![]() 第一話−「原罪」 ========================================================================================== 気付いたのは、夏大会が終わった、十月。 気付いて、俺は途方に暮れた。 白石蔵ノ介は、完璧な部長だった。 どこまでも基本通り、理想通りの、これ以上を望めないほど完璧なのに、これ以上を他でもない本人が更に求める、基本に忠実に、完璧な人格。 テニスだけでなく、彼は完璧な人だった。 彼は真面目に金太郎に嘘を吐く。 だから、そういうことも出来ると思っていた。 だが、それ以外で決して人を謀らない。自分すら謀らない。 真っ直ぐで、そして誰しもが途中で諦めるような、漫画にしか存在しないような完璧や理想を、諦めず求めている、そういう世界で生きている人間なのだ。 そう知ったから、千歳は途方に暮れた。 決して人を偏見で見ず、謀らず、傷付けず、誰にも真剣に接する、完璧な優等生。 全てがマニュアル通りであるのに、彼が完璧に昇華されて見られるのは、そのマニュアル通りが明らかに平凡の高みに秀でているからだ。 秀でているのに、基本から決して外れないのだ。 白石は全てがマニュアル通りの性格と、テニスと、考え方で生きている。 それだからこそ、俺は、頭を抱えた。 白石蔵ノ介が、好きだ。 そう、気付いた。 気付いてすぐ、俺は自分が気持ち悪くなった。 男を好きになるなんて気持ち悪い。それが素直な気持ちだ。 すぐ、気のせいと捨てようとした。 しかし、必ず一日一回は目に入る目立つ姿を見るたび、落ちる心は最早“男をなんて気持ち悪い”という忌避を凌駕していて、俺は腹をくくるしかなかった。 好きなのだ、と。 性欲を伴った意味で、彼が好きだ、気持ち悪いけれどそれは俺の価値観。 だから、好きなことから目を背けないように。 そして、途方に暮れた。 彼は、どこまでも基本通りの人だ。 恋愛だってそうに違いない。 なら、男に好きだと言われて、彼がどう反応するかなんて分かり切っている。 彼はどこまでも偏見のない人だから、告げても“気持ち悪い”と失望されることも、彼のある一線を抵触することもまずない。 彼は真面目に、自分の告白を受け止めてくれるだろう。 そういう人だから。 惚れられても、それで自分に対してどう思っても、それで付き合い方も変えない。 例え気持ち悪いと真っ当に彼は感じても、俺に普通なのだ。 普通に意識せず触れてくるだろう、話してくるだろう。俺が“傷つくからやめろ”と言って初めて、距離を置く。そういう基本の人だ。 いっそ抵触してしまうような、そんな人間だったら悩まない。 いっそ原型もないほど壊れた方が楽だ。 けれど、彼に限ってそれだけはない。あり得ない。 彼は、あくまで普通の友人、仲間の距離を決して変えない。 その上で、自分の言葉を、気持ちを真剣に受け止めて、考える人。 だから、困る。 きっと彼は困るだろう。 自分を傷付けることに困惑して、でもそれを自分に見せず、悩む人だ。 白石を傷付けるし、彼を余計に振り回すとわかった。 だから、俺は自分が傷つくことより、彼を傷付けることに途方にくれて告白出来ずにいた。 彼だって男だ。普通に、男同士は気持ち悪い筈だ。 けれど、それで他人を決して傷付けず、嫌いにならない基本通りの人格が、白石蔵ノ介なのだから。 途方に暮れ続けて、ある日、俺は進路希望に大阪の学校を書いた。 それを見た白石が、九州帰らへんのか、と言った。 告げるつもりはなかった。だから、より多く彼の傍にいたいと願うのは、もう仕方ないだろう。 まさか言える筈もない。 「まあ、また白石たちと全国行きたか」 「そか。謙也たち喜ぶわ」 クラスメイトの誰もいない、二人きりの教室に、西日が差す。 「白石は?」 「俺? 嬉しいよ? 