油断で背後に回られた男の足が自分に突き出される前に、横手から伸ばされた千歳の足がその男を蹴り飛ばして地面に倒した。 もう、自分たち以外に立っている姿はない。 「すまん。助かった千歳」 「いや、よか」 素直に礼を言うと、千歳は素っ気ない。そのうえで、「桔平、はよこっから離れよ」と言う。 前から、千歳の低い声は、こういう時、妙に甘えた弟のようになる。 それを可愛いと思ったら負けだ、と橘は思う。 「ああ。…あー、悪かったな。あとでなんか奢るけん」 「いらん。桔平も俺の敵に手ば出した」 「あれは偶々と。今のはあからさまにお前が俺を助けたとだろ。奢る」 「…いらん」 途端拗ねたように低くなった千歳に、橘は見上げると、嘆息を吐いた。 「お前がいらんことでも俺はしたか。俺はお前に借りつくっとくは嫌やけん」 そう言うと、先を行きかけていた千歳は憮然とした顔で振り返る。「桔平」、と喉の奥で低く呼ばれて、なにかと顔を上げたところを肩を掴まれて近づいた千歳の顔が橘の顔に数秒重なった。 すぐ弾かれたように離して、顔を上げると叫んだ橘を見下ろす顔も、とても嫌そうだ。 「気持ち悪かことするな!」 「俺もたいが気持ち悪か! やらされていい迷惑たい!」 「だったらやるな!」 「桔平が阿呆言うからしょんなかろ! 桔平は逆に俺が桔平に庇われてそんでほんに悪い済まないって態度しとったらどげんね!?」 「………、あ…あー……」 心底嫌だ、という顔に言われて、ようやく橘も、千歳が拗ねた理由を知る。 「すまん。俺が悪かった」 「だろ…? っ…あー…気持ち悪か。感触が身体に残っとるんがだめ押したい! こげんこつに使われた自分の細胞が可哀相と」 「そこまで言うか。しかし…本当気持ち悪いな…」 思わず口元を拭ってみても消えない感触に、橘も顔をしかめた。 「俺達絶対、男の恋人は作れなかね…。気持ち悪かもん」 「だな。千歳でダメなら全員ダメだ」 「俺も同意見」 「……俺だからダメってのもあるかぞ?」 「俺も、そげんこつは思う」 あの頃、お互いが大事だった。 獅子楽で、橘と自分と対等でいようとする部員はいなかった。 みな、卑屈になって自分たちを遠巻きにする同輩に先輩に、俺達は冷め切って、反動のように橘とばかり一緒にいた。 それで、お互い心地がよかった。 橘には素直でなんでも言えたし、それは橘も同じだった。 絶対的な信頼が、お互いにあった。背中をこいつになら預けられる。試合は、こいつは絶対負けないという信頼。お互いに、お前には負けないというライバル心も信頼の一部。 いつの間にか橘を抜いてとても高くなってしまった千歳の身長を、橘は「お前の着れなくなった服寄こせ」と笑うだけだった。 ―――――――――――――「なんで、お前が」 その時、千歳はそう思った。「なんでお前が俺の親に怒られとーと?」、そう思った。 あれは、試合中の事故だった。お互いにお互いだったから、橘にも起こり得た、事故。 どちらも悪くない。橘は、悪くない。千歳は眼帯のされた自分の右目を見て、そう思った。ただ、千歳の両親はそう思わなかった。謝罪に来た橘を、千歳の両親は罵倒した。 それを黙って受け入れる親友が信じられなくて、千歳は言葉がなかった。 母親が橘に「テニスは続けるのか」とヒステリックに言った時、橘が頷こうとしたのを見て、なにかが切れた気がした。やめてくれ。お前が止める必要なんてない。俺のためにどうして。お前がどうして。俺のためになんて、お前が一番俺が嫌なことだと理解してるだろう。そう思った。 「…千歳?」 そう呼んだのは、橘だった。彼は千歳の家に来て初めて見上げた千歳の顔を見て、茫然としていた。それがわからない。 すぐ悲しそうに自分を見た橘に、千歳はぼんやりと手を自分の顔に持っていく。 頬を伝っているのは、暖かい水だった。そこで自分が泣いていたと気付く。 それでも、もう橘に言える言葉がなかった。両親にすら、なにもない。 橘は悪くない、それすら言えない。言って、理解される展望は欠片もなかった。 「…帰ってくれ」 掠れた声で言った千歳を、橘は見上げて、頷いた。 