戦争

ACT:2[KISS AND CRY-巨大獣−第一次形態-]

 千歳に身をゆだねた翌日、彼が寝ている早朝のうちに着替えて、白石はシャツでその所有印を覆い隠した。
 袖を通したシャツがこすれて、少しだけ音を立てる。
 二段の寝台。千歳にはきついだろう上の段を見上げて、すぐ逸らすと首にいつもかけていたネックレスを通す。その先にかかっている指輪に触れた瞬間、胸の奥が杭で穿たれたように痛んだ。



 この時間、部室には自分以外いない。
 いや、正確には、自分と彼以外。
 白石が開けた扉の向こうには、予想通り、副部長の姿。
 白石に気付いてこちらを見遣り、早いな、と笑う小石川の顔を見た瞬間、糸が切れたように冷たかった胸が熱くなって、瞳に涙が溢れた。
「…白石?」
 最初いぶかしんだ小石川は、すぐ顔色を変えて近寄り、その細い肩を抱いた。
「どないした? 千歳と、なにかあったか?」
 知っている。その優しい声。
 彼は、優しい。いつだって。
 それに甘えるのは、自分の醜さだ。
「……健二郎」
「白石…。どないした?」
 頼るべきではない。その、自分をただ真っ直ぐに慈しんで見下ろす、その瞳に。
 自分は国の将軍だ。だから、そうする義務がある。責任が。
 そして彼は国の副将軍で、自分を補佐する。
 けれど頼っていいのは、戦の時だけだ。
 だって、小石川に頼りたいのは――――――――――否、縋ってしまいたいのは、将軍としてじゃない。
 ただ、目の前の男に、たった一人の人間として縋って甘えたいだけ。
 自分から、裏切ったのに。
 なんて、愚かなんだ。
「………けんじろ…」
「……、…蔵ノ介?」
 二人きりの時の、その呼び名に胸がただ詰まった。苦しさと、愛しさで。
 その自分よりは大きな手が、そっと白石の首筋を撫でた。そして、シャツの隙間から下をなぞる。
「…千歳か?」
 急に低くなった小石川の声。その敵を射るような視線に、一瞬、意味が分からず、何故わかるのだろうと不思議に思った。
 小石川は更に、手で白石のシャツのボタンを一つ外し、先ほどより大きくはだけたシャツの隙間から覗く肌を、そっと撫でた。
「…千歳か」
 今度は、問いかけではない。断定だ。やっと、そこに千歳の残した所有印があり、それを問うているのだと気付く。すぐ頭が真っ白になって、酷く悲しくなった。
 どうしようもなく言い訳したくなって、謝りたくなって、無様にも涙が溢れて止まらない。
「…あいつっ!」
 それを千歳が無理矢理、と捉えた小石川の喉から、呻るような声が漏れて、白石はハッとして自分の首筋をなぞったままの彼の手に、自分の手を添えた。
「ちがう」
 首を振って、涙を拭うと否定した。嘘はいい、と言い募る小石川に、もう一度、違うと重ねた。
「………ほな、…だれ」
「千歳やけど、ちがう」
「…どういう意味や」
「……千歳が無理強いしたんやない。…俺が、誘ったから」
 白石の唇がそう告げた瞬間、小石川は反応すら出来ずに固まった。
 すぐ、嘘だと言いたげに白石を見る。
 首を振って本当だと何度も言うと、やっと身を襲った激情に、小石川は白石の肩を掴んでロッカーに押しつけた。がしゃん、と音が鳴って打ち付けた後頭部が痛んだが、白石は構わなかった。ただ、歯をかみしめて自分を見下ろす小石川を見上げる。
「…なんでや」
「……千歳を、懐柔すべきやったから」
「………………」
 一言、白石が答えた言葉を聞いて、彼は長いと思える沈黙を落とすと、やがて肩を押さえる痛みすら感じる手を放して、すぐ白石を引き寄せ、抱きしめた。
 その腕は優しく、背中を撫でて、後ろ髪を柔らかく辿った。
「…健二郎?」
 何故、優しく身体を撫でられるのかわからず、腕の中で当惑する白石を抱いたまま、彼がわかったから、と言った。それも、優しい。
「…渡邊先生やろ。お前にそうせえって言うた」
「……、うん」
 お見通しだった。いや、彼にはわかってしまう。いくら自己満足に、小石川を傷付けないように嘘を吐いても、彼だけは見抜くのだ。
 それは、お前を好きだからだと教えられて、とても嬉しかった。
「…国のためや。他に、方法はない。千歳が、俺をそう見とるなら余計。
 …そう覚悟したんに…、今朝、起きてすぐ…お前に…健二郎に抱きしめられたくて…謝りたくて…どうしようもなくなって…」
 涙声で綴る白石の背中を、何度も小石川が撫でて、額にキスを落としてくれる。
「…わかった。もう、ええ」
「…けん…」
「…よく、あらへんけど…、…………許すから」
「……、」
「……もう、…楽んなってええ。俺は、…お前を守るし、許す」
「…健二郎」
「……な」
 優しく名を呼んで、白石の涙を拭った小石川が頬を撫で、顔を上げさせる。
 その視界で、柔らかく、白石を安心させるように微笑んだ。
「…嫌いになったらへん。
 …好きやで。蔵」
「……っ…れも…好き」
「…うん」
 そのまま、何度も背中を撫でて、キスを落とし、誰かの足音が近づくまでずっと、白石を抱きしめていた。
 その首にかかった自分の贈り物にキスをして、彼の指に「今日だけ」と嵌めてやると、白石は心の底から安堵したように、やっと笑ってくれた。





