「内緒」 「何それずっりぃ!」 「保健室では静かに」 しーなんてジェスチャーを真似させて、乾はさてとと寝台に横になる。 「乾…病人違うじゃん」 「疲れたの。菊丸こそ」 「…………俺は眠くて」 「人のこと言えやしない」 「はいはいはい悪かったよ」 ぶつくさ言いながら記帳する菊丸の背を遮るように、カーテンを引いて。 乾は眼鏡を取る気もなく瞼を閉じた。 詰まらない意地で自分を苦しめるなら、動けばいい。 掴んだ自身の腕を、きりと握り締めた。 詰まらない意地ほど、動けないほどに重かった。 「…………Don't tell me nothing....」 自分に聞こえるか怪しいほど微かに、口ずさんで。 |