トロイメライ







「………どうしたんだ?」
 朝のテニスコート。
 集合を掛けた本人も、最後にやってきた三人の内一人を見て潔く状況を悟ったらしい。
 引きつった笑いを浮かべる菊丸に問うても無駄と判ってか、今度は不二に同じ質問を向けた。
「英二が乾の眼鏡壊しちゃったんだよ」
「…それでか」
 癖にでもなっているような息を吐いて、手塚はひとまず部員に向き直る。
 解散の声を掛ける間にも、部員やレギュラー達の小声会話は当然ある。
 最初乾に“誰?”という目を向ける者が多かったが、此処にいない人間と長身と髪型で不二の言葉よりは早く彼が乾だと理解したらしい。

「……乾先輩、あれで教室行けんスか?」
「…さぁ、どの程度視力が悪いか知らねぇしなぁ」
「桃先輩視力良さそうっスからね」
「お前もだろ…」
「まぁそうっスけど………?」

 木々の葉が風に応じて空を横切っていく。
 解散の声に、まばらに散っていく部員。

「…………海堂先輩、何見てんスか?」
「…方向的に乾先輩だろ。ってか皆そうじゃん」
「あの人のすっぴん珍しいっスからね…」
「意味が違うぞ越前…」
 本当に見えないらしい。目の前で振られる手にも微動だにしない乾が、コートの端で大石等に囲まれている。

「で、大丈夫なのか?」
「授業受けるくらいは問題ないと思うけどね。問題は移動」
「十一組って、移動教室あったっけ?」
 そもそも上の階なんだよね。
「一階理科室まで移動あるよ」
「…ていうか理科の実験なら君無理でしょ。休んでなよ…」
 指切るよ? という不二の言葉にはその場にいたレギュラーも同感。
「そうだねぇ…」
 そうするかな。と苦笑混じりに息を吐く乾の表情が、普段の眼鏡というブラインドがない分新鮮で慣れない。
 唯一構いもしないのは不二で、とりあえず授業始まるから着替えよう、と周りを促している。
「不二先輩はマイペースっスね」
「おチビは知らないんだろうけど…、不二は一年時乾と同クラスだったかんな」
 眼鏡無しは見慣れちゃってるんだろうなぁ。なんて言っている菊丸は、まだまだ罪悪感に付きまとわれているようで、言葉尻も何となく重かった。



 昼に、何となくで弁当を持って屋上へ出た。
 空が近い。やけに、澄み切って感じる。
 誰かと食べようとあまり思わなかった。
 けれど入り口でおおっぴらに広げる気もなくて、少し裏手へ回ろうとしてふと、海堂は先客の存在に気付いた。

「……………」
 柵に囲まれ空に面した箱。
 ところどころ汚れた、コンクリートの上に平然と寝転がった、四肢の長い男の。

「………乾先輩?」
 眼鏡はない。
 が、これほど背の高い人は知り合い以前に、青学にもそう何人といない。
 両手を頭上で組んで枕にして、眼を伏せたまま、海堂に気付く様子がない。
 近寄って間近でしゃがみ、もう一度声を掛ける。

 後々考えたら、起こす必要はなかったんだけど。まだ昼休みも始まったばかりで。

 けれど。 「…乾…先輩。なに寝てんすか」
 そもそも、この人放っておいて教室に帰れるんだろうか。
 なんて。
 空を渡る風が近い。雲が白い。影が、通り過ぎていく。

 別人のように見える。
 眼鏡がないだけで。

 なんで。

「……………、………?」
 小さく顔の筋肉が動いて、乾が殊更静かに目を開ける。
「……誰だ?」
「あ、」
 声を上げてしまってからハッとする。
 この距離でも眼鏡が無くては誰だか判らないのだから、律儀に声なんてあげなければ判らないのに。
「……………海堂?」
「……そうです…すいません」
「や、謝ってくれなくていいけど…」
 言いながら両手を伸ばして欠伸をし、起き上がるかと思えば乾はまた頭上で両手を組んだ。
「昼飯?」
「そうですけど…先輩は食べないんですか?」
「俺はもう食べた。で、昼寝」
「…そうですか」
 何だか脱力した返事を返してから、海堂は現在の時間を思い出して眉根を寄せる。
「…って、昼休み始まってまだ五分なんですけど……」
「食べる気なら食べられるよ五分で」
「…………………」
「納得いかない? 種明かしすると四時間目が十五分早く終わったんだ」
「……ああ」
 ようやく納得したらしい海堂の声に小さく笑って、乾は伸ばしていた足を軽く組む。
 飽きもせずに空を見ているように、海堂には見える。