 部室の前を後にし、校舎からも離れようとした背中に声がかかった。
 千歳を、呼びながら、笑いを含む。
「……あんた」
 ぎろりと睨み付ける視線にも、巨躯にも脅えず渡邊は笑った。
「若様は、ことこういうことに関しては未熟やな。
 …計略を敵と味方にバラしておしまいになるなんて、まだ子供やわ」
「…あんたが、仕組んだとね?」
「…」
「白石を俺と同室にしたん、あんたばい。
 あんたが白石に言うたとか!? 俺を誘惑しろって!?」
「その通り、言うたら―――――――――――――どないする坊主」
 後半から声はドスを効かせたように低くなり、渡邊が吐き捨てた煙草の吸い殻が足下に転がる。
「先にうちの『王』を誘惑したん…誰や?
 逆のことされたから?それで怒るん筋違わん?
 …そういうん、自己中言うんやで?」
「俺は策なんかじゃなか! 俺は」
 本気で白石を―――――――――――――。
 そういう前に背後で靴音が高く鳴った。
 振り返ると、千歳を睨み付ける長身。小石川と、その背後に白石。
「盗み聞きが趣味か? 九州兵」
「……そがん、つもりはなかったばい」
「先生」
 千歳の反論を無視して、小石川は渡邊を見遣って強い口調を向ける。
「こっから先は、全部俺ら現役に任せてください。
 今後、白石にこんな真似はさせへんよう頼みますわ」
「……嫉妬とは、若いなぁ青少年」
「茶化さんでください」
「…若いわ。茶化してへん。刹那の恋をとって、未来を見ぃひんてか?」
「……どない意味や」
「九州将軍は落とすべきやったんや。少なくとも、…そいつが隙見て、白石を殺す危険は減る」
 小石川がぐっと声を詰まらせた。
 千歳の危険性は、まだ誰も否定できない。
 千歳は黙ったままだ。
「作戦ポシャった以上、お前が命かけて若様守れ。
 …例え夜の国から消えても―――――――――――――お前の主は守り抜け。ええな」
「当たり前や。誰に頼まれんでも、守ります」
 やっと満足そうに笑って、渡邊がその場を去った。彼の靴音が響かなくなる頃、黙っていた千歳が不意に口を開いた。
「…よかご身分ばいね」
「…?」
 眉をひそめた小石川に構わず、千歳はその背中の白石を見つめた。
「人の気持ちば遊んで、恋人裏切ったこつ、許されて守られて…ほんなこつ『お姫様』ばい」
「…っ…」
 なにも言えず、俯く白石を背後に庇って小石川が「偉そうや」と千歳を責める。
「自分も、同じ真似しておいて、なに被害者ぶっとんねん?
 これは戦争や。お前は敵や。俺達が殺すべき敵や」
 小石川の手が、光の空気をまとって一瞬輝いた。
 今は武器はない。だが、手に霊力をまとわせるだけでも、鎧をまとわない身体ならば殺められる。
「こっちの非道を責めるなら、まず自分の非道を悔やめ」
「…っ」
 違う。俺は、本気だった。本気で、白石を。
 そう言いたかった。けれど、きっと言葉にしても意味を持たない。
 小石川に、他のだれかに、届かない。白石に、届かない。
 わかるから言葉にしなかった。
 用はないと足を返す小石川に連れていかれる白石は、一度も千歳を振り返ることはなかった。





