I will return together

◆I will return together◆










 午後から雪に変わる、と天気予報で告げられた雨は寒気を通り越す程冷えて、皮膚に当たる場所から体温を奪っていく。
 校舎内の空気も共に冷やされ、暖房の付けられた教室から出れば別世界なほどの気温差を作る。
 当然、特別用がない限り教室から出ようという逆境好きな生徒は居らず、廊下は限りなく無人に近かった。


「………教室から見てる分にはどうともなんだけどね…」
 硝子窓の外で、雨に遮られていく灰色の空が雪を呼ぶように沈んでいる。
 暖められた空気は、それが寒さを煽る一因であると実感させず、ただ校門の向こうを通る傘の姿を見る度お気の毒なんて思ってみるのだ。
「不二ー、大石っから伝言」
「あー、部活でしょ?」
 結露した窓から視線を離し振り返って予想。
 当たり、という顔をして菊丸が不二の前の席に腰を下ろした。
「お休みだって。風邪ひくのも困りものだからな」
「雪に変わるっていうしね」
「変わるだろー絶対。この寒さじゃ…」
 大石なんか指先血ぃ通ってない色してたぞ。
 なんてジェスチャーで示す菊丸も、廊下で会話していただけあって指先が冷たい。
 空間の暖かさにめいっぱい浸って、教師が開けるたびに“寒い早く閉めて”と言って。

 いつものことだ。

 慣れているし、暖房がない大抵の公立中学よりは恵まれていると思う。
 不二自身寒いのは嫌なので、それはやっぱり有り難いのだ。
 けれど一つ不満を述べるなら。

「………帰り、積もってるかなぁ」

 固く締め切った教室の扉。

 こんな日は、君に会いに行けない。
 部活もない。




 予報通り、三時間目には雪に変わった雨が外を覆い、止む気配すら見せずに地上を埋めていった。


「…やっぱり寒い」
 雨ほど、落ちてくる分には厄介ではないから傘を差す必要はあんまりないといえばないのだ。第一寒くて仕方がないから傘を差すために手を出すくらいなら服に突っ込んでいたい。

 視界ほぼ全面、雪一色に埋められた世界で、あれほど灰色だった空は見る影もない。
 放課後の薄暗い色がより一層寒さを印象づける。昇降口で履いた靴が酷く冷たい。
 足早に帰る生徒の靴裏で、雪は汚され、また積もっていく。
 不二にとっての幸いは手袋を持参していたことで、なかったらかなり辛いことになっていただろう。

「………靴、あったんだけどね」
 帰るとき、一組を覗いては見た。
 席の位置にその姿も、鞄もない。昇降口に来れば、下駄箱に靴はあって。
 探してすれ違いで帰られたら空しいから、少し待っては見るけれど。

 早々と帰路につく生徒に“ばいばい”と声を掛けられる度。

 待っていても、無駄なんじゃないかと。
「……無駄かも」
 ぽつりと呟く。
 手塚のことだ。無理して待っていても難しい顔して。

「寒い中でなんでわざわざ待っているんだ」

 とか挙げ句“誰か待っているのか”とか言われそうだ。
「…ってかすごい有りそう」
 そんな風に訊かれたら、“うん”とか答えて手塚を見送ってしまいそうな自分も嫌だ。

 だって、約束もしていない。

 今日、一度も会っていない。

 例えばもし、“約束もしていないのに”と言われたら。
 それだけで凍えそう。

 吐く息が白い。空も地面もテニスコートさえ。白。
 帰ろうか。本当に。
 待っていた時間も、凍えた体温も無駄になるけど。帰ろうか。
 指先まで冷えた足を、留めているのは期待。

 一緒に帰りたい。ってそれだけの期待。

 勝手に期待するのは我が儘だけど、裏切らないでいてくれたら僕は。

「不二?」
 随分、聴いていない錯覚さえもたらす馴染み深い声に、寒くて動きにくくなった体が反射的に振り返る。
 薄暗い玄関の中、きっと冷えた靴を足に少しだけ驚いた表情で佇んでいる手塚を見ただけで、久しぶりと言えそうで、寒いのに嬉しい。
「どうしたんだ?」
「あ、…うん。ちょっとね、随分遅いね」
「ああ。竜崎先生と話が長引いて」
「だと思った」
 思いつくなんてソレくらい。
「お前は? 何か用事でもあったのか?」
「…用事、って程じゃないんだけど。
 ――――――――――――――――……待ってたの」
 手袋越しにもかじかんだ手を小さく握って、息だけ吐き出すように紡ぐ。
 凍えて感覚さえ危うくなった顔の皮膚。笑えていることを祈る。
 目の前やや上の、“何故”と言いたげな君の表情。
「…俺を?」
 少しの間と、ため息に混ざった声。
 “誰を”なんて言われなくて良かった。
 でも天秤に掛けて考えたら、“誰を”と問われることの方が。

「…約束していたわけじゃないだろう」

 その言葉より数倍マシだって事。

「…約束してないと待ってちゃいけなかった?」
 意地で浮かべた笑顔の裏で、確かに落胆が胸を打つ。
 吐く息が尚更白くて、言葉を継ぐ度視界を遮る。
「待っていたかったんだけど。いけなかった?」

 君と一緒に帰りたい。
 君は違うの?