「……見えてます?」
「青、って事だけね」
「楽しいんですか?」
「弁当食べなくていいのかな」
「質問…」
 はぐらかしてません? なんて語尾に込めたような台詞に、乾は悪びれもせずにまた笑う。

「どうでもいいんだけど俺は」
「は?」
「見えても見えなくても。ほら」

 いつも眼鏡で見えない双眸がはっきりと輪郭まで見えるのに、注意してみれば笑っているのはやはり口元だけで。何となく腹が立つ理由が、判らなくて海堂は虚空を睨む。
 そんな事は見えていないからか、興味がないからか。
 乾は視力の低い目で空を仰いで呟く。

「屋上は逃げ場で箱庭だからね」

 風が、吹いている。


 苛々する。

 どうしてこの人は平然として居るんだろう。
 自分に負けたのに。
 レギュラーから外れたのに。


 いつでも眼鏡の奥で口だけ歪ませて。

 それはいっそ――――――――――――――――…のようで。






『いつでも低い視界から空を見ていた。

 誰かを見上げることのない、それが自由だった。

 空に近づいた視界の中で、自分はまた、空を見ている。


 素のままではもう、雲の姿も見えない。』




「――――――――――――――――――――――――――――――――……」

 鉄の柵。
 空だけ開け放たれた、人工の檻。
 石の床。
 青学の北校舎の屋上だけは入り口が厳重に施錠されている。
 それもそのはずで。
 一角の面の柵が完全に外されているからだ。

 しかし、巻き付けた鎖も、閉めた鍵も好奇心旺盛な中学生の前には無効である。

 何か用があったというのではない。
 ただ“景色が絶景だ”とほざいていた桃城に“臆病”等と言われて腹が立ち、足を向けてみただけで。
 頭の中で、自殺には絶好だろうななんて冷ややかに考えて。

 たら。

 まさか本当に、柵のないぎりぎりの場所に立っている長身の背を見付けて。

 息が止まった気さえした。

「……せ……」
 風に僅かに揺れる髪。眼鏡のフレームの端が輪郭だけ見える。
 背いていても見違えようのない姿。
「…先輩…何して…!」
「…? 海…っわ!」
 呼び声に僅かに首を傾けたのも束の間、肩を掴まれ渾身の力で中の方に引き戻されて、乾はそのまま仰向けに倒れた。
 固い石の衝撃に見舞われたのは足だけで、衝撃を覚悟した後頭部や背には代わりに生暖かい感触。

「………………何やってるんだ?」
「………………………………………………………………………それ、こっちの台詞です」
 倒れ込んだ拍子に眼鏡が吹っ飛んだまま、海堂の足の上に体重を預けている乾の顔を、相当肝が冷えた想いで海堂は見下ろした。
「眼鏡…」
「眼鏡より…。何やってんですか先輩は…!」
「何って…立ってただけだけど」
「あんなとこにですか!?」
「うん」
 即答。
 何だか腹が立ったのだか焦ったのだか、さっぱり判らなくなって海堂は顔を押さえる。
「…海堂? 眼鏡くれると助かるんだけど」
「……眼鏡、ですか」
 妙に疲れた気分で周囲を見回す。少し離れた場所に転がっているのがすぐに目に入った。
「じゃ、取ってきます」
「うん」
 結構飛んだのか。まぁ落ちて無くて良かった。なんていつもの無機質な声で。
 焦って止めた自分が馬鹿みたいだ。
 掴んだ眼鏡を無意識に強く握ってしまって、手の平に食い込んだフレームの痛さに我に返る。
「ありがと」
 簡単に礼を言って、掛け直してから乾は状態を起こす。普段通り過ぎる。態度が。