普通に」 「…さよか」 「…千歳?」 「…白石は、俺が九州帰る思うとったと?」 「…まあ、普通に」 「…嫌やなか?」 「…え?」 「俺が九州帰るん、嫌なか?」 「…千歳?」 ああ、失敗した。 こんなこと聞いたら、最後まで言わなくちゃならない。 彼は悪い意味でも基本通りで(ただ滅多に悪い意味に発揮されないが)こんな中途半端な言葉を見逃すような人ではない。 「……だけん、俺ば、白石んこと好いとうから…」 だけん、俺が帰ると白石が嫌か、知りたい、と言った。 心臓が五月蠅い。 白石の顔は、西日が邪魔で見えない。 長い永遠は、たった数秒だ。 「…好き、俺が」 「…そう言うとる」 「…そっか」 「…そんなけ?」 「…え、いや…普通に…嬉しい…?」 内心俺は、おいおいおい、と思った。 男に告白されても素直に“嬉しい”なんて言ってたらお前、いつ大変な目に遭うかわからないじゃないか。いいのかそれで。 男の告白に“嬉しい”なんて答え。即オッケーと誤解されてすぐ手を出されるだろう。 いいのかそんな自己管理で。と危ぶんだ。 「…い、いや、…普通に普通のクラスメイトに言われたら、…そら気持ち悪いわ」 千歳の内心に気付いたのか、白石はあわてて訂正した。 「やけど、…千歳やし。千歳は、嬉しいよ」 「……」 言葉が出ない。予想外だ。 「…白石、それどげん意味ね…?」 「…え?」 「…そげんこつ、言われると、期待する」 「…してええよ? 普通に、付き合ってええって意味で言うたんちゃうん? 俺、それでええよ?」 白石はそこで、お前俺が誰にもこうだと思ってるのか?ふざけるな、という怒った顔で言った。 「……付き合うてくれっと? 恋人としてとよ?」 「くどい。やから、ええって言うてる」 信じられないことの方が多すぎた。 けれど、それであっさり自分は彼の恋人になってしまった。 喧嘩腰のようになってしまった空気で、喜びのハグもキスもないので、そのまま帰路だけ一緒に帰った。 あれから過ぎて、冬はもうクリスマスが近い。 家に招いた白石が、本を熱心に読んでいる。 もういいか、と俺は思い始めていた。 白石は基本通り、理想通りの恋人になってくれた。 休みの日は必ず自分を優先してくれたし、甘い言葉もくれた。 戸惑った頃もあったが、自分も相当白石に惚れていたので、結局嬉しくて仕方なかった。 だから、もういいんじゃないかと思った。 白石は接触にも忌避感情を見せなかった。 抱き寄せれば素直に背中に手を回してくれるし、手を繋げば握り返してくれた。 千歳がそもそも最初に自分の恋慕を“気持ち悪い”と思ったのは、それが性欲に直結していたからだ。 白石に欲情しないなら、憧れの延長と捉えて深く考えなかった筈だから、気持ち悪いとは思わなかっただろう。 自分は彼に欲情するし、触れていればその先を考えて下半身に覚えのある感触を感じたし、普通に抱きたいと思って、その手の資料を調べてみたりもした。 女相手に経験はあったが、男は勝手が違う。 傷付けたい筈はなかったので、男とヤる方法について専門的な知識をひたすら調べて、無理じゃないかこれ、俺はともかく白石が、と思ったことすらあった。 しかし、白石があまりに接触すら素直に受けるので、いつしか、大丈夫じゃないか、に変わった。 普通に彼を想像して自慰することは頻繁だったし、もうそろそろ彼を抱きたい気持ちを我慢するのも、限界だった。 「…白石」 何気なくカーペットに置かれた彼の手を握って、呼ぶ。 「ん?」 「…してよかよね?」 聞いたのは、もうなんというか、間抜けだが。 でもいいと思った。 「…?」 白石は首を傾げた。なにが?と。 「…だ、だから…」 なんでこの空気で説明が必要なんだ、と思いながら、千歳はやから、と繰り返す。 「セックスとか、キス。白石と」 はっきり言うと、白石は予想外に顔を初めて戸惑いに染めて後ずさった。 