ウサギの雪・トロイメライの徒花

恋でもなく 愛でもなく

キミを見つけたのは、運命






 父の関わっていた孤児施設を千歳が訪れたのは、本当に偶然だった。
 大手に名を連ねる会社の社長令息とはいえ、自力出世が父の持論。
 次期社長と認められるために仕事に追われて、正直、父の代わりに施設に行くよう言われても面倒としか千歳は思わなかった。
 同じ会社に勤める学生時代からの友人の橘は“お前ももう25歳なんだからちゃんとしてこい”と言うが、面倒は面倒だ。
 快く案内してくれた施設の保母の先導で広く取られた広場にさしかかった時だ。
 きぃ、と揺れるブランコの傍の椅子。
 虚ろに地面を見遣ってなにかを抱きしめたまま、そこから動かない少年。
 白金の髪は遠目にも艶やかで、虚ろな瞳は翡翠をしていた。
「ああ、…白石くん」
「白石?」
「白石蔵ノ介くんです。今年十五歳で。
 あの、一年前の大阪の一家惨殺事件、知ってますか?」
「……あ、ああ」
 確か、大阪府内で起こった一家惨殺事件。
 未だ怨恨か物取りか不明のまま、犯人すら特定されていない。
 確か第一発見者がたまたま不在だったその家の長男だった、と聞いた。
「その生き残りなんです。
 第一発見者で。…他に親戚がいなくてここに。
 家族を全員失ったショックに、…よりによってその死体を発見したショックが重なって…。言葉を失ってしまってまして…一言も話さないんです。
 感情の起伏もないし…。無理もないけれど。
 あの抱いてるウサギのぬいぐるみ。唯一無事だった家族の、妹さんの形見だって。
 だからずっと抱きしめてて離さないんです」
 その白石という少年から感じたのは、外見の人並み外れた美しさと、それから。
 縁者を失った子供特有の悲壮な雰囲気。
 そんなもの、この施設の子供は明るかろうが持っているものだ。
 けれど、その微動だにせずこちらを見もしない瞳に、どうしようもなく惹かれた。
「…あん子」
「はい?」
「俺が引き取ってよかですか?」
 それは、恋でもなく、愛でもない。
 ただ、言えるなら、運命だった。





 千歳が住む屋敷は、一人で住むには大きく家ではなく屋敷と呼ぶのが正しい。
 使用人も当たり前のようにいた。
 その屋敷に案内されて、千歳に促されても、白石はぬいぐるみを抱きしめたまま、一言も話さなかった。
 無理はない、と思う。
 理解力が残っているなら、これがただの善行かわからず戸惑って、ともすれば自分に疑心すら持つはずだ。
 だから、白石の態度は正しいと言えた。
「ここが…えと、蔵ノ介、て呼んでよか?」
「…………」
「よか、ね…? じゃ、ここ蔵ノ介の部屋たい。
 好きに使うてよか。寝る時は、俺の寝室広かし、空いてるから一緒に寝ような」
 あくまで家族を失って孤独を恐れて当然の子供に対する気持ちだった。
「…………」
「うん、わかった。ご飯になったら呼ぶけん。あとは…」
 ふと気付いて、肩に手をかける。
「…服着替えた方がよかよ。風呂入ると? そのぬいぐるみ、ベッドに置いておけばよかし…」
 言いかけて、一瞬反応が出来なかった。
 それまで促すために肩を抱かれてもなにをされても表情一つ変えず、虚ろに一点を見るだけの瞳に、強い意志があった。
 千歳の手を払う、という意思表示を初めてした白石は、ぬいぐるみをぎゅっと抱くと、きつく睨み付けてきた。
 嫌だ、と必死に語るその表情は、まるで印象が違う。
 縁者を失った悲壮な子供なんて、可愛いものではない。
 気高く、それでいて清廉な意志と、強固な心の強さが伺えて、それすら美しさを際だたせた。
 彼が、心を普通に表現出来るなら、どれほど美しく、どんな言葉を発するのかと。
 そう、考えた瞬間に、自分は落ちていた。
 最初は、それは多少外見に惹かれる邪な気持ちがないとは言えなかったけれど、純粋に哀れで、笑顔を見たいだけで引き取ったつもりだった。
 後から、そんな子供はいくらでもいることに気付いて、何故彼を選んだのか、正直悩んだ。
 けれど、ようやく知る。
 最愛を喪失した子供特有の従順さやすがる手とは裏腹な意志の強さに、その気高さが伺える瞳に。
 自分はきっと、最初に気付いていた。
 そして、魅入られて手放したくなくなった。
 次の機会にしたら、この宝石は二度と自分のものにならない気さえして、手に入れたいと欲望が願ったから、連れてきたんだ。
 こんな、言葉一つ交わしていない、十歳も違う子供に冗談じゃない。
 でも、自分は、この子供を、きっとあの一瞬に愛してしまっていた。