「いけなくはないが」
 難しい声で紡がれた言葉に、俯き掛けた顔を上げる。
 そこにあった表情に、次の言葉を待つ勇気が欠片もない事を知った。
「――――――――――――――――………ごめん」
「…、不」
「ごめん、嘘。
 君を待ってたわけじゃないんだ。変な質問して御免ね」
 だからそんな皺寄せないでよ。
 凍ったように動かない顔の筋肉で、何とか笑ってみせる。引きつらないで。
 あの表情だけで充分。

 “迷惑だ”って言われているみたいな、その表情だけで充分。声より雄弁に。

「帰らないのって…引き止めてたのは僕か。
 明日、晴れてるといいね」
 “部活したいでしょ”そう笑って、あれ程待ち望んでいた君が早く帰ってくれることを願う。
「……ああ」
「帰り道、気を付けてね」
 顔の筋肉が凍る前に、気付かないで帰って。

「…ああ」

 余計に君の迷惑になるよ。
 帰って。
「じゃあね」
 踵を返しかけた背が止まって、足だけの動きで近づく。“また明日”と続くはずの言葉が消える。
 触れた唇は、同じように冷たい。
 血の通わない、青い。
「お前も帰るんだろう」
 至近で告げられ、腕を掴まれてさっさと雪の上に靴後を付けていく手塚の行動について行き損なって、不二はしばらく腕を引かれた状態で校庭を横切る。
「…って、君話訊いてた? 僕は君じゃなくて…っ」
「俺を待っていたんだろう」
「っ…だから……!」
 向けられる背中と、断定していく声がどうしてと疑う程鮮明で、逃げ場さえなくされる。
「無理に笑うなら下手な嘘を吐くな」
「…だってそれは」
 君が。
 言い訳じみた言葉を口にしそうになる。彼のせいじゃない。女々しさが嫌になる。
「………無理に帰らなくたっていいでしょ……」
 言った側から声すら凍えていくような錯覚。
 掴まれた手だけ、感触が残る。ざくざくと響く足下の音がふっと消えた。
「っ…!」
 二の腕を掴んだ手を自身の首の近くまで引き上げて、手塚が後ろを振り返る。
 吐く息が顔に掛かるほど、側。
「誰が無理だと言った」

「……って」
 だって、迷惑だって顔に書いてあった。
「あんな場所で待っていて、風邪でも引いたらどうする。
 俺がそれに対してどう思うか考えたか」
「………迷惑?」
 大仰なほど、深くため息を吐かれる。
「もういい」
 ぽんと放り出された言葉に、掴まれていた腕が放される。
 突き放されたような錯覚に痛くなって、思わず縋るように伸ばした手を。

 空を、掴み。

 君の、背の向こうを。

 掴まれる物もなく空に伸ばされた指が力無く垂れる。
 掻き消すほど、強く抱きすくめられた身体が冷たいはずなのに、暖かい。

「それなら最初から、“一緒に帰ろう”と言え。こんな時間じゃなく、もっと前に」

 心配するだろう。

 耳元で囁かれた声に、何度も瞬きを繰り返す。

「……って………?」
「……だから…、一緒に帰ると言ってくれれば…一緒に…」
 寒さも手伝って、徐々に小さくなる声。捕らえられたのは、本当に不思議など小さな声で。

 竜崎先生の所に行ったのに。

「…手」
「だから、…他の奴を待っていたなんて言うな」


「――――――――――――――――――――――――――――――――……」

 沈黙が、あるのは何も珍しい事じゃない。

 君の頬が赤く見えるのは、寒さのせいだけじゃないと思いたい。

 泣きそうになりながら、なのにくすぐったいような笑みが浮かぶ。

「…………………じゃあ、そうする……」
 そうしてくれ。と告げた言葉の後に“頼むから”なんて続いて、笑いたくなる。
 掴まれたお返しのように、手塚の腕にしがみついて。
 冷えた体温を欲するように、縋る。


「帰ろ、手塚」


 その後に、仕方なさそうに零される笑みの気配を受け止めて。

 雪道を歩く。