ウサギの雪・トロイメライの徒花

恋でもなく 愛でもなく

キミを見つけたのは、運命







 白石が初めて千歳と話した日。
 あれから、半年が過ぎた。
 千歳にしか言葉を向けない白石の、外見と裏腹な幼子のような仕草を不思議がる屋敷のものもいたが、それを口にするものはおらず、平穏に日々は過ぎていった。
「ちぃっ…ちぃ?」
「あ、どげんしたと? 蔵」
 千歳の部屋に顔を覗かせた白石に、橘と話していた千歳が顔を上げた。
 いくら仕草が幼子のようだろうが、十五歳の理解力や精神がある。
 仕事の話だと悟った白石が、首を引っ込めようとするのを察して、橘は書類を千歳の手から取り上げた。
「話は済んだよ。だから戻らなくていい。な、千歳」
「ああ、おいで、蔵」
「…ちぃ…邪魔…?」
 言葉が足りないが、首を一緒に左右に振ったので“邪魔じゃないの?”と確認したいのだとわかって、千歳は頷くと立ち上がって腕を広げた。
「ちぃっ」
 白石が顔を一杯の笑みに変えて千歳の広い胸に飛び込む。
 その細い身体を強く抱きしめて、千歳は笑った。
「どげんした? 勉強したか?」
「…違う」
 首を振って、千歳の服を掴む。
「じゃ?」
「…ちぃのとこいたいだけ…だめ?」
 そう可愛らしく拙く願われて千歳が拒める筈がない。
「そげんわけなかっ! じゃ、ご飯までこうしてよーと!」
 ぎゅ、と抱きしめて力一杯喜んだ千歳に白石も嬉しそうに腕の中に収まる。
 やれやれ、と橘が笑む。
「千歳、お前、毎回感激してたら心臓もたなくないか?」
「…え? だって、だけんほんなこついつもうれしかし…」
「…まあ、白石が白石なりに一生懸命お前を喜ばせたいってやってるのは事実だから、そこまで喜ぶなら白石は嬉しいだろうがな」
「……蔵、俺を喜ばせようとしてくれっと?」
 きょとんとして、問いかけると、白石はふわりと笑ってたどたどしく言う。
「…え…う……ちぃ、喜んで欲しい…。ちぃに、…笑って欲しい…から」
「蔵っ!」
 感動して抱きしめる手を強くして、千歳は今にも泣きそうに破顔した。
「うれしか! ありがとうな蔵ノ介! ほんなこつ幸せもんたい俺!」
「…ちぃ…」
「……やれやれ、俺は差詰め仲人か後見人か……」
 苦笑した橘が二人きりにさせてやろうと部屋を出た。





 ある日、仕事が朝の二時まで遅くなって、今日は白石と一緒に寝れないな、と嘆きながら家に帰宅した千歳を、ぬいぐるみを抱えた少年が出迎えに駆け寄ってきた。
「く、蔵!? なんでんまだ起きとーと?」
「…ちぃ」
 千歳が怒ったのかと誤解して、首を縮こまらせた白石の髪を、背後からやってきた橘が撫でた。
「千歳、落ち着け。
 白石はな、お前と一緒にご飯食べたいから、お前が帰ってくるまで何時でも待つって言ってるんだ。そう言うな」
「…え」
「…ごめん…ちぃ」
「い、いや責めてなかよ! 怒ってなか!
 蔵…俺と一緒に食べたいって…俺んこつ、こんな時間まで食べんと待っててくれたと?」
 しゃがんで目線をあわせて聞いた千歳に、頷いた白石の腹が小さな音を立てた。
「…っ」
 鳴った空腹の音に、白石が恥ずかしそうに顔を俯かせる。
「蔵…」
 ぎゅ、と抱きしめて、背中を撫でる。
「…ありがとう蔵。俺も蔵と一緒に食べたかったとよ。
 ありがとうな」
「…ちぃ、ご飯」
 一緒に食べよう、と伝えられて、頷いた。