「蔵ノ介、こっち」
 それでも、千歳は良くも悪くも、良心のある人間だった。
 歳の違い以前に、家族と言葉を失った子供が相手なのだ。
 いくら明確な欲望を感じても、無理矢理身を暴く真似は絶対出来ない性格をしていて、だからひたすら優しく接しようと決めた。
 一緒に食事をして、寝て、この子の第二の家族になれればいいと。
 絶対怯えさせたくないと、願って夜、寝台に招いた。
 白石は怯えるように、ぬいぐるみをきつく抱いたが、千歳は腕を引っ張ることなく、寝台の上に座って、遠くに立つ白石を我慢強く呼んだ。
「なんもせん。そん子も抱いててよかし、俺がそん子に触るのが嫌なら、触れんよう背中向けとくたい」
「…………」
「な?」
 その千歳の、決して自分を無理に動かそうとしない意志を感じて、白石は初めて戸惑ったように千歳を見た。
「大丈夫。怖かことは、絶対せん」
 安心していい、と優しい声で告げる。
「……………」
 白石は、本当に?と聞くように千歳に目をやる。
「うん」
「………………」
 信じたのか、通じたのかどうか、白石はゆっくり、おずおずとベッドに近寄ると、とすん、とベッドの淵に膝を降ろした。
「ん、もうちょい真ん中で寝てよかよ」
 言って、千歳は軽く、あくまで強制的に感じないように優しく背を抱いて、ベッドに白石を横たえた。
 拒まず、ただ不思議そうに、戸惑って隣に横になった千歳を見る白石の髪を撫でて、微笑んでやる。
「おやすみ、蔵ノ介」
「…………………」
 矢張り、戸惑うような視線と沈黙。
 それでも、白石は千歳の胸に抱き寄せられた自分の身体を無理に離すつもりはないようで、そのまま抱いているとしばらくして小さな寝息が聞こえた。
 少しでも、彼が安心出来ればいい。
 ただ、そう願って千歳も目を閉じた。





「なんだか、意外だな」
 一ヶ月の出張から帰宅した橘が一部始終を見てそう言った。
 橘は千歳の屋敷の一部屋をもらってそこで暮らしている。
 学生時代から他人に関心のない千歳を知っているので、それが縁のない子供を引き取ったと出張先で聞いた時すら彼は驚いていた。
 実際、かいがいしく白石の世話を優しく焼く千歳の姿を、本当の父より父親らしい感動の眼差しで見つめた橘に、どげん意味ね、と言う千歳の声は笑っていた。
 丁度白石が抱くぬいぐるみと遊ぶようにクマのぬいぐるみを動かしていたので、そう声が笑ってしまった。
「ああ、蔵。こいつは俺の学生の時の友だちの橘桔平。
 危ないヤツじゃなかから怯えんでよかよ」
 橘に気付いて咄嗟に千歳の巨躯に隠れた白石を宥めるように撫でて言う。
 白石はそれを聞いて、橘をやや怯えた顔で見上げた。
「ああ、橘っていうんだ。千歳と同い年だ。よろしくな」
 挨拶をした橘と千歳を交互に見る白石に笑って、千歳は大丈夫たい、と一言確かめるように言ってやる。
 すると、やっと千歳の友人、と認めたのか千歳の背中から出てくると、見上げてぎこちなく首を傾げた。
「今ん、挨拶の代わりとよ」
「そうなのか」
「うん。な」
「…」
 伺った千歳に、白石は頷くように小さく笑った。