思いも寄らない拒否反応に、俺は一瞬理解できず、離れてしまった距離に戸惑う。 「…白石?」 「…それは…あかんし」 言われて、胸が次に痛んだ。 ああ、そうか。 彼は付き合うのも、触れるのも大丈夫な人間だ。 だけど、男とキスやセックスは無理だ、という人間なのだ。 彼の許容範囲は、抱き合うまでだ。と。 「……千歳?」 「…いや、…よか。無理なら、しょんなかと」 「…、千歳。お前、誤解してへん?」 妙に怒った声で言われた。 「男同士やから、って意味ちゃうし」 「いや、…他になかやろ?」 「いいから、ちゃう。男同士であかんなら、最初から付き合うとらん」 「……どげん意味ね」 「そら、普通に、お前にだ…まあどっちでもええけど、抱かれるにしろ、抱くにしろ、セックスしたかてええし、キスもええ」 「……?」 取り敢えず、忌避感情がないことに安堵しながら、意味が余計わからない。 「ただ、早いやろ。まだ中学生やろが。 高校行ってからでええ」 一瞬、冗談かと疑った。 今、そんな理想論で断る人間がいるのか、と。 今時、中学生もなにもないだろうに。 しかし、そんなことにすら理想通りの、普通の人間なら諦める理想を諦めないのが白石蔵ノ介で、彼はそんな人で、彼がそんな風に美しいから好きになったのだ。 それを、愚かにもその時俺は忘れていた。 「…綺麗ごとは、よかし」 「千歳、あのな」 「…そげん言うて、…ほんなこつは」 俺のことなんて、好きじゃないんだろう。 俺が戦力に欲しかったから、受け入れたんじゃないのか。 所詮、友人以上に思っていやしないだろう。 そう矢次に言っていた。 「…」 彼は、無言だった。 あとから思えば、彼は傷ついたからこそ言葉がなかったのだ。 だけどその時の自分は、それが図星だからだ、と思った。 言葉もない彼を抱き寄せると、初めて拒絶した彼を無理矢理押さえ込んで、唇を重ねた。 瞬間、彼の抵抗は止んだ。 どうしたのか、と思う余裕はなく、ただ何度も何度も口付けると、そのまま全て暴くつもりで押し倒そうと顔を離して、俺は初めて過ちに気付いた。 彼が、どこまでも本気で自分を好いていてくれたことを、その時やっと気付いた。 白石は、誰の目にも明らかに、その綺麗な顔一杯に嘆きという色を浮かべて自分を見上げていた。 流石に泣いてはいなかった。 だが、それで彼が全身で傷ついていると、わかった。 彼を、傷付けた。 信じてもらえなかった。自分の考えすらわかってもらえず裏切られた。自分が好きなことすら、わかってもらえなかった。 彼の顔は、そう言って傷ついていた。 抱きたいなんて、欲望は吹っ飛ぶ程の、痛い拒絶に、千歳は手を離すしかなかった。 あれ以降、白石とはともに帰っていない。 彼はどこまでも普通だったが、また、彼は器用でも不器用でもなかったので。 器用に泣くことも、不器用に自分を怒ることも出来ないのだ。 避けられる真似はされなかった。 だが、会うたびフラッシュバックする傷ついた、泣き出す寸前のあの顔に、どうしても萎縮した。 矢張り、どうしようもなく好きなので、傷付けたことが酷く痛かった。 彼は本気で本気で、自分とのことを真剣に考えていたから、ダメだと言ったのだと気付かされた。 それなら、自分は待てばよかった。 どうせ半年を待たず、高校生になる。そうすれば大丈夫になるのだから、自分は待つべきだった。 それを裏切ったのに、一緒に帰ることは出来なかった。 十二月の三十日。 なのに、自分は家までの帰路を彼と一緒に帰っている。 大晦日は自分の誕生日だ。 だから、矢張り彼といたくて、必死で頼んだ。 一緒にいてくれ、と。 彼は普通に許可をくれた。 彼が頷かないなら、二度とセックスとか言わないからと土下座する覚悟すらあったので、矢張り俺は途方に暮れた。 離れた距離が、辛い。 前は、肩すかしをくらえば、それなりにいいのかと、確認していた。 