アナタだーくねす

第一話 迷宮にようこそ




「千歳ー」
 ここ最近、新聞部に入り浸っている千歳の目的は、新聞部で将棋が流行っていてそれに混ざるためだ。
 彼は冗談で「新聞部に転部する」と抜かしていて、周囲に「既に引退してるやろ」と突っ込まれるのだ。
 新聞部の引退部員の中でも目立って強いのは、テニス部で仲間だった白石。
 今日も対局の相手は白石で、千歳は呻って白石の打った手を睨む。
「おい、聞いてんか」
「あ、ああー…すまん。なんね?」
「お前、最近謙也と話すことあった?」
「……そげん話してなか? 普通ばい。白石、話す機会がなか?」
「話しとるし。同じクラスや」
「そうやね」
 本題はなんだ、といい手が見つからない千歳が本腰で相手をしてくれるらしく聞いた。
「あー、ほら、…誕生日やん? 謙也」
「ああ、四日後な」
 そろそろ日差しも暖かく、春の陽気。桜はまだ咲かないが、それも秒読みだ。
 新聞部の部室の窓から、カーテンにはらまれながら床に落ちる日差し。
 それがちらちらと白石の頬に反射して、彼は少し、眩しげに目を細める。
「なにあげたらええかな」
「謙也なら、白石あげとけば満足するやろ」
「それがイヤやから考えてんねんボケ」
 白石の恋人、忍足謙也は白石曰く鬼畜、だ。
 それもセックスの時だけ、ドSな鬼畜。
 被害を被る白石は大変だが、千歳はそんな謙也を見たことがないのであまり同情出来ないでいる。
 見たこともないものに、同情心はわかない。
「ばってん、なにかあげても同じやなか? お前も欲しいとか食べたいとか言うて襲われったい」
「………」
 頭痛がしたのか額を押さえる白石は、それが真実だとよくわかっている。
 その隙にぱっと自分の手を打ってしまってから、千歳は席を立った。
「千歳先輩」
「白石っ」
 丁度のタイミングで謙也と財前が部室に顔を見せる。千歳はわかっていたらしい。
 白石はもうどうにでもなれ、という顔をして席を立つ。
「ん? 前渡しと?」
「うん…今日からあいつん家誰もおらんから泊まり…」
 千歳の傍を通り過ぎながらぼやく白石の声は死んでいて、ようやく少しだけ同情出来た。
「先輩」
「あ、うん。俺達も帰ろうな。光」
「はい」
 嬉しそうに笑って見上げてくる財前に、千歳は胸がじんわりとしてしまい、ぎゅっとその小さな身体を抱きしめる。
「ほんなこつ光は可愛かっ! …白石、謙也可愛くなかけん、大変ばい…」
「か…っ。謙也はかっこええからええねん!」
 真っ赤になって言うだけ反論すると廊下に消えた白石を見送って謙也が
ニィ、とそちらを見て笑った。ちょっと、いや割と黒い顔だ。すぐ千歳たちに気付いて彼はいつもの明るい顔で笑って手を振り、白石を追っていなくなった。
「……ほんなこつ、光は可愛かばい。…癒されっと」
「……え、と…はい。……先輩」
 あの謙也を見た後だ。相乗効果でそう思う自分は悪くない。そんな千歳を新聞部の後輩新部長が「ラブラブは余所でやってください先輩」と突っ込んだ。






『ほな、泊まってくんか』
「うん。ほなな兄貴」
 電話の向こうから了解の声がして切れた。
「先輩、連絡済みました」
「ん」
 返事をした千歳は料理の最中だ。「もうちょいでできっけん待っとってな」と微笑む顔は優しく、眼前にさらされた背中は広い。
 ぎゅ、と不意打ちで背後から抱きついた財前に千歳はびっくりして菜箸を落としそうになる。
「ひ、ひかる?」
「……んー」
 猫撫で声で返事にならない返事が返る。千歳は触れない方が長く抱きついていてもらえると思ったのか、料理に手を戻した。
(…羊を…いや、素数ば数えて………)





 一方、謙也宅。
 ジュースを二人分運んで来た謙也が寝台に、シーツを被ってこもる恋人を見遣って笑う。
「またこの可愛えヤツは…」
「うっさい」
「ほらほら、ええから飲みや。喉乾いたやろ」
「……」
 もぞり、とシーツから少し顔を出した白石を逃さずキスを仕掛ける。白石は驚いて引っ込もうとするが、しっかり首を固定されていて無理だ。
「はい、ご馳走さん」
「………」
「ん? なにかお言葉は?」
「しらんっ!」
 真っ赤になってシーツにまたこもった白石の頭を撫でて、謙也はにやにやと笑う。
「ほんま可愛えなあ。さっきのセックスも、『もっと。謙也もっと』って…」
「黙れ―――――――――――――っっっっ!」
 咄嗟に飛び起きて絶叫した白石はその後また唇を塞がれるのだが、恒例行事のようなものだ。





