全ては誰の夢。

差し出された手に気付かないままに墜ちていく。








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吊り橋の楽園
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 霧が出てきた。
 深い、深い森。
 抜けると、一本の吊り橋が揺れていた。
 ぐらぐらと、崖の真ん中に。
(…あれ、俺、なんでんこげんとこ)
 前後が思い出せない。
 千歳が足を止めようとした時、声がした。
 霧の中、吊り橋の中央に立つ人が、呼ぶ。

「千歳、遅いで」

「…あ、ああ。…白石」

(ああ、そうやった。白石と、待ち合わせしてて…)

 してて?
 彼は笑う。
「はよ来いや。いつまで待たせんねん。
 待ちくたびれたわ」
「…」
「千歳? はよ。もう、向こう行くで」

 ―――――――――――――駄目だ。

 急げ、と警報がする。

 逃げなくちゃ ―――――――――――――。





「千歳!」
 声に起こされた。
 息苦しかったのは、きっと熱の所為だ。
「…大丈夫か?」
「…桔平…? なんでん、俺ん部屋おると」
 東京にいる筈の親友が何故。
 顔にも出ていたのだろう。熱にうなされてベッドに横になったままの千歳の額に冷えぴたを張ると、橘は“親戚の家に来てるんだ”と答えた。
「で、久々にお前と打ち合おうと思ってメールしたんだが。返事がないから心配してきてみれば…」
「…熱ば、何度あった?」
「九度越えてる。休め。寝ていろ。粥でも作ってやるから」
「…食欲なか」
「食べろ」
「……うん」
 ―――――――――――――九州に帰ってきて、一年が経った。
 夏だ。
 ゆるりと糸をひかれるように、眠くなる。
 昨日暑いからと腹を出して寝て風邪を引いた。
 白石が聞いたら怒りそうな話だ。
 …考えて、まずいなと思う。
 咄嗟に、名前が浮かぶ。
 …切り捨てた、つもりなのに。





 ぎしぎしと、彼の足下で軋む吊り橋のロープ。
 彼が、微笑む。
「千歳、来いや。なにしてんねん」
「………」
「千歳?」
「……なんでん、…」
「…?」
「なんでん、いつも、夢ば出てくると…?」
 白石が不思議そうに笑う。
「お前が、呼ぶからやろ?」
「…呼んでなか」
「…冷たいなぁ。あんなに好き言うてくれたやん。やから、会いに来たんや。
 嬉しない?」
「…本物の白石なら、嬉しか…」
 今にも切れそうな吊り橋の底に一緒に落ちても、構わないくらい、嬉しいだろう。
「…けど、…俺ば先に切ったは白石とやろ」
「……」
「メールも電話もした。手紙もずっと出した。
 …携帯ば通じなくなってメールも返ってきて…、手紙の返事もこん。
 俺を先に切り捨てたは白石とやろ!!」
「…やから?」
「…だけん! 夢にばもう出てこんでよか! もう、…よか。
 ……お前が、俺ばいらないなら、…俺も、…諦めると」
 本当は、一個も諦められていない。
 けれど、嘘を吐いた。
 彼は、白石じゃない。
「…ほな、なんで俺はここおんの?」
「…それは…!」
「お前が、俺が恋しいて、俺のことでいちいち揺らいでる証拠やんか。
 俺に会いたい。俺を抱き締めたい。俺を抱きたい。俺に“好き”言うて欲しい。
 …お前の、望んどることやんか」
「……それは否定せん。今でん、抱き締めたくてしかたなか。
 けど怖か。…会いに、大阪会いに行って、…顔見て嫌い言われるんは怖か…!
 死んだ方がよかくらい辛か…! だけん、俺も忘れる! やから…!」
「…俺がここにおる」
「…」
「お前は、俺を捨てられん。その証拠や」
 白石の手が、俺を招いた。
「おいで。千歳。
 俺は、ここにおる。お前の、傍におる。好きなだけ、抱き締めてええ。
 好きなだけ、好きって言うたる。…一緒におったる」
「……」
「…やから、おいで、千歳。
 ここまで。そんで、一緒に向こう行こう」
 向こう岸を、見てぞくりとした。
 霧で全く見えない。
 駄目だ。

 吊り橋の向こう岸に行ったら、―――――――――――――アウトだ。

「千歳」
「……は、はは。白石は、夢ん中でも強引たい。
 …俺を、殺す気と?」
「千歳は、俺となら心中したってかまわんやろ」
「本物の白石とならな」
「…本物やで?」
「嘘たい。お前は、俺のただの願望の…」
「千歳」

 おいで。

「…千歳。好きって、言って欲しいやろ?」





「…」
「…千歳?」
 橘は眠る顔に声をかけて、気のせいかと用意した粥を置いた。
 眠った彼が、なにか言った気がした。
 体温計を差し込む。
 熱は、下がっただろうか。







「…」
「言って、欲しいやろ?」
「…欲しか」
「…俺んこと、抱き締めたいやろ?」
「…」
 うん、と頷く。
「…なら、おいで。“俺”はお前を拒絶せん。傷付けん。いらんって絶対いわん。
 お前の声に、いつでも答える。ずっと傍おって、みたい夢見せてやる。
 …千歳、俺んこと、好きやんな?」
「…好きたい」
「…なら、おいで? …千歳」

 大好きやで―――――――――――――。

 その声、言葉に足は勝手に吊り橋に踏み出した。
 ぎしぎしと揺れる。
 それでも歩いた。
 頭の隅で、まだ警報がなる。

 ―――――――――――――駄目だ。そっちに行ったら、駄目だ。

 五月蠅い。
 うるさい。
 もう、あっちの岸に白石はいない。
 ここにしか、いない。
 俺は、白石が欲しい。
 傍に立って、微笑む彼を抱き締める。
 暖かい。夢なのに。
 背中に回される腕に、幸福が胸を満たした。
「…千歳」
「…白石、好いとうよ」
「…うん」
 白石が笑んで向こう岸を指さす。
「行こうな?」
「………」


 ―――――――――――――向こう岸に行ったら、帰って来れない。
 … 駄目だ。


「…うん、連れてってくれんね。一緒に、行こう………」
「うん、千歳。……ずっと、俺の傍にいてくれるやんな?」
「うん」
「…千歳、…好きやで」
「俺も…」

 愛しとる…。


 ぎしぎしと揺れる吊り橋。
 向こう岸が近づく。
 向こう岸についたら、きっとこの橋は切れる。
 それで、お終い。
 最後はいつも、俺の負け。




 それでも、愛していた。
 もう、拒絶されるのは、疲れた。
 幸せな夢に、浸っていいだろう?
 現実のお前は、俺を要らないと言うんだから。

「…白石」
「ん?」
 向こう岸の一歩手前。
 問いかけると、微笑む顔。
「…俺んことば、好き? ずっと、一緒にいてくれんと?」
「……うん。ずっと」


「一緒や、千歳…」


 その彼の顔ももう霧で見えない。
 沈む意識は霧の中に消えていく。
 背後で吊り橋が崖の底に落ちた。
 もう、―――――――――――――戻れない。





「…千歳?」
 橘がいぶかしんで呼ぶ。
 体温計が鳴った。
 取り出して、喉が鳴った。

 42度。

「千歳…ッ!」






 霧の向こう。もう戻れない向こう岸。
 それでもいい。

 お前は、ここにいるんだから。




 幸福な夢。

 それは、彼の岸に続く、世の境夢。























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