 最初は、写真で。
 橘に見せられた。
 国のために騙せ、と言われた。
 殺せとも、言われた。
 そのつもりだったから、否定なんか出来ない。
 でも、直に出会って、名を呼ばれて、名を呼んで、その声を聞いてしまった。
 その声が自分を呼ぶ、響きを知ってしまった。
 その顔が笑う、色を知ってしまった。
 その顔が自分を見て笑う奇跡が見たいと、願ってしまった。
 守りたいと、望んでしまった。

 殺せるわけない―――――――――――――。



 空は月が照らす夜の国。
 緑の包む戦場はまだ敵が見えず、静かだ。
 夜の国に鎧はない。皆や自分がまとうのは普通の布しかない衣服。
 けれど、鎧はある。
 霊力が、見えない鎧だ。
 そして、武器は愛用したラケットの姿が変わったもの。
 千歳と白石は違う。
 国の将軍の鎧と武器は、国の神――――――――――国神そのもの。
 四十七の国全てに一体存在し、将軍のみが心を通わすことの出来る、神の獣。
 それが国神。

「…」
 戦場の一番前に立つ姿に目を留めて、「姫さん」と呼んだ。
 振り返ってくれ。
 もう、あんな風に「お姫様」なんて呼ばないから。
 けれど、白石は黙ったまま、千歳を振り返らない。
 空を雲が覆ったと思った瞬間、天候が一変した。
 嵐だ。夜の国に天候はないのに。
「しもた…敵将軍の力や!」
 誰かが叫んだ時には、木々の合間から飛び出して武器を構える敵兵士に囲まれていた。
「霧の幻か…やるな」
 白石がそう呟き、二本の剣を鞘から引き抜く。
「小春、ユウジ。大坂の陣地におる味方兵士先導頼む。
 謙也、財前。包囲網突破よろしゅう」
「「「「了解!」」」」
 大坂軍の本体は大坂の陣地にある。
 今は敵国を深みに追いつめた先行部隊のみだ。
「俺は将軍抹殺の他は考えん。
 …頼むで」
「ああ」
 振り返った白石に、小石川が微笑んで白石の前方を指さした。
「気にせず行け。白石。お前はなにも危ぶむな」
 雨粒が頬を叩く中で、その姿だけが鮮明に映る、まるで白黒写真の中で彼だけが色があるように。
「お前は振り向くな。俺がいる」
「……ん」
 守ってやるから―――――――――――――そうこめられた瞳に、微笑み返し、白石は小石川に背中を向けた。
「全員、行くで!」
 号令に、全員が応と答える。
 瞬間、その場の静けさが消えた。