 それぞれの夜。普通に寝て、翌日起きた。それだけの筈。なのに、なにかが変わっていた。





「白石ー…………」
 同じ寝台で寝ていた謙也が、隣の恋人を呼ぶ。
 まだ半分寝ている恋人は夢を見ながらもごもごと口を動かし返事をしようとしているが、言葉には全くなっていない。
「白石ぃ? 幽霊なんかおらんで? お前の上乗ってへんでー?」
「………」
「そうそう。それ夢。…て、なんでお前の夢に千歳が出てんねん。起きろこら。俺の隣で他の男の夢を見るとはいい度胸や」
「…………」
「ごめんですまん。俺の夢見るように今日は念入りに犯したる」
「………………………………」
 そこでようやく覚醒した白石は、しばらく無言のままぽかんとして固まり、ばっと起きあがる。格好は全裸だが本人はそんなことは今の問題じゃない。
「謙也? 今、お前なんで会話しとったん?」
「は?」
「なんで会話しとったん?」
「いや、お前とやで? お前が言葉にならんこと言いながら」
 そこで意味の分からない顔をしていた謙也も、はた、となる。
「あれ………? 今、白石は喋って…へんかった………やんな?」
「ないで」
「……俺、なんで白石の声が聞こえとったん? 幻聴か?」
「いや、俺は実際お前がうけ答えたことを思っとった」
「………………」
 謙也の頭の中で以前見た超能力漫画の光景が浮かんでくる。
「…あれか! 心の声!?」
「………えー?」
 自分で言っておいてあれな返事をしてしまった白石だが、謙也が「て、お前かて信じてんやん」と言ったので唖然としてしまう。
「…ん? 今、それはなんか俺に必ず伝わるから嬉しいかも……って思った?」
「……っ!」
「…はぁん? ほんまにお前の心が聞こえるらしいわな」
「…………」
 これは一体なんのプレイだろうか。白石は思わずそう考えたが、それも読まれて謙也に「ほなセックスの最中の声も聞かせてや」と押し倒された。





 千歳宅では起きた千歳が、洗面台の前で歯を磨こうと歯ブラシを探していて、そこに起きてきた財前が並んだ。
「あ、おはよ光」
「あんたまだ寝ぼけてます?」
「…んー」
 正直眠い。だがそんな思考も、ふと見遣った正面の鏡に吹き飛んだ。
「………………」
「千歳先輩?」
「………」
「先輩?」
 つん、とフリーズした先輩を財前がつついた瞬間、千歳は金縛りから解けたのか鏡を指さし叫んだ。
「なんねこれっ!!!!」
「…は?」
 財前は一応鏡を見遣るが、特別おかしいことはない。
 なんなんだろう。
「か、鏡にうつっとう俺!」
「………………ぇ、え!?」
 やっと異常を理解した財前も奇声をあげてしまう。
 鏡に映る千歳の姿は、逆さまだった。頭が下に映っている。
「……な、な…え、こういう細工の鏡ですか?」
「んなわけなかね! 第一、光ん姿はちゃんと普通に映っとるばい!」
「あ、ほんまや」
 財前の姿はちゃんと真っ直ぐ、普通に映っている。千歳の姿だけが逆さまだ。
「……………なんなんやろ…これ」
「……さ、さぁ」
 流石にどんなコメントをしたらいいかわからず、財前はそう言った。




 その日は買い物に行く予定で、街に出かけた。
 朝の事件で意気消沈している千歳を励まそうと財前は意気込んだが、不意に背後をぱっと振り返ってしまった。
「ひかる?」
「いえ……」
「……?」
 今、なにか後ろをついてくる足音がしたような。
 でも背後の道に、人の姿も隠れられる場所もない。
「…気のせいみたいです。行きましょ」
「あ、うん」
 また歩き出して、商店街まで出る。「食材とタオルでしたっけ?」と聞くと「うん」と千歳が答えた。
「数がなくなってきとうけん…」
 言いながら千歳はふと真横を見て、引きつった表情を浮かべる。財前が気付く前に手を掴みその場を競歩の勢いで駆け出した。
「せんぱいっ!?」
「……あ、ごめん。…って、今」
「今?」
 財前が先ほど千歳が見た店を見遣る。そこは女物の化粧品店で扉から全てがガラス張りだ。
「……そこんガラス…俺の姿が」
「まさかまた逆さまに…」
 千歳は脅えきった顔でこくりと頷いた。
「…マジすか」
 なんなのだこれは。
 しかしそこまで思って、また背筋に妙なものを感じて財前は背後を振り返る。
「ひかる?」
「……いえ」
(また、なんや足音…。いやものっそう近くで聞こえた。…それになんか視線)
「ひか」
 様子のおかしい恋人に呼びかけ、髪に手を伸ばした千歳にそのままぎゅうっとしがみついた。
「ひ」
「…すんません、いやその、…先輩が怖いやろうって」
「……光が震えとうよ?」
「………」
 説明してしまおうか、と思った時傍で聞き慣れた声が「なにやってんバカップル」と言った。ぱっと離れて見ると、謙也と白石。「あんたらもでしょ」とツッコミたいが、白石がいるので不可能だった。




