アナタだーくねす

第四話 もう恋じゃない。綺麗じゃない。





 雨が降っている。

 不意に、眠るように思い出すのは、いつだって。





「謙也!」
 小学校六年の、春。卒業式間近の日。
 テニスで知り合って仲良くなった健二郎が、紹介したいヤツがいると言うので、俺は彼が住む近くまで電車に乗って来ていた。
 電車の中からは、雨が見えたのに、ついたら止んでいた。
 駅に迎えにきた健二郎は、また身長が伸びていて悔しくなる。
 その背後に立つ姿に気付いて、どきりとした。

 綺麗なヤツだって思った。

 肌は白いし、顔は整ってるし、俺と同じくらいの身長だし、なんかこう、住んでる空気が俺や健二郎と全然違う感じの子。
 深窓の令嬢ってこんな感じかも、とぼんやり見とれて思った俺に、健二郎がその子を俺の前に引っ張って笑った。
「こいつ、同じ小学校でテニススクールの白石蔵ノ介。
 白石。こっち、道頓堀第二の忍足謙也! 中学は同じ四天宝寺やて」
 健二郎に俺を紹介されたその子は、瞬きをした後微笑んで俺に手を差し出した。
「白石や。よろしく、忍足くん」
「あ、よろしゅう」
 咄嗟に手を握ってしまって、から気付く。指が、というか指の皮膚が硬い。
 あ、テニスやってるんだった。なら、硬いのは仕方ない。
 …待て? 今、名前、
「白石、蔵ノ介?」
「うん、変わっとるやろ」
 にこにこ笑うその子に、もう「まさか男?」なんて聞ける空気じゃない。
「…そやな」
 そう答えて、それで、


 お終いにすれば、なにもなかったはずの。






「オサムちゃん」
「…謙也、お前入学早々それか」
 渡邊の根城である社会準備室。顔を覗かせて呼ぶと、そういいながら嫌そうではない顧問。
「やって先輩らが呼ぶし」
「まあええ。なんや?」
「…」
「恋煩いか」
 あながち外れていない。
「…初恋で一目惚れで、…せやけどその子に全く意識される見込みがない場合どないする?」
「まあ謙也は友だちで終わるタイプやろうし」
「そういうこととちゃう」
「…あれやな。白石とかは、確実に本命として好かれるタイプか」
 心臓がどくりと嫌な感じに鳴った。
 白石は、離れたクラスになってしまい、部活以外で話せない。
 渡邊は例えで出しただけだが。
「小石川もやろ。白石は、今はまあ可愛い部分あるけど、二年にもなれば結構な男前になるであれは。モテるやろうな。そんなんの傍におったら、そらモテへん」
「…もうええ」
 あてにならない、と部屋を出た。
 知ってるし。白石が、身長とか伸びたらきっとすごい綺麗になるってことくらい。
 だから、必死なのに。
 あの日から、醜く好きなままで。
「謙也」
 廊下の向こうから健二郎が走ってきて、目の前で止まる。
「昼飯食った?」
「まだ」
「食おうや。白石も一緒」
「ほんま?」
「うん」
 頼みの綱は健二郎だった。彼はよく、白石を誘って、自分をお昼に誘ってくれる。
 かといって、俺の恋心を知っているわけではないのだ。





 雨の日だった。

 健二郎に、仲直りしとけ、と言われた。
 些細なことで、白石と喧嘩をした。
 あれは、彼が部長に選ばれてすぐの、一年の秋。

 重い足を引きずって部室に行くと、白石が気付いて顔を上げ、自分を軽く睨んだ。
 部室には彼しかいない。

「………」
 謝るって言ったって、どうすればいいのだ。
 健二郎だって、喧嘩の詳しいいきさつなんか知らない。
「なんの用や」
「……あ」
 吐かれた声は、冷たくて、初めて会った頃と違う低い声。少しだけ。

 一年で部長に抜擢されて、身長も伸びてきて本当に男前になっていく白石は、やたらモテるようになった。
 気に入らないのだ。彼に群がる女が。

「気に入らない」と言ったら、「お前が部長をやるのが」と意味を取り違えられて、喧嘩になった。
 正直に、好きだからなんて、もっと言えない。

「…ごめん」
「…、」
 白石は短く息を吐いただけだ。
 重い空気に俯く俺を見遣って、しかし彼はあっさり快諾した。
「わかった」
「え」
「謙也に悪気がなかったんは、わかっとるし。お前、そんなヤツちゃうし」
「……」
「勝手に怒ってごめんな」
 そんなことはいい。大丈夫。
 でも、お前はいろいろ我慢していないか。
 言いたいことや、俺に怒りたいことを、堪えていないか。
「謙也、もう帰るやろ? 一緒に帰るか?」
 いつも通り笑って振り返った顔に、それ以上、言い募ることも出来ず。




 でも、後から気付いた。

 それから、彼の態度に僅か、にじみ出ている感情。

 怯えの色がある。俺にだけ。

「部長をお前がやるのが気に入らない」と言われたままだと信じている彼だ。しかたない。
 俺は敢えて、訂正はしなかった。
 だって、付き合うようになってからは特に顕著に、キミが怯えるから。
 俺の些細な行動や、言葉に、またなにか不興をかってないかと、嫌われているのに付き合ってくれてるから、いつ捨てられてもおかしくない、なんて怯える。
 どうあれ、俺の存在がキミを縛っていると気付いたら、嬉しくなって、快感にすらなった。
 愛しくて愛しくて、堪らないから、苛めたい。
 大好きで仕方ない。だから、泣かせたい。
 俺のことで、キミが心を一杯にする瞬間がある。
 それは、堪らない快感だった。






 寝台に眠る白石の額に手を当てる。
 もう、熱は下がったみたいだ。

「……ごめん」

 寝ている時だけ、謝る自分。
 今ですら、訂正する気のない自分。
 知っている健二郎は、もう呆れて、諦めている。
 あるいみ自分が原因を作ってしまったので、彼は深く介入してこない。





 白石の熱が下がったあと、公園に一度出かけた。
 呼ばれたらしく、千歳と財前も。
「俺の誕生日の頃は、散っとるやろしな」
「そやな」
 もうすぐ高校生になる。
 別離はないから、あっさりしたものだ。
 桜の傍に座ってぼんやり空を眺めていると、白石がこっちを見ないまま、自分の手を握ってきた。
「なに?」
「…」
 意地悪く笑ってやると、気まずそうな、恥ずかしそうな顔。
「…触ってて、ええ?」
「…しゃあないな」
 その瞬間、胸がなにかで刺されたように痛んだ。
 あれ?と思う。
 その一瞬だけで、痛くなくなる。

(もしかして)

 今のは、白石の心だろうか。

 痛くて、でも甘くしびれるような痛みを、彼はいつも感じているのか。
 やはりそれは、セックスにもなににも勝る快感で、俺は当分訂正してやる気がない。
 優しくしたくないわけじゃないから、手を握り返して引き寄せた。
 俯いたまま真っ赤になる白石の心は、もう聞こえない。



 桜が散る。



 今はまだ、もう少しこのままで。


 まだ、気付かないでいて。





 不可思議なことは、それっきりなくなった。俺も、白石も、千歳も財前も。
 理由はわからない。



 それはまるで、桜が起こした、ただの幻みたいに。









 THE END

 後書き