出来なくなったのは、間違いなく自分の所為だ。 誰もいない道なのに、彼の手を繋ぐことも出来ず、俺達の間は少し、離れていた。 白石は、頷いた通り、普段通り、普通に会話をしていた。 気にした様子は、なかった。 「服、そこかけてよかよ」 「うん」 コートをかけて、白石は電源をいれたこたつに潜り込んだ。 「千歳はあれ、見るん? 見ない人?」 「あれ?」 「紅白」 「あー、普通に見るたい。妹が見たがるけん、うち、テレビ一個しかなかし」 選択権がない、というと白石は笑った。 「俺は侑士とのあれが恒例やわ」 「ユウシ?」 「ああ、謙也の従兄弟。忍足侑士。 氷帝に通っとるよ」 「仲よかと?」 「小学校が同じ。正直、俺実は侑士に謙也紹介されたんよ」 「へえ」 なんとなく面白くないが。 「あれってなんね?」 「ほら、カウントダウンしとる番組絶対あるやんか。 それ見ながら、十二時十分前くらいから電話繋いどいて、一緒にカウントダウンして、『0』って言った瞬間に『あけましておめでとう』って」 「……ずっとやっとーとか」 「うん。昔、あいつが大阪おった頃はお互いの家にいればよかったんやけどな」 あいつ今東京やし。 「…ふうん」 「…けど今年はやめようと思て言うといた」 「…?」 「お前とおるんに、他の男とカウントダウンはあかんやろ」 さらっと甘いことを言われて、そらどうも、としか言えない。 けれど、嬉しいのに萎縮する。 傷付けた前科が、重い。 「…あのな」 「ん?」 「…年越す前やないと、あかん思うて」 「…なにが?」 聞いた自分に、白石は真面目に見つめて言った。 「しよか」 「…なにを?」 「やから、セックス。 したいんちゃうん?」 彼ははっきり言った。 自棄になったわけでもなく、真剣に。 していい、と。 「…え、だ、だけん…まだ、中学生」 「お前は、嫌やろ。中学生はあかんいうんは、俺の理屈で、お前の理屈やない。 譲り合わな、恋人なんか続かへん。 お前が、したいんなら、俺は譲ってええ」 「…それは…、気にしとうから?」 あの時、俺が言った言葉の数々を気にしているからじゃないか、と。 「…馬鹿言うな。 そんなことだけで、抱かれるんをええて言えるか。 お前、俺をなんや思うてんねん。 普通に男にヤられんなんか、お前以外なんか気持ち悪い。 舌噛んだ方がマシや。 お前やからええんや。 この前の所為ちゃう」 「…白石」 「ただ、…寂しいやんか。 お前がずっと気にして、俺に触れてこん。 嫌やろ」 「…白石」 「俺は、お前が好きやねん。 やから、…お前なら、…中学生でも、ええ」 額を押さえた俺を白石は困らせたと受け取ったのか、目を伏せる。 違う、と言って抱きしめた。 久しぶりなのに、暖かくて、胸が苦しいのは幸せだからだ。 やはり、俺は彼が好きだ。 「…誤解せんよう言うとくと、俺ば、…男抱くなんて初めてやけん。 …絶対痛かよ」 「知ってるし、覚悟しとる」 「…知っとーと? どげんこつするとか…」 「やから…なんかで…ナらすとかせんとダメなんやろ…? そういう仕組みちゃうし」 「……まさか、白石も調べたと?」 「…そら、…なんもしらんとするんは、…流石に怖いやろ」 堪らなく愛しくなって、口付けた。 今度は彼も、目を閉じて受け入れてくれた。 譲り合うのが当たり前なら、俺の方が我慢する形で譲るべきだと思った。 だけど、そこまで真剣に考えていたと言われて堪えられるほど、俺は理性の人ではない。 布団の上に押し倒すと、僅かに怯えた目で見上げられる。 怖くない、とキスをして、宥めるように抱きしめた。 お互い、これで有罪なのだろう。 けれど、罪はずっと俺の方が重い。 それでも、矢張り、好きなのだ。 どうしたって、好きだったのだ。 それが、どんなに重い、有罪でも。 もう戻れない年の境。 もう、去年には、戻れない。 |