 食べ終わるともう三時だった。
「蔵、眠くなか?
 次からは俺が帰ってきたら起こすたい。少しでも寝ててよかよ?」
 隣に座る白石に言うと、白石は首を振った。
「…や」
「え?」
「…ちぃが、…いないと、や…」
「…」
「ちぃと一緒…やないと…寝ない…」
「蔵……」
「…嫌?」
「…そげんわけなか」
 その白い頬を包んで、微笑む。嬉しい、と伝えたくて。
「…蔵、一人で寝るばは、怖かね…?」
「…でも」
 白石はそれもある、と言う。
「…でも…ちぃと、一緒に寝たい…から」
 それもある、けど、千歳と一緒に寝たいから待ってるんだ、と言われた。
「…蔵」
「…ちぃ…は…嬉しい…? 俺が…一緒に…寝…たり…ご飯…するの」
 不安に伺った細い身体を抱きしめる。強く。
 そして一度離すと、瞳を見つめて、微笑んで言った。
「嬉しか。ほんなこつ、…すごく、嬉しか。
 蔵が、俺んためにやってくれる。俺んこつ必要にしてくれて、それが蔵にとっても嬉しかこつは、…すごく、…嬉しかよ。
 …蔵、……ほんなこつ、ありがとうな」
「……?」
 なんでお礼言うの?と首を傾げた白石の頬を撫でる。
「…蔵がいるだけで、俺は幸せたい。
 蔵がおらん世界は、もう俺は想像できん。思い出せん。
 それで、蔵が傍おってくれるだけで幸せ。やけん、その上蔵が俺を大事にしとーて、ご飯一緒に食べてくれて、待っててくれて、一緒に寝てくれて、俺に笑ってくれる。
 …こんなに幸せでよかの、ってくらい、幸せたい。
 やけん…俺を、こげんに幸せにしとうてくれて…ありがと、蔵」
 本当に嬉しくて幸せで、だから伝わって欲しいと願ってゆっくり言葉にした。
 白石は理解すると、ひどく、まるで春に初めて綻んだ花のように微笑んで、千歳に抱きついた。
 そして、千歳の首に手を回すと、それに驚いた千歳に口付けた。
 触れるだけの、幼いキス。
 けれど、白石からしてくれるのは、初めてで。
「…ちぃ…大好き…」
 そして告げられた言葉に、思いに、もう今死んでいいと、本当に思った。
 きつく抱きしめて、顔を傾けて近づける。
 白石も意味をわかって瞳を閉じた。
 重なった唇は初めて深く白石の口内を貪って、舌を絡め取る。
 それでも白石は拒まず、きつく千歳にすがりついて伸び上がる。
 離れて、呼吸を荒くした白石の前髪にキスをして、笑うと彼も嬉しげに微笑んだ。
 もう、幸せで、幸福で。
 白石がいなかった頃なんか、思い出せない程。

 こんな日が、ずっと続けばいいと、切ないほど願った。






 その数日後、白石がいた施設を訪れた二人の高校生がいた。
「侑士、ここで間違いあらへんな?」
 従兄弟に問いかけた謙也に、侑士はああ、と頷く。
「あいつにも調べてもろた。蔵ノ介が保護された施設はここで間違いないわ」
「…やっと、見つけた…白石」
 同じ学校に通っていた、大事な親友。
 ある日、家族が惨殺されたと知った時には、もう彼は大阪にいなかった。
 事件のことに追われる警察に身柄を預けられて、すぐ難解で惨い事件故に保護された施設がどこか誰にも教えられなかった。
 見つけるまで、一年半もかかった。
 受付にいた保母に問う。
「あの、白石蔵ノ介って子、いますか?」
 保母は顔を見合わせた。
「あの、ハーフっぽい…」
「ああ、あの、ほら、大阪の一家惨殺事件の」
「ああ…あ、」
 思い当たった保母が、謙也に申し訳なさそうに声をかける。
「白石くんね。確かにここにいたけど、ごめんなさい。今はいないの」
「え…?」
「半年前に引き取ってくれる方が見つかってね、その人のところに行ったから」
「…っ、それ、誰ですか!?」
「…あなたたちは、白石くんの」
「中学の同級生で、幼馴染みです!」
「…そう。あの、ここの施設、あの大手の会社の千歳グループの傘下でね。
 それは関係ないんだけど、その千歳グループの社長のご令息さんが、引き取っていかれたの」
「……、それ、どこですか…?」





「た、橘さまっ!」
「あ?」
 朝飯を食べていた橘に、あわてた屋敷の警備員が駆け寄ってきた。
「ていうか、俺はグループのただの一社員だから、さまは…」
「そんなことよりっ、外を!」
「外?」
「それが、白石さまを出せっていう高校生が暴れてるんです!」
「…は、高校生…?」
 橘はあまりの予想外に、持っていた箸を落とした。
「社長とは別宅とはいえ…千歳グループの令息の屋敷って知った上で殴り込んでくる高校生…、なんだそれは」
「そ、それが追い返そうとしてるんですが、これがやたら強くて!
 ただものじゃないです!
 それに…白石さまのことを知ってるのも…気になって、今日は千里様がいらっしゃらないから橘様に伺った方がと…」
「…ふむ、わかった。見に行ってみるか」
 帰ってきたら料理の残り暖めて出してくれ、と言い置いて橘は立ち上がった。



