夏の夜の夢 男は蝶になった夢を見た。 けれど、それは蝶が見た夢なのか、自分が蝶になった夢なのか。 眼帯に覆われた右目を撫でる。 まだ詳しいことはわからない。 だが、見えない、というのは決まったようなものだ。 部を辞め、学校を辞めるかも考えて。 友が九州から去って、まだ数日。 「千里、あんまり橘の息子のこと言っちょらんで、あんたはどがんすっと」 そう、母親は言っていた。 最低限すら、父親も母親も、橘のことを理解してはくれなかった。 妹だけがわかったように、橘の話題に触れてくれる。 まだ夏が去りきらない、夜。 眠れず庭に出ていると、視界をなにかが舞った。 蝶だ。 視界を蝶が一瞬阻んだと思った直後、片目だけが映す世界は、一面の桜。 千歳はハッと、夢か、と周囲を何度も見た。 変わらない。 自分の家の庭。家人は寝静まった家。自分の上着がくしゃくしゃに落ちたままの縁側。 なのに、目の前を過ぎるのは、空から、どこからともなく散る桜。 「……」 夢? 夢なら、夢でいい。 すぐそう思って、花弁を追うように歩き出した。 庭を抜けて、広がったモノに夢だ、と実感した。 庭の向こうは、道路だ。 なのに視界に見えるのは、一面、桜並木。 桜が散る、夜の並木道。 遥か向こう、とてもたどり着けないような場所に、学校らしき校舎が見えた。 獅子楽の校舎じゃない。 ふ、と視線が吸い寄せられる。 並木の下、桜に手を伸ばして、落ちてきた花弁を大事そうに包む白い手。 桜の花弁に彩られた、白金の跳ねた髪。翡翠の瞳が、飽きることなく空を仰ぐ。 身長は、自分より低いが、そこそこ高いだろうか。平均的な体格の少年。 「……あ」 夜の校舎。夜の桜。その中に彼がいる、というそのあまりの幻想的な景色に、言葉は喉に絡まった。 千歳の漏れた声を聞いていないのか、少年は振り返らない。 「…あ、と……」 ただ夢中で桜を追う手を、大股で近寄って掴んだ。 やっと近づけた、と思ったのに、少年は全く千歳を見ない。気付かない。 手に、触れているのに。 彼を呼ばないと。 名前を。 そうじゃないと、気付かないんだ。 名前。名前。名前? 知らない。 違う。知ってる。彼は。 「白石」 そう呼んだ瞬間、彼―――――白石が初めて気付いたように千歳を振り返る。 すぐ、綺麗に微笑んだ。 「千歳」 そして、そう呼んだ。 「…夜の散歩?」 「…千歳も?」 千歳が訊くと、白石ははぐらかすように聞き返す。 まあ、彼は元からそう素直に答えてくれないと知っているけど。 「俺は、ちぃと………桜に惹かれて……」 「俺と一緒」 「…白石は? 四天宝寺、来年はどげんね」 「なんやいきなり」 「プレッシャーじゃなかの? こんな夜中まで起きとうは」 「…そやなぁ…。 そうかも」 「しっかりせんね。俺はまだ傍で支えられん」 「ははっ…お前がおっても支えるっちゅーか迷惑かけられる、やないの?」 「ひどか」 くすくすと笑って、話して。 視界を、飽きることなく、桜が散る。 「右目、どう?」 「まだわからん。 ばってん、桔平とも来年試合ば出来っけん、別にもうよか」 「ああ、そやな。一応勝つのお前やし?」 「うん」 「その後、退部しよるけど」 「根に持っとう? まだ未来の話ばい?」 「そうやけど…」 「変えられなかもん。 白石、部長、二年目の意気込みどげん?」 「変わらんで。ただ、支えてくれる先輩がおらんけど。 …今年は、勝たな。俺は、部長やから」 「白石は、勝ったばい。 負けたん俺ら」 「……でも、金ちゃんが試合でけた」 「うん」 桜が降る。 すぐ、その度に落ちる、記憶。 「…………四天宝寺に、来ない選択肢は、ないんや?」 不意に、真面目に白石が言った。 千歳は虚を突かれたように驚いた後、その手を引っ張って、腕の中に閉じこめる。 そのまま、額にキスを落とした。 「…お前がおらんなら、そうしたかもしれんばってん、お前がおる」 「…俺?」 「そう」 「…テニスやないんや」 「…それもあるばってん…」 その髪をすくって、一房に口付ける。 「お前を、好いとうから」 「………、ずっと?」 