ちょっとした騒動









 それは、ある日の朝方。
 朝食のあわただしい時間。
 石田は廊下に落ちているパスケースを拾った。
「?」
 誰かのだろう。落とし物ボックスにでも入れておこうと、石田は事務室に向かった。
 しかし、途中で名前が書いてあるなら、と中を開いた。
 すぐないと困るということはないだろう。寮生はつまり、学校に行くのに電車を必要としない。だが、発見まで時間がかかっても可哀想だし、寮生のまとめ役でもある石田は、大抵の寮生の名前と顔は一致する。
 ブラウンのパスケースを開くと、そこにはSuicaと一枚の写真。
 所謂、持ち主の好きな人というヤツだろう。だが、それに写っていたのは、小石川。
 石田の同室で、副寮長的な役割の寮生。石田の恋人。
 ここは、男子寮だ。女子の持ち物は落ちているはずがない。
 ということは、






「あ、師範。ご飯食べ行こや」
 部屋に戻ると、小石川が笑顔で出迎えた。
 今日はまだ眼鏡だ。
「ああ」
「………」
 小石川の笑顔が、ひくりと固まった。顔も引きつる。
「師範?」
「ん?」

(ん?やのうて…)

 小石川は内心怖くなった。だって、顔に出ていないが、今の石田はどうみても不機嫌だ。
 しかも、かなり深い不機嫌。
「どないしたん?」
「なにがや」
「…え」
 小石川は立ち上がったまま、言葉を失った。すぐ、石田にはよ行くでと急かされて、勢いで頷く。
 部屋から出た途端、石田に手を掴まれた。
「え?」
 石田は答えない。が手を握ったまま、そのまま歩き出す。
「師範!?」
「ん?」
「ん?やない! この手!」
 自分の手と繋がった石田の手を離すと、石田はああ、と呟いたあと手を離してくれた。
「どないしてん? やっぱりなんかあったよな?」
「…なんもない」
「嘘やろ」
「健二郎。廊下で儂ら、揉めるとまずいやろ」
 冷静な顔で、冷静すぎる声で石田に言われた。小石川は文句を仕方なくのみこむ。
 まとめ役と副寮長的なポジションの寮生が廊下のど真ん中で揉めるのはまずい。
「行くで」
 そう肩を叩いて促す石田の手も、声も優しい。
 だが、声に、顔に、雰囲気に。親しい人間しか気付かない怒気がある。
 どうしたんだ。