「な、なんだこいつら…!」
 警備員に囲まれた屋敷の前、二人は背中あわせで拳を振るった。
「へっ…! 現役テニス部をなめんなや!」
「ほんまは御法度なんやけどな、暴力沙汰は…。
 やけど、社長令息なんちゅーやつが素直に会わせてくれるわけあらへんしな」
「当たり前やろ侑士!
 白石のことや、姿で気に入られて絶対無理矢理ひどいことされてるに決まってるわ!」
「こらこら、誰が白石にひどいことを無理矢理してるって?」
 謙也の声を遮った大人の声は、場違いに穏やかに響いた。
「橘さまっ!」
「ご苦労、あとは俺がやるから」
「で、ですが」
「俺を誰だと思ってる? あの千歳の友人だぞ?」
 言って謙也達に向き直った男に、警戒を隠さない二人を彼は笑った。
「侑士、…あいつが?」
「いや、“橘”って呼ばれてたし…それに“千歳の友人”ちゅーた」
「そうだ。俺は橘桔平。
 この屋敷の主人、千歳千里の親友だ。
 それでここに住んでる。
 で、君たちは白石の友人かなにかかい?」
「同級生で幼馴染みや!」
「それで会いに来たのか…」
 確か事件性から施設の場所も知人にも内緒にされてたと聞いた。
 それでこんなに時間がかかったのか、と橘は思う。
「俺としても、白石の幼馴染みなら、白石も喜ぶだろうから会わせてやりたいのはやまやまだ。
 だがここの主人と、白石の引き取り主は千歳でね。
 俺が許可はどうこうできない。
 明日また来てくれないか? 千歳は今日は帰ってこないんだ」
「誰がそんなん聞くか! 端から会わせてくれるつもりあらへんくせに!」
「…いやいや」

 こいつら、千歳をどんだけ歪んだイメージで見てるんだ…?
 と苦笑混じりに思った時だ。
「蔵の幼馴染み?」
 響いた声は、今日は帰ってこないはずの人間のもの。
「え、千歳…!? お前今日は…」
「や、蔵が心配で…仕事切り上げてきた」
「…お前は」
「…で、蔵の幼馴染みと?」
「そうだ。会わせて欲しいが、絶対“白石を無理矢理引き取ってひどいことをしてるような社長の息子が会わせてくれるわけがない”と暴れてる」
「…俺、そげんイメージ…?」
「らしいぞ…」
「…お前が、“千歳”?」
「そうたい。ばってん、蔵にひどかこつはしとらんよ。
 無理矢理引き取ってもなか」
「そんなこと誰が…!」
「で、会いたかやろ? ついてくったい」
「…え?」
「会わせちゃるから。そん目でひどかこつされとーか確かめればよか」
「…いいのか? 千歳」
「…」
 橘に問われて、千歳は少し自嘲した。
「そら、会わせて自分以外が蔵を喜ばせんは嫌ばってん…蔵が喜ぶ方が大事やけん」
「…そうか」
「ほら、ついてこんね。殴り込む度胸があるんなら、入るのが怖かなんていわんやろ」
「……」
 謙也と侑士は、あっさりとしすぎる許可に、警戒したまま顔を見合わせた。




 大きな玄関をくぐって、千歳の背中を見遣る。
 思ったより、どこか人の良さそうな人間ではある。
 だが、人は外見によらない。
 白石に無体をしてない保証はどこにも―――――――――――――そう謙也が思った時だ。
 廊下の向こうから足音が響いてきた。
 顔を覗かせた白金の髪は、あの幼馴染みで。
「…白石っ!」
 ぬいぐるみを抱えた彼は、ぱっと顔を輝かせると、靴を脱いであがった千歳の胸に抱きついた。
「ちぃっ!」
「…え」
「ちぃ…おかえり!」
「ただいま、蔵。やっぱり蔵が心配だけん、帰ってきたと。
 寂しか思いばさせてごめんな」
「…っ、…ちぃ」
 ううん、と首を振った白石が嬉しげに千歳にしがみついた。
 幼い言葉と仕草。けれど間違いなくあの白石で。
 けれど、彼の表情も仕草も、千歳に対する好意で一杯で、“無理矢理ひどいことを”という言葉が連想されることをされているとは思えなかった。





彼がいることが幸福で。

彼がいなかったころが思い出せない。

ただ、幸福だった。









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