 そのままファーストフード店に入った四人は、窓際の席に座る。
 ポテトを食べながら謙也が「逆さま?」と鸚鵡返した。
「うん…」
「マジか? そんな」
「ほら…」
 千歳が横を指さす。謙也は素直にそちら、道が見える構造のガラスを見遣る。だがわからない顔だ。
「俺ん姿」
「…………。ぇえっ!?」
「謙也、うるさい」
「やって逆さ! ホンマに逆さやで!?」
「…あ、ホンマや」
 白石の方はのんびりと不思議を認識し、コーヒーのストローを噛む。
「…………………」
「白石さん?」
 そのままの姿勢で無言になった白石を、謙也がおそるおそる振り返る。そこにはなんとも形容しがたい顔。
「…これ、紅茶の味すんで」
「…はぁ? 店員さん間違えた?」
「かも…」
 ひょいと白石の手から謙也がカップを取り、一口含む。そしてぶっと吹き出しかけた。
「謙也?」
 千歳の声に、謙也はカップをこちらに突き出す。
「飲んでみ」
「え?」
 自分に回されたカップに千歳は白石を窺うが、彼も了承したような顔。
 一口飲むと、間違いなくブラックコーヒーの味。
「ああ、ブラックが飲めんとか謙也…」
「悪いか」
 吹き出した理由はそれか、と笑う千歳の横で財前もそれを飲んでみて、ブラックコーヒーだと思う。
「謙也くんだけお子さま舌…」
「なんやと…?」
「…え? なに、コーヒーの味するん?」
「するで? 苦い」
「…俺、砂糖いりの紅茶の味したんやけど」
「……」
 これだけなら、多分千歳も自分も馬鹿にした。しかし、千歳に起こった奇怪な事件に、白石の心を読めるようになっている自分。
 そして、謙也には本気でそう感じ、戸惑う白石の胸中が聞こえていて。
「白石、こっち飲んでみ」
 謙也に渡された謙也のカップに、白石はおとなしく従って口を付ける。
「ジンジャーエールなんやけど…やっぱ紅茶の味か? ぴりっとも来んか?」
「……うん。紅茶」
 流石に胡乱そうな顔になっている白石に、謙也は「確定や」と呟いた。千歳が拾って「え?」と返す。
「千歳も今朝からやろ? そのおかしなこと」
「あ、ああ」
「俺も今朝から白石の心の声が聞こえんねん。他のヤツは聞こえない」
「ええ?」
「で、今の。白石はどうもなに飲んでも紅茶の味になるっぽい。
 …ここまで来たら全員マジちゃうん?」
「………ま、あ」
 自分に不思議なことが起こっていないなら笑うが、起こっている。笑えず神妙な顔をした千歳は「関連しとう?」と白石に振った。
「しとるかもな。タイミングは一緒。で、仲間やし」
「……もしかして小石川たちもかね…」
「あのー……」
 その中で唯一の後輩が、すっと手を挙げた。が妙な顔だ。
「…俺にはなんにも起こってへんのですけど」
「気付いとらんだけやないん?」
「…えー?」
「ばってん、大変な異常やったら普通気付くばい」
「…そりゃそうですけど」
 飲み下せない顔で自分の頼んだオレンジとにらめっこをする財前だったが、ふと顔を謙也達に戻した。
「あ、そういえば遠山たちが今日、先輩らが来るって」





「師範ら、なんもなかったみたいばい」
「ですね」
 帰宅中の道、結局不思議なことが起こっているのは千歳・白石・謙也だけらしく、不思議になる二人を包む空気は夜でもう暗い。
 不意に、また背後を振り返った財前が脅えた顔で千歳の腕にしがみついた。
「光? …まさか誰か…」
「…足音、するし…視線が」
「……?」
 千歳は目を凝らして夜道を見るが、なにもいない。足音なんて全く聞こえない。
「もしかして、今日ずっと?」
「…はい」
「…………」
 自分は感じた試しがない。はっきり言って視力の関係で財前より気配や視線、音に鋭い自信はある。
 そこまで考えて、千歳はハッとした。
(……もしかして、これじゃなかとや? 光に起こっとう不思議)
 常に、誰もいないのに足音が聞こえたり、視線を感じたりする。それがそうじゃないのか。
「光」
 大丈夫だと言おうとしたが、ぎゅううっと財前にしがみつかれて言葉をなくす。
 震える身体が自分を見上げて、涙目ですがっている。
「…大丈夫ばい! 俺が守っちゃるよ!」
「先輩〜っ…!」
 これはしばらくうちに泊まれとお願いしても可能かもしれない、と誘惑に負けた千歳は結局その仮説を話せなかった。





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