(まさか、俺、なんかした?)
 配膳されていた食事を受け取って、小石川は決まった席に座った。
 寮の食堂の席はフリーダムで決まっていないが、三年もいるとこいつはここに座る、こいつと食べる、という暗黙の了解が決まる。
 小石川はいつも、石田の隣で真ん中付近の席だ。
 理由は寮生仲間が話しかけてくるから。奥に座ると、こっちに来い!と引っ張って行かれる。
 そんな絡まれやすいタイプで、絡んでいくタイプ。
 だから、副寮長的な位置にいる。
 前や斜めの席はいつも特に仲のいい友人で埋まる。今日もそうだ。
 千歳と白石は奥の方に座っているのが最近の決まり。
「なあ、小石川」
 話を唐突に振られるのはいつもだが、小石川は気付かなかった。
(やっぱり、俺、やんな…?)
 石田の様子のおかしさで一杯である。
 基本、穏やかな石田が怒るのは、大概自分絡み。
 そして石田にことある事に言われる。「危機感と自覚を持て」と。
 そのたびわからなくて、彼にため息を吐かせる。
 だから、今回も自分がなにかしでかしたのだ。
 しかし、やっぱりなにがいけなかったかわからない。
「小石川!」
「うおっ! ……ああ、びっくりした」
「びっくりやないわ。さっきから話しかけとったで」
 石田と逆となりの席に座った友人が、ぼーっとして気付かない小石川の肩を強引に抱いてきたので、流石に気付いた。
「で、今、英田とかと言うてたんやけど。昼間、暇?」
「ん? 暇」
「ならつき合え」
「ええよー。どこ?」
「どこってわけちゃうよ。バスケせえへんって話」
「ああ。ええよー」
 今日は休日だ。校舎と隣接している寮だし、休日もバスケットコートなどは開いている。
「メンバーは?」
「今、英田と小坂誘って、俺とお前。3on3ならあと二人やな…」
「千歳と白石は? それか、宮城と島」
 小石川が名前を挙げたのは、同室同士のバスケ部コンビだ。千歳と白石は一人部屋同士だが、ここは気心知れた間柄というヤツ。
「うーん…どっちも強いやんなー…」
「強いんいれたらあかんの?」
「昼飯奢りを賭けへんかーって」
「ああ。安心し。俺がお前のチーム入ったるから。バスケならどっちにも遅れとらへん」
 小石川がにやりと勝ち誇って笑うと、友人が「さっすが小石川!わかってる!」と抱きついてきた。
「あ! ずりぃ桐生!」
「小石川はこっち寄越せ!」
「嫌や」
 敵チーム扱いらしい英田と小坂は前の席だ。二人して文句を飛ばす。
「一応俺は桐生の味方せんとあかんしな」
「え? なんで?」
「学食一週間奢ってくれとるから」
「あ、ずっこ! 買収した!」
「別件や!」
 どうやら別件で小石川を買収していたらしい。友人が心外だと怒鳴る。
 食堂のスタッフに「静かに!」と怒られた。
「また小石川くん巻き込んで」
「すんません」
 結構俺は自分から首突っ込んでるんやけど、と小石川は内心思った。
 しかし、副寮長ポジションと、頼られ気質というのはスタッフも熟知するところ。
 どうも、優等生として扱われてしまう。
 小石川の首を抱えたままだった桐生が手を離した時だ。
 石田が席を立って、感情のない声で「健二郎」と呼んだ。
 それに、びくりと小石川は反応してしまう。
「…師範?」
「はよ食べぇ。部屋行くで」
「……あ、うん」
 一気にその場の熱がさがった。普段、小石川と友人の空気に水を差さない石田だ。本当におかしい。
 いよいよ自分の所為なんだという心理圧迫感でいっぱいになる。
 傍で待っている石田に見つめられても、喉になにも通らない。
「…もうええ」
「え? 小石川、ほとんど食べとらんやん?」
「ええわ。食欲ない」
 不思議がる友人にそう答えて、席を立つ。食べたのはみそ汁と魚だけ。
 結構残してしまった。仮にも男子中学生。食欲は余っているはずなのに。




 自分を監視するように部屋に促した石田に、小石川は部屋に戻ってからも怯える視線を寄越した。
 怯えさせているのはわかっている。が、感情がセーブ出来ない。

 あの写真は、あきらかに隠し撮りか、それかかなり気心が知れた仲だ。

 写真は、小石川がどこかでいざ団子を食べようと口を開けたところを写していた。
 かなり間が抜けているが、それが返って可愛い。
 きっと撮られたと気付いてすぐ、撮った主に真っ赤になって怒っただろう。
 そこまで想像出来るほど、小石川を知っているからこそ、面白くない。

 さっき、傍で肩を組んだ友人も、誘っていた友人も、小石川がいいんじゃないかと呼んでいた名前も。
 全部気に入らない。
 誰かが小石川を、自分と同じ目で見て、同じ意味で触れているんじゃないかと思ったら。

「…師範?」

 黙ったままの石田に、流石に不安になって小石川が呼ぶ。下から見上げてくる瞳は、揺れていた。
「…お前、しばらく口利くな」
「…ぇ」
 思った以上に固い声になった。というか冷たい声。
 小石川が一瞬で泣きそうな顔になる。
「あ、ちゃう。儂とやない」
 自分と口を利くなと言われたと誤解した、とわかって石田は慌てて訂正した。
 小石川があからさまに安堵する。
「その、他の仲間と。桐生とか」
「…え? なんで?」
「いや」
 お前を好きかも知れないから、なんて言えない。
 小石川は自分に関して疎すぎる。
「せやから、距離を」
「なんでや? なんかそいつら言うた?」
「いや…」
「なんで? おかしいやん」
 ちゃんと理由がないなら、聞けないと小石川は彼らしい友人思いで真面目な態度で睨んできた。
「…お前を、好きかもしれんやろ」
 腹をくくるしかないと、石田は真剣に言った。小石川はきょとんとしたあと、そんなことかと安堵する。そのリアクションが既に違う。
「そんなはずないて。師範、考えすぎ」
「いや、な」
「俺にそないなこと思うん、師範だけやもん」
 小石川はな?と微笑んだ。やっぱり、これだ。前からたまに「危機感を持て」と注意するが、年中この顔でこの決まり文句。
 石田がため息を吐くと、小石川は一瞬で怯えた顔に変わる。
「ほんまに、自覚してくれ」
「ないて」
「…しばらく、おとなしゅうしてくれや」
「おとなしい方や俺」
「…誘いとか、乗るな」
「……」
 小石川は怯えたまま、不満そうな顔をした。
 嫌そうな顔。
 どうしてわからないのか。
 苛々して、石田の視線にもそれが現れる。
 顕著に身を震わせた小石川が、石田を見上げたまま、言葉を失った。