 一ヶ月を共に過ごして、白石も理解した。
 千歳が決して自分を害さないこと、自分の意志を尊重してくれること、経緯はわからなくても自分を大事に思ってくれていること。
 白石が戸惑えば、千歳は手ではなく優しく意識した声で大丈夫だと促したし、ぬいぐるみを離そうとしない白石の気持ちを理解して白石の手から離れない形でぬいぐるみを綺麗にしてくれたりもした。
 食事も仕事が遅くならない限り一緒に食べてくれたし、ちゃんと白石と向き合って「いただきます」と、まるで家族と食べていた時を思い出すような丁寧な仕草で、白石が食べるのが遅かったら食べ終わるまで決して義務的ではない他愛ない話をして待ってくれる。
 嫌いな食べ物に気付いたら、出さないよう気遣ったり、食べられるよう調理する使用人に言ってくれもした。
 眠る時はいつだって抱きしめてくれて、それも優しかった。
 決して苦しくないよう、間に挟まるぬいぐるみが潰れないように優しく背中を抱くだけの手は、たまに白石を安心させるように髪を撫でた。
 もう、怖いことはないからおやすみ、と言うように。
 キスのまねごとをされることはあったが、あくまで額や頬に優しく大丈夫だ、という意味で落とされた。
 ある夜、悪夢を見てうなされ、泣いて起きた白石に、彼は抱きしめてよか?と初めて許可を伺った。
 震えながら、それでも彼がとても優しいことを白石は理解していた。
 だから、頷いた。
 すると、初めてきつく抱きしめられた。
 それでも決して痛くないように、大丈夫だから、と必死に教えようとしているのが伝わった。
 千歳の広い胸の中で泣いた白石をずっと抱きしめていた千歳は、やっと泣きやんだ白石にどこか悲しそうに微笑んで、あくまで優しく聞いた。

「キス、してよか?」

 と。
 口に、と。
 嫌ならせん。それ以上は、絶対せん。
 そう優しくだから怖がらないでいい、と言う。
 その瞳には、たまに施設に来て自分を見て、外見で欲しいという大人がよく浮かべているあの嫌らしい色は欠片もなかった。
 ただ、ひたすら優しい色だけがそこにあった。
 ひたすら自分を思って、優しくしたい、笑って欲しい、という愛しさしかなかった瞳を思い出す。
 千歳が本当に優しいことを、白石は思いだした。
 彼は、絶対自分を害さないと、怖がることをしないと、理由はわからない。
 けれど、大事に思ってくれているんだ、と本当に思えた。
 だから、その服の裾を掴んで、頷いた。
 瞬間、千歳は酷く嬉しそうに、泣きそうに微笑んで、触れるだけのキスを唇に落とした。




 彼は、それから唇にもするようになったが、あくまで触れるだけで、決してそれ以上しない。
 千歳は本当に優しい。
 だから、一ヶ月暮らしただけで、白石はだいぶ千歳に心を許していた。
 一ヶ月と短くても、毎日触れる手が、優しい声が本当に大事にしていると伝えたから、信じることに躊躇いはもうなかった。
 だから、千歳が大丈夫だ、と紹介した橘にも、大丈夫なのだ、と理解した。


 千歳が仕事で遅くなった日だった。
 部屋で待っていても、千歳が帰って来ないのが怖くなった。
 あの日、いつも通り開けた家の玄関。
 血が廊下を流れていた。
 倒れていた姉、妹、父、母。
 全員、死んでいた。
 怖くなった。
 千歳に限って。
 でも、二度目は堪えられない。
 そう思って部屋を出た。
 一応、と教えられた橘の部屋の前に行って、扉を叩いた。
 すぐ顔を出した彼が随分驚いて見下ろしてくる。
「驚いたな。俺のところに一人で自分から来るなんて…」
 そう零したが、優しい人格者らしく、すぐ視線をあわせてどうした?と聞いてきた。
「………」
「ああ、千歳か?」
 こくりと頷く。
「今日はちょっと遅くなるらしい。大丈夫だ。ちゃんと帰ってくるよ」
 本当?と伺う顔に、橘は笑った。
「白石は、一応ちゃんと、年相応の理解や知識や、精神はあるんだよな?」
 と訪ねてきた。
 ともすれば幼子にしか見えない動作しか取らない白石しか見ていないのに、よくわかったものだ、という色が出ていたのだろう。わかる、と彼は笑った。
「それは表現は幼いが、それは一年も言葉を失って他人と関わってなければそうなって仕方ない。ちゃんと意志ははっきりしてるし、千歳が教えれば勉強も理解するだろ?
 千歳だって気付いてるさ」
「……………」
「それでも、あいつが一緒に寝たりしてるのは単純にお前を可愛がってるからだし。
 あいつもお前をちゃんと年相応に見てるよ。
 怖がらせたくないって意識が先行して優しく意識するから、ちょっとわかりにくいかもしれないが。子供扱いされてるように感じたか?」
 首を横に振った。
 確かにどことなく幼子に相対するような仕草を千歳はしたが、絶対白石を幼子同様に扱ったりはしなかった。ちゃんと、十五歳の自立心も自尊心もある男として見てくれた。
 だから、感じてない、と首を振った。
「だろ? あいつは優しいよ。お前に会ってから特に」