「…なんで、あんなとこに立ってんですか」
「空が近いから」
「何処でも屋上なら一緒でしょう」
「高さはね」
 否定だか肯定だか判らない声。
「前に言ったこと覚えてるかな」
「………前?」
「屋上で」
「……『逃げ場』」
「うんそれ」
 立ち上がって、目なんてこちらからじゃ見えない厚い眼鏡の向こうからこっちを見て、口元を上げて、高い位置から。


 なんで。


「……逃げたいんですか?」



 乾は少し、笑みを浅くして、海堂の横を通り過ぎる瞬間に頭を手で叩いていく。

「まさか」



 コートの向こうで、騒ぎ合う部員達の姿が見える。
 落日の空、雲の影が濃い。暗い。
「上の空?」
 急に上から声を降らせて、覗き込んできた顔に正直驚いた。
 声を上げなかったのは、単に海堂だったからだろう。
「あ、凄い驚いてる顔」
「……不二先輩」
 急に出てきて、驚いて当たり前だっていうのに。この人は相変わらずにこにこと擬音が聞こえそうな程に笑っている。
「いいんですか打ち合い…次先輩の番じゃ」
「僕は先送り。今英二の番だよ」
 だから来てみた。なんて理由になりそうでならなそうな。
 不意に何でこの人いつも笑ってるんだろうと思う。

 苦手だ。

「海堂、何か考え事?」
「別に何でもないです」
「何でも無くないですって見える」
「……不二先輩」
 ベンチに座っている海堂の前で、しゃがみ込んで笑っている先輩が、夕焼けの中で妙に希薄になる。
 変な、既視感。

「…あ、ごめん」
 急に、小さく吹き出して、不二はひょいと立ち上がる。
「駄目だね」
「…何がですか?」
「こっちの事だよ」
 遠くで、手塚が呼ぶ声を訊いて、不二はパッと顔を上げて“今行く”と声を上げる。
「じゃ、お邪魔さま」
「あ」
「ん?」
「…あ、そこの柵って……何でもないです」
 言いかけて、何訊いてるんだとすぐに口を閉じる。
 そんな感情の揺れすら見透かしたように、不二は微笑んで後ろ手に腕を組む。
「北校舎の屋上でしょ? ずっとああなんだよね」
「…昔から?」
「少なくとも僕等が入学した頃から。行ってみたの?」
「……………」

 沈黙の返事に、吐息だけで笑う気配が伝わる。
 双眸を細める、様すら奇妙に非現実的に映る、目の前の。

「乾ってさ、昔からあの場所好きなんだよね」
「……!」
「じゃ」
 茫然と、駆けていく背を見送る。









 苛々する。

 どうしてあの人は平然として居るんだろう。
 自分に負けたのに。
 レギュラーから外れたのに。


 いつでも眼鏡の奥で口だけ歪ませて。

 それはいっそ――――――――――――――――…彼のようで。










「何を話していた?」
 前を歩く、固い声の響きに不二は小さく笑う。
「……気にした?」
「さあな」
「素直に言ってよ手塚」
 くすくすと楽しげに笑って、手塚の顔を覗き込んで。
「ほら、皺増えてる」
 機嫌悪そうだよ。なんて示してから、ふと表情を止めて、また緩く不二が笑う。
「…? 不二?」
「ううん」
 大したことじゃないんだ。
 夕焼け。徐々に濃くなる赤。血のような色。
「ただね、駄目だなって思って」
「…駄目?」
「うん」
 ついと手塚よりも前に出て、振り返って歩きながら、不二は楽しげな微笑みを乗せる。
「乾に言われたんだよね。前に」
 空に、赤い雲に届かせるように両手を伸ばして。紡ぐ。





「あんまり人のこと読んじゃ駄目だよって」



 腕さえも、染める赤。







最近宣われてショックな事。
「あんたはリアクションテンポがおかしい!」
リアクションテンポってなんですかマイフレンズ。
それはとにかくなんで乾受け書こうとして逆っぽくなるかな自分。
矢印違うんじゃないか自分。
両目とも視力が0.5下がってたのがショックだよ。
いずれ眼鏡の仲間入りをするかと思うと複雑だ。