(やって、そんな、師範らしない…)


 石田らしくない。こんな、自分をぎりぎりに束縛すること、言わないのに。
 どうしてしまったんだろう。怖い。話が通じない。
 いつもの石田じゃない。
 それが怖い。
「…なんで? 俺、師範好きやのに…」
「…」
「それだけや、あかんの…? キスするんも、ヤるんも師範だけやのに…」
 小石川の震えた手が自分のズボンの膝の所を皺になるくらいに握る。
「……っ師範、…もっ…」
 なんでそんなこと、いきなり言うんだ。なんか、むかついてもくる。
 もう知らない。と言いたくなる。でも言えない。石田にそんなこと言ったら自分が泣く。
 でも、従えない。意味わからない。
「……っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 混乱して、ぼろぼろと泣き出してしまった小石川に、石田の方が慌てた。
 しまった。泣かせるつもりじゃなかったのに。
「師範のアホ!」
「…、すまん。そないつもりやなかった」
「…意味わからん…っ」
 首を左右に振る小石川の身体を抱きしめて、背中をあやすように撫でる。

 石田が自分には怒っていないということがわかったのか、小石川も徐々に落ち着いてくる。
 ちゃんと話した方がいいと思って、落ち着いてから石田は拾ったパスケースを小石川の手の平に乗せた。
「これ」
「今朝、廊下で拾った。中見てみ」
「…中」
 小石川は泣きはらして若干赤い目で、パスケースを開き中を見て、固まった。
 ここまでは石田にも予測出来たが、彼は突如立ち上がった。パスケースを握ったまま。
 これは石田の予想外だ。
 逆に困惑した石田に構わず小石川は部屋を勢いよく出ていく。
 まさか、持ち主に覚えがあるのか。
 それはまずいと焦った石田が追いかけると、小石川はある部屋の前で停止した。だが、石田の記憶違いでなければその部屋は、

「白石! お前まだこれ捨ててへんかったんか!」

 …白石の部屋だ。
 小石川が怒鳴りながら入った部屋に、石田も流れで足を踏み入れる。
「あ、それ健二郎が拾たん? よかったー」
「よかったやない! 俺、何度もその写真は捨てろて!」
「えー? ナイスショットやのに」
 ぶつぶつと文句を言う白石が、そのパスケースの持ち主で間違いないが、石田はつい聞いてしまった。
「それは、白石はんのか?」
「うん」
「健二郎の写真が」
「うん。俺が撮った」
 綺麗な笑顔を向けられて、石田は反論の余地をなくす。
 確かに、確かに『小石川を好きな男』には違いない。が、好きの種類が大分違う。
「そない不満なら、しまっとくし」
「そういう問題やない」
「やって、銀。この健二郎かわいない?」
「…かわええが」
「師範!」
 真っ赤になりながら、怒る小石川に、白石が唐突に手を叩いた。
「ほな、これ銀にあげるわ。な、健二郎も、銀なら文句ないやろ」
「…え」
 小石川が固まった。嫌じゃないが、やめてほしいという空気。
 石田は一瞬迷ったが、その写真は正直欲しかった。かわいいから。
「ああ、ほなもらう」
「…っ!」
 その一瞬で泣きそうになった小石川の顔は赤い。
 しかし、そのために今度は小石川の方が怒って、しばらく大変だった。







 ちなみに、白石に「千歳の写真やないんか?」と聞いたら、

「千歳の顔見たかておもろくないしむしゃくしゃしよる」
 その点健二郎はホッとするし、かわええから、らしい。
 千歳には一生秘密にしておこうと石田は思った。










 2009/07/20