微笑む白石の顎を掴んで、そっと上向かせる。 そして、キスを唇に落とした。 「…当たり前ばい。 …愛してる…」 「……、俺も…………好きや」 頬を撫でた千歳の手に、自分の手を重ねて言った後、白石はその手を掴んで見上げてきた。 「……変えられたらな」 「変わらんよ。変えたら、それは別の世界ばい」 「…そうやけど」 「変えたかの? 俺と会うことを? 部長になるこつを? 四天宝寺が青学に…負けるこつを?」 「…」 白石が、掴んだ千歳の手で唇を塞ぐように、しー、と立てた合図。 「…それは、内緒や。千歳。 どうせ…俺もお前も…夢から醒めたら…なにも覚えとらん」 「…そやね」 「…うちが負けることも、お前を好きになることも、お前が俺を好きになることも、橘と試合出来ることも、お前が四天宝寺に来ることも……お前の、名前も」 ここ(夢)でしか、わからない話(未来)やろ? うん、と頷いた。 起きたら、目覚めたら忘れる。 彼を、未来で好きになること。出会うこと。友と戦える未来も。 彼の名前も。 でも、未来は変わらないし、変えたくもない。 未来で、絶対に、会いたい。 見ていない筈の仲間に、試合に、…彼に。 「……千歳」 髪を撫でると、白石は目を閉じて気持ちよさそうにしながら、千歳を呼んだ。 「……、………会ったら……………………返すから」 「ん?」 「ピアス、貸して」 「…うん」 片耳しかしていないピアスを外して、白石の手に乗せた。 ありがとう、と彼は言って、キスをそれにする。 瞬間、桜が激しく散って音がする。 「…待って、まだ、起きたくなか…」 「…無理や。俺達が、ここを管理しとるわけやない」 白石の姿も、桜に消されていく。 チャイムが、目覚ましのように、鳴る。 …―――――――――――――ーンコーン………。 耳にそれが響いたような気がした。 ハッとすると、視界には朝靄にけぶる道路。 あれ? なんでこんな道にいるんだ? 理由がわからない。 家に戻ると、誰も起きていなかった。 時計を見ると、朝の四時。 橘がいたころは、それでも、起きて練習に誘ったりしたこともあったか。 もう、試合なんか出来ないかもしれないけれど。 ふと、鏡を見て気付く。 ピアスが、ない。 「…なくした…? いつ…やろ」 千歳は首を傾げるがわからない。 兎に角、眠い。寝よう。 なにか、夢で見ただろうか? 夢? 寝ていないのに、夢なんて見る筈がない。 春の季節。 出会って一ヶ月で、惚れ込んで落とした部長を部屋に連れ込んだ時、そいつが不意にあ、と言った。 抱いた後で、ベッドからずり落ちかけながら、白石は脱がされた服のポケットに手を突っ込んでいた。 「どげんしたとや?」 「いや、家の鍵…と思ったら、なんやこれ」 白石の手には、一個だけのピアス。 「ピアスつけとう? 白石」 「いや全然」 「…これ」 「ん?」 「似とう…てか、同じじゃなかね」 なにが、と千歳を見上げる白石の手から取って、千歳はそれをまじまじと見た。 「やっぱり…俺が九州におったころなくしたピアス」 「…え? なんでそんなん俺が持っとんの?」 「さあ…?」 「多分誰かのが紛れ込んだんやろ。お前のっていうんはないわ」 「ん、ばってん、いらんならくれ」 「好きにせえ」 眠い、と寝台にうつぶせた白石の髪を撫でてから、今まで気に入るわけでもなくつけていた代わりのピアスを外し、耳につける。 瞬間、視界を桜が過ぎった。 「あ、そうばい! これ……おまえが……」 「…え? なに?」 「………なんやろ?」 「おい」 今、一瞬なにもかも、わかった気がしたのに。 すぐ、わからなくなった。 夢を見た。 蝶になった夢。自分が蝶になった夢か、蝶が見た夢か。 夢を見た。 彼に会う夢。自分が見た夢か、彼が見た夢か。 もう、わからない。 それは、一瞬の、長い夢。 ************************************************************************************* 書いた直後に「今冬!」と突っ込んだ…。 |