 謙也が弓を三つ構え、放つ。全て命中し、三人の兵士が倒れた。
 謙也の弓が狙わない場所の兵士は、全て財前の刀が切り裂いている。
 大坂軍の四人の将軍のうち、陣地に残っているのは中将の石田のみ。
 他は全てこの場にいるだけあり、大坂優勢に進んだ。
 遠くで、赤い光が天を裂いた。
 敵将軍の落命を示す合図だ。
「よし! あとは敵陣地を制圧するだけや!
 謙也!」
「わかっとる!」
 陣地制圧は将軍四人揃わなければ不可能だ。石田は直来るだろう。その前に自分たちが着いていなければ。
「……、おい!」
 先を行っていた白石が、不意に敵陣地と違う方向に足を向けた。
「おい、白石!?」
「いや、あっちに…敵を深追いしたヤツが」
 その一瞬だ。一瞬、白石が味方とほんの少し離れた一瞬。
 瞬間、彼の姿はその場の全員の視界から消えていた。
「しら…」
「……え、なに」
「……待つばい? ここの将軍の能力…」
 千歳がハッとして、構えていた槍を空に向けた。
「千歳!?」
「話す暇なか! 俺が連れ戻す!」
「ってどうやって…」
「来い!」
 千歳が空に向けた槍と、身を包む光が刹那、その場に収束する。
「…鹿獅子!」
 そしてその場に角をもたげたのは、獅子の身体を持つ鹿の獣。
 文献で見たことがある。確か、九州の国神、鹿獅子。
 千歳はその背中を撫でると、その背中に飛び乗った。すぐ、駆け出した九州の神はその場から見えなくなる。
「…正気か。あいつ」
 誰かが呟いた。
 将軍の、武器と鎧は国の神。
 国神を呼び出すことは可能だ。だが、それは鎧と武器をなくし、夜の国で丸腰になることを意味する。
 死にたくないなら、まずしない行為。
「……あいつ、なんで」
「……」
 小石川の脳裏に、一瞬過ぎった記憶と、一抹の真実。

 あいつは、まさか、本当に白石が好きで―――――――――――――…?





「…そう、遠くには行ってへんな」
 味方から離れた場所でそう白石は分析した。
 そう離れていない証拠は、自分の「スイッチ」が入らないから。
 おそらく、敵将軍の力が天候操作の他にもう一個あった。
 自分を殺めた敵将軍を、あらかじめ決めた場所に転送する罠。
「…一矢報いよう、っちゅうんは将軍として立派な話やけど」
 次々待っていたように斬りかかってくる敵は、本当に困る。
 これなら「スイッチ」が入った方がやりやすい。幸い味方はいないし。
 しかし、そうなっては困るからそう離れていない場所に移動させたのだろうし。
 それにしても此処は足場が悪い。うまく体勢が保てない。
 敵が構えた武器ごと切り裂こうと振り下ろした剣が、受け止められた。
 舌打ちして離れようと後退った瞬間、その足に弓が刺さる。痛みに足下が傾いだ。
「っ」
 視界を覆った刀は、しかし白石を切り裂くことはなく。
 白石の身体は浮いていた。違う。自分を抱く身体が浮いているのだ。
 空を駆けていると錯覚するように、高く跳ぶ獣は、伝え訊いた遠く九州の守護神。
 それにまたがる巨躯が自分を抱きかかえている。
「…ち」
「大丈夫ばいね?」
「…とせ」
 抱きかかえられて、至近距離で囁かれた。その千歳の顔はひどく安堵していた。
「じゃ、急いで陣地まで戻るばい。しっかり捕まっときなっせ」
 ぎゅ、と更に強く肩を抱かれ、千歳の肩口に顔を押しつけられる。
 視界が疾走して、獣がもの凄い速さで移動しているのだと理解する。
 だからって。
 将軍が国神を呼び出すことが、どれほど危険か、わからない男じゃない筈だ。
 なのに、どうしてそんな馬鹿を。

『姫さん。あんたは、俺が守る』

 本当に?
 本当に、守った。
 本当に、助けに来てくれた。
 本当に、来てくれた。



 味方が迎える場所に降りたった獣から飛び降りて、千歳は白石を地面に降ろした。
「怪我はなかと?」
「……少し。大丈夫」
「よかった」
 何故、笑うのだろう。
「……千歳?」
「ん? なに、姫さん?」
「………」
 変