家に帰宅すると、いつも通りの彼の顔が出迎えた。 微笑んで、手を広げて抱きしめると、一瞬、びっくりした顔をされた。 気付いたのだろう。 俺の気持ちの変化。 好き。好いとうよ。蔵。 ずっと、ずっとここにおって。 俺の傍に、ずっとおって。 そう、告げると、蔵ノ介は俺に必死にしがみついた。 キスをすると、拒まずに答えるように口を開いた。 なのに、彼は言わない。 俺を、好きだと。 千歳が大会に行く前の夜。 夢を見た。 剥がれるメッキのように、見えそうで見えない記憶を辿って、もっと先を見ようとした。 不意に目隠しをされた。 これ以上、思い出したいなら、千歳のことを忘れろ、という声がする。 本来のお前を取り戻すかわり、千歳を忘れる、と声がする。 そこで、足は止まった。 先を見れなかった。 声は最後に、言った。 「思い出したいなら、千歳にこう告げろ」と。 居間のソファに、横になったまま、千歳は動かない。 大会のあとで、先輩も引退して、疲れたのだという。 「蔵」 起きあがらないまま彼は呼ぶ。 傍に近寄ると、手を掴まれて、膝の上に抱き上げられる。 「蔵…………」 必死な声で、俺の名前を呼ぶ。 キスを強請られて、答えて唇を重ねると、身体を反転させられて、ソファに押し倒される。 「…」 必死で、どこか暗い黒の瞳が、なにを願っているか、欲しているかわかっていた。 「ええよ…」 今日、千歳の家族はいない。だから応えた。 千歳は泣きそうな顔で、首筋にキスをした。そのまま、自分のズボンに手をかける。 「蔵…蔵…。好き。好いとう」 「…うん」 「…なぁ、…応えて」 その千歳の声が、あんまりにも涙に詰まった、震えた声で、胸が潰されたように痛んだ。 それでも、言えなかった。応えられなかった。 「…千歳」 名前を呼ぶだけの自分。千歳は、一瞬低く呻ったあと、すぐ胸元に顔を埋めた。 告げてはいけない言葉だった。 思い出したいなら、告げればいい言葉は、二文字。 「好き」の言葉。 代償は、千歳との記憶。 言えるわけがなかった。 秋のある日、千歳の母親がひどく必死に話している声が聞こえた。 電話だ。 彼女はしきりに「千里は!?」と言っている。家族が事故に遭ったような、声。 千歳の母親は、電話を切って言う。 「千里が、目を怪我した。橘の息子がボールをぶつけた」 彼女と一緒に病院に行くと、数日入院することになった千歳の病室には、既に彼の父親がいた。 千歳本人は、まだ現実味がないのか、あまり危機感がない。 親の方が焦って、泣いて、何度も橘のことを悪く言った。 その時だけ、千歳は辛そうにした。 二人が、医師から説明を受けている間、病室に千歳と二人きりになった。 なにを、言ったらいいかもわからない。 なにもわからなかった。 ただ、傍にいるだけが辛くて、なにかしてやりたくても、どうしようもなくて。 寝台に置かれたままの千歳の手を握ると、千歳はやっと現実味を取り戻したように自分を片目だけで見た。そして、引き寄せて抱きしめた。 「…痛くなかよ?」 「うん」 「ダメだって決まってなか」 「うん」 「……桔平は、悪くなか………」 「…うん」 あまりにもきつく、痛いほど、身体を抱きしめる腕。 それだけ、彼は辛いのだとわかっていた。 「……ぎゅってしてくれ。キスして欲しか」 「うん」 自分を抱いたままの背中に手を回して、力を込める。千歳の額に、頬に、唇にキスを落とした。 「…なぁ、蔵」 「ん」 「…ちゃんと、言うて」 「……」 「…俺を」 千歳の背中を抱く手に、力を込めた。爪先が白く痛んでも足りない程、力を込めた。 それ以上を、してやれない。 ごめん。千歳。 言えないんだ。 お前と離れたくない。 …忘れたくない。 「……蔵は、……残酷やね。…ひどか………」 「…、しっとる」 「…ひどか」 「うん」 「……好いとうよ」 ( …うん。 ) 夢を嘘だと笑うなら、夢だと笑うなら、言えただろう。 でも、自分の中のなにかが、本当だと訴えた。 言ったら、手が離れてしまう。 絶対、俺はここから、いなくなる。 きっと、あなたに、会えなくなる。 いなくなる。 千歳は、あれから帰宅してもあまり家から出ない。 一歩外に出れば、聞こえる哀れみや、親友への悪口を聞きたくないのだ。 視力は、回復の見込みはわからないという。今はまだ。 「……っ……せ」 うっすらと瞳を開いて、見上げるとせっぱ詰まって、それ以上に暗い彼の顔が見えた。 千歳はあれから、よく自分を抱く。毎日どころか、一日に何度も。 ひどいと思える強引さすら、責める権利は自分にはない。 一言も、与えられないのだ。 彼が、どんなにその一言を欲していても。 彼が、どんなに追いつめられていても。 ただ、手を伸ばしてキスに応える。 その度、千歳は泣きそうに俺を抱きしめた。 身体が重い。 目を覚ますと、寝台の横に座ったまま、背中を向ける千歳の身体が見えた。 上にまだなにも着ていないらしく、裸だ。ズボンは履いている。 「蔵」 起きたのを見計らったように呼ばれてびくりと身体が震えた。だが、千歳はただ呼んだだけだった。自分が起きたことに気付いていない。 「……蔵」 何度も、呼ぶ声。痛くて、それ以上に、抱きしめてやりたくなる。 どこにもいかないと約束してやりたくなる。 「…蔵。…ここにおって。どこにもいかんで。お願い。蔵…」 行かない。行かない。だから、泣かないでくれ。 そう痛いほど思っても、声に出来ない。 「…俺のこと好き? 俺が大事? …なぁ、なんか言うて」 好き。大事。…他の言葉なら、言えるのに。 「…あそこにおったのは、ほんにお前?」 その言葉に、心臓がどくりと鳴る。 なにを? なんのこと? 「…大坂の、四天宝寺。あそこにおった、お前は…お前?」 耳を通った言葉。頭で理解する前に、なにかが軋む。 オオサカノシテンホウジ … ? 『優勝させてやれなくてすまんな』 鼓膜の奥で、声がする。 耳を手で押さえても、声がした。 『白石』 待って。やめて。思い出したら、 「……蔵?」 自分が起きていることに気付いた千歳が、背後を振り返って、俺の手を握る。 暖かくて、大きくて、黒い、大好きな手。 (きっともう、触ってもらえることはない) 「…千歳」 微笑んだけど、涙が零れてしまった。 「だいすき」 目覚ましの音がする。 手を伸ばすと、自分の部屋の天井が見えた。 「蔵ノ介ー! 朝やで? 珍しいなぁ」 いつも目覚ましが鳴る前に起きるのに、起きない俺を起こしに来た姉が、そう言った。 「うん。ごめん。…なんやろ」 目を擦って、寝台から降りる。 なんだか、長い夢を見ていた気がする。思い出せない。 「蔵?」 不思議そうな姉の声。目元を擦った手に、なにかついた。濡れている。 「あんた、なんで泣いとるん?」 「……わからへん」 ⇔NEXT |