もう、いなくならないと。 (『雨と夢のあとに』・Vo.奥田美和子)
夏の大会が終わって、数日が過ぎた。 部長になって初めての夏が終わる。 その日は、ひどく疲れていた。 ご飯だという家族へ返事もそこそこに、白石は寝台に横になった。 今寝たら、明日ひどくおなかがすくとか、どうでもよくなるくらい眠くて。 なにも考えずに、瞼を降ろす。 耳に、なにかの警鐘が触れた。 瞼を押し上げると、そこは電車の車内だった。 椅子にもたれかかって眠っていた。 「…………?」 白石はぼんやりと起きあがって、周囲を見渡す。 誰もいない車内。たたん、と音を立て走る電車は停車し、「終点」のアナウンスが響く。 降りないとと思って降りるが、そもそも自分は電車になんか乗っていないのに。 とりあえず、どこの駅だろう。 ホームの看板に記されたそれは、見知らぬ駅名だった。ただ、県名には「熊本」。 「…………」 夢、だろうか。寝ていたし。 熊本は、いくらなんでもありえない。自分の地元から直通で「熊本」行きなんかまずないし。というか、飛行機を使わないと…。 「……あれ?」 というか、自分の地元は。地元が思い出せない。住んでいる場所の地名は。 ぼんやりと考え込んでいると、傍を通りかかった長身の青年とぶつかってしまう。 気分を害する様子なく、青年は「すまんね」と謝罪した。 「いえ、こっちがぶつかったし」 「いや……どぎゃんしたと?」 「え?」 「なんか、ぼーっと…」 「…………」 変だと思われるかもしれない。いや思う。でも、困っていた。 「……帰る家が、わからん」 「……はぁ」 青年は取り敢えず、そう返してくれた。 「とりあえず、届けは出したけん、ウチ来たらよか」と彼は言った。 随分、優しいというか、なつっこいひとだ。 外見は、言ったら失礼だが、不良なのに。ばかでかいし、染めた髪は癖が強く、とても堅気じゃない。 そんな白石の内心に気付いてもいないらしく、青年は路上で振り返った。 「あ、俺、千歳。千歳千里な。あんたは?」 「……蔵ノ介」 「名前? 変わっとうね」 「…多分」 「おかしかひとやね…。名字は?」 「…………」 しまった。名字もわからない。 白石の当惑を見て取ったのか、千歳は「まあ、思い出せばよか」と笑った。 千歳の両親は、良心的だった。 名前を忘れて、心細いだろうと、届けを警察に出したあと、わかるまで家にいなさいと優しく言った。 「部屋、ここばい。俺の」 千歳の部屋に案内される。 二階の、奥の部屋。二段ベッドを二つに分けた片方みたいな、古い木の子供じみたベッドに、本棚に机。 「他に部屋があいてなかけん。ここでごめんな」 「あ、うん」 白石が扉の外で遠慮しているのがわかったのか、千歳は近寄って肩を優しく抱いた。 「遠慮せんでよかよ」 「で、も」 おかしいじゃないか。 自分はあの時、こう思ったんだ。 『自分の家から、熊本なんて、電車一本じゃ来れない』 自分の家がどこか、覚えていないなら、来れる場所かもしれないじゃないか。 なのに、なんで、来れないって断言出来る? 俺は、本当にここにいていい人間? 千歳の、好意に甘えても、いい人間? 「…馬鹿やね」 不安一杯を、顔に浮かべてそう言う自分を千歳はそっと抱きしめた。 「そんなこと、どうでもよか。 今、あんたは、怖くて、困っとる。 それ以外に、要る情報はなか。 …ここにおりなっせ」 ぽん、と頭を、子供みたいに撫でられた。親が、子供にするみたいに。 「…」 涙が、瞳を破ってあふれ出す。 頬を伝って、床に落ちた。 「………はい」 そう、涙に詰まった声で答えた自分を、千歳はずっと撫でていてくれた。 ずっと、優しく見つめていてくれた。 あれから、一ヶ月。 まだ身元のわからない自分を、相変わらず千歳は優しく接する。 出来ることは増やしていった。どうも、自分は器用な人種らしかったので、家事も手伝った。 「蔵! 行こう!」 「うん」 玄関で呼ぶ千歳に答えて、傍の彼の母親に「いってきます」と頭を下げて玄関に向かう。 俺がどういうわけかテニスがうまいと知ってから、千歳は俺をよく、テニスに誘う。 もうすぐ大会があるという。 「あ、またお前ら、二人で打っとったと!?」 後からテニスコートに来た、千歳のチームメイトの橘が、試合中の千歳と白石を見て、あからさまにがっかりした声。 「あとで打ってもらったらよか?」 「最初がよかよ。…順番はよくて、俺も誘わんね」 「誘ったばい」 今は三人しかいない、公営のテニスコート。 地面に転がったボールをラケットで拾って、千歳は橘に向き直る。 「電話したとよ? それをお前、『宿題やっとるから後で』って」 「あーあれか!? しょんなかろ!」 「桔平、真面目やねー」 千歳と橘は、とにかく仲がよい。 十年来の付き合いか、と思うほど親しい。息があった会話。 ―――――――――――――まるで、「 」みたいな。 「……」 「蔵?」 コートの上で凍り付いたように固まる自分を、見下ろして、千歳が目の前に駆け寄った。 「どぎゃんした?」 「……今、また、なにか」 たまに、なにかを自分は「思い出す」。 ぱらぱらと、剥がれ落ちるメッキのように。 ぱらぱらと、ところどころ、徐々に見えていく、記憶は、まだ全然はっきりしないけれど。 千歳は髪をそっと撫でてくれる。 「ゆっくり、思い出せばよか。話したいなら、聞くたい」 「……、うん」 千歳はいつも、優しかった。 目を覚ますと、白石は起きあがった。 千歳の部屋に敷かれた布団の上。隣のベッドには、窮屈そうに眠る千歳の姿。 「……」 千歳の寝息が聞こえる。外で、風の音がした。 『全国制覇出来たら、よかね』 そう、昼間言っていた、千歳と橘。 「 」 そう、誰かが、ほんの少し前に自分に言った。 「蔵?」 気付くと、千歳が寝台の上に起きあがって、こちらを見ていた。 「……」 千歳は辛そうな顔をして、自分を抱きしめる。自分が、わからないのに、泣いていたから。 「なに、思い出したと?」 「……俺、もしかしたら……」 「ん?」 「テニス、やっとるのかもしれない」 優しい、千歳の声。背中を撫でる、優しい大きな手。 「…やっとるんじゃなか? 強いし」 「部活。やっとると思う。千歳たちみたいに」 千歳の心音が、聞こえる。胸元に耳を寄せているから。 外の風が一瞬止んだのか、静かになった。 薄暗い、夜中の部屋の中。 「…誰かに『優勝させてやれなくてすまんな』って、…言われた…」 どこの大会かも、わからない。わからないけれど。 でも、それは、『今』じゃないと思った。 今じゃない、未来の。 千歳の腕の力がきつくなる。髪を撫でられて、何度も名前を呼ばれた。 見えない、千歳の顔は、必死に祈っているようだと、白石はわからない。 ただ、心音が、早くなったとだけ、気付いた。 聞かなかった。 ―――――――――――――大。常勝―――――――――――――…… 大会会場。優勝本命の学校の応援の声が、ここまで聞こえる。 白石はここにはいない。彼は九州にいる。 「千歳」 自販機に行っていた橘が戻ってくる。 ライトの下で待っていた千歳は、もたれていた背中をフェンスから離すと、一緒に歩き出した。 「このまま立海の勝ちやろね」 「そうなん?」 「決勝の相手は、準決勝の学校より弱い」 自分より、情報に詳しい橘がそう断言した。 立海の準決勝の相手は、自分たちと同じベスト4の、確か大坂の学校。 「あ、ほら、あそこの集団。黄色と緑のユニフォームの」 向こうのコートの傍に集まっている同じユニフォームの集団。大所帯だ。 まあ、準決勝まで残るような学校は、大概全国常連の名門。大所帯なのが普通だ。 背中に『四天宝寺』の文字。 「……」 「千歳? なに、じーっと見とう?」 「…いや、……」 「………………………………『シテンホウジ』やぞ? 読み方」 ばれていた。橘に隠し事は出来ない。 四天宝寺の名前は知っていた。聞いたことくらいある。 ただ、どう書くかわかっていなかったから、『四天宝寺』の文字の読み方がすぐわからなかった。 「…そういや、蔵ノ介って、大坂のヤツなんやなか?」 急に彼の名前を出されて、びくりと反応してしまった。振り返ると、真面目な橘の顔。 「テニスやってて…聞いてみたらどげんね?」 『…誰かに「優勝させてやれなくてすまんな」って、…言われた…』 「…いかん!!」 そう、反射的に怒鳴っていた。傍で橘がびっくりして見上げている。 謝ろうとして、千歳は不意に、その大声でこちらを見ている四天宝寺の部員たちに気付く。 その部員たちの傍に、今までなにか報告で離れていたのだろう。部長と副部長らしき少年が戻ってきて、何事か聞いた。 片方の影に隠れて見えにくかったが、背の低い方が千歳達の方を見る。 その、翡翠の瞳と視線が合った気がした瞬間、千歳はその場を逃げ出していた。 「千歳!?」 橘の声。追ってくる、彼の気配。 あの少年は、当たり前だが追ってこない。 何故か、怖かった。理由なんか知らないのに。 かなり、離れた場所まで走って立ち止まる。東屋みたいなベンチが見える。 上着のファスナーを降ろして、上着を脱ぎ捨てた。 ベンチに腰を下ろす。 一瞬、目があっただけで、顔も全体をはっきり見たわけではない。 なのに、あの瞳。あの、澄んだ翡翠の瞳。 あれは、―――――――――――――蔵ノ介だ。 何故、九州にいるはずの彼が、なんでもない顔で、大坂の学校の部員として、いる? 震える手で、取り出した携帯で、自宅の家電に電話をかける。 何回かのコールの後、母親が出た。 「どげんしたと? 勝った?」という母親との会話も少なく、蔵ノ介に変わるよう頼んだ。 すぐ、彼の声が耳に触れる。 『千歳?』 その声に呼ばれた時、泣きたい程安心した。 「…なんでもなか。……聞きたくなって」 嘘じゃない。聞きたかった。確かめたかった。 あれは、蔵ノ介じゃない。見間違い。勘違いだ。 だって、彼は今、九州の家にいる。 泣きたいほどじゃない。安心した。 頬を流れる涙を拭うこともせず、千歳はずっとそこで電話を繋いでいた。 怖い。 いなくならないで。蔵ノ介。 ずっと、そこにいて。 ⇔NEXT |