理解される展望を、まるで失ってしまった。 親にも、家族にも、学校にも―――――――――――――橘にすら。 テニス以上に、なにかを根こそぎ失った心地だった。 大阪にいる叔父が、そのことを知って電話をよこしたのは数日後だった。 受話器を受け取って、当たり障りなく話していて、不意に思いついた。 いや、実際には怪我を負ってから、考えていたことだった。 「叔父さん。俺、そっち行ってよか?」と聞いた甥に、叔父は二つ返事をくれたので。 大坂にいい医師がいるとは、最初にかかった病院で聞いていたから、行く候補にはいれていた。なにより、橘も親の都合で九州からいなくなる。自分ももう、ここではなにも出来ない。それに、叔父の家の近くには全国大会常連の強豪校がある。そこは寮もある。 そこのテニス部に受け入れてもらえるなら、問題はもうなにもなかった。 なにより、もう家族には、家には、なにも理解されない絶望が千歳にはあった。 橘は親友だ。大事な仲間だ。彼は悪くないんだ、といくら叫んでも、わかってもらえない絶望を、千歳は理解していた。 それでも、家族を心底憎めるはずもない。 だったら、離れるしかなかった。その命題は、自分と橘だけが理解していればいい。 だから。 もう、あそこにはいられなかった。 四天宝寺に根付くようになって、千歳は自分がレギュラーたちに、特に部長の白石に過分なまでに執着も懐きもしている自覚があった。 四天宝寺は獅子楽と違い、誰もが向上心が強かった。 千歳が入ったことで、レギュラーから実質はみ出てしまった副部長の小石川は千歳に反感を持つわけでもなく、かといって千歳がうっかりサボった時は仲間としてきっちり怒った。自主練習をくじけず行って、最後の全国なんやから、と屈託なく千歳に笑った。 卑屈にもならず、ただ前を見て頑張る小石川には、素直に頷けた。 片目が見えないのに、相当なセンスを持っている千歳を最初こそ驚き、遠目にした部員もいたが、すぐそれは消えた。千歳を妬むように見るものも、自分はお前とは違うと線を引く部員もいない環境に、千歳は最初拍子抜けして、すぐ懐いた。 全員が一丸になって全国制覇を目指す団体を、素直に好ましく思い、自分もその中に入りたいと素直に従った。 レギュラーは皆強く、何度もこの目が見えたら、と悔しく思うのが逆に嬉しかった。 それが素直に彼らへの信頼になった。 特に、部長の白石には全く敵わない。はて、目に怪我がなくても勝てなかったか、と考えて、多分それでも勝てないだろうと気付いて。 白石の人柄や努力する姿勢を、素直に部員としてすごいと思えたと言ったら、謙也に俺らもそう思うし、と嬉しそうに笑われた。 それでも、彼らへの信頼と橘への信頼の違いに気付いたのは、ある日、金太郎への仕返しに来た高校生を追い払った時、隙をつかれてバランスを崩した白石を庇った時だった。 白石は助かった、帰りおごるわ、と鞄を拾いながら言った。 あの時の橘と同じだ。 けれど、反発する気が生まれなかった。うん、たこ焼き食べたい、と言った。 過分に懐いて、下手をすれば依存な程傍にいて。 けれど、対等でいたい、負けたくない、それでも信じている、ずっと未来まで、と信じていた橘のようには、彼らを願えなかった。 この信頼は、橘へのものとは全く違うと知った。 絶対的な信頼。白石へのものも同じなのに。 譲れないと、傍にいるあの強い信頼は、橘にしか預けられなかったのだ。 もう、誰にも預けられないものだったのだ。 そう、理解した。 気付いて、寂しそうに立ち止まった千歳を、前を行く白石が不思議そうに見た。 「好いとうよ」とふざけて言ったら、白石は「おおきに」と笑うだけだった。 橘は死ぬほど嫌がったな、と思う。彼は千歳を許しながら、何一つ根っこを許さず、負けないと立っていてくれた。 許される言葉。許されてしまう、上と下の立場。 欲しかったようで、それは自分が願った橘のやり直しじゃない。 気付いて寂しくてならなかった。 もう二度と、あの夢は見られない。 もう、二度と、夢を見るのがわからなかった。 |