 橘は、待つんだろ?と意志をくみ取って、居間に移動して笑いながら学生時代のことを話してくれた。
「あいつ、とにかくやんちゃだったよ。俺もな。
 髪染めたりピアス…は今もだな。とにかく、生徒指導室常連だったし、よくさぼってた。
 あれで次期社長なんて無理じゃないかとは思わなかったな。
 あいつ、やるときはしっかり責任持つ真面目なヤツだったから。
 ただ、教師には不真面目に見えただけ、周りには不良に見えただけだ。
 あの身長だしな。
 でも、一緒にテニスやってて、ちゃんと全国目指してて、強かったし。
 ああ、好きなことややらないといけないことには真面目だから、ちゃんと後継げるって俺は思った。
 でも、他人には無関心だったよ、優しいっても上辺だな。
 執着しないっていうか。
 俺は執着された唯一らしかったんだが。それも偏ってたし。
 …だから、あいつがあんなに必死に、大事に優しくするのは、お前が初めてだよ。
 誓っていい」
 本当に?と信じられないように見上げた。ああ、と笑われる。
「あいつを、あんなに優しい、人を愛せるヤツに変えてくれたのは間違いなく白石だ。
 だから、安心していい。あいつが、お前を置いていなくなるわけないぞ」
 安心した。
 橘の言葉は本当だとわかった。
 彼も優しい。
 ふわりと、微笑んだ白石に、橘は一瞬挙動を止めて、驚くと参ったと笑った。
「…千歳に関わることなら、俺にも笑ってくれるんだな」
 そっと髪を撫でられる。千歳以外が触れるのは久しぶりだったが、避けなかった。
「…お前も、千歳の気持ちがわかってるんだな。…安心した」
「…………」
「あいつを、好きになってくれて有り難うな。…俺がいうのは変か」
 変じゃない、と首を振る。
「お前、笑ったりするのは千歳だけだよな。ああ、悪くないよ。
 …口、利けないわけじゃないんだよな?
 話すつもりなら話せるか?」
 聞かれて、意味はわからないけれど多分、と頷いた。
「なら、千歳が帰ってきたら“お帰り、千歳”って言ってやれ。
 絶対喜ぶぞ」




「ただいまー!」
 奥の白石にも聞こえるように言って、千歳は靴を脱いで広い玄関に足を降ろした。
 すぐ、足音がする。
 橘か、と思って声をあげた。
「桔平。蔵ノ介はもう寝たと………」
 もう遅いから、食べて寝ただろうと聞いたが、そこから現れたのはぬいぐるみを抱いたその白石本人で。
「…く、蔵…? え、あれ…」
「………」
「お、俺ば…迎えてくれたと…? 待っててくれたと?」
 まさか、と思いながらどもって聞くとこくりと頷く。
 それに泣きそうに幸福になった千歳の手をきゅっと掴んで、見上げた翡翠の瞳が微笑んで、唇が動いた。

「お…かえり、…ちぃ?」

 一瞬、理解が追いつかなかったけれど。
 今のは、間違いなく白石の言葉だ。
「…く、蔵…!? お、俺に…? 俺に“おかえり”言うてくれたと!?
 こ、声ば初めて聞いたと…きれか声たい…!」
「…ち…ぃ?」
「それ、俺んこつ…!?」
「…ちぃ」
 こくりと頷いてそうだ、と伝えるとまるで世界が狂わない限り叶わない願いごとが叶った奇跡を見たように、ひどく嬉しそうに、泣きそうに微笑んだ顔。
 ぎゅ、と抱きしめられて、初めて少し痛かった。
 けれど、拒まないでぬいぐるみを抱いていない方の手で背中を抱いた。
 すると、とても嬉しい、というように耳元で低い声が言う。
「……有り難う、蔵ノ介。…俺、今すごく幸せとよ」
 それが本当に本心だとわかって、嬉しかった。
 だから、微笑んで紡ぐ。
「…ちぃ」









 彼は優しくて、とても優しくて、自分を大事に愛してくれるから。

 彼に笑って欲しかった。

 彼に喜んで欲しいと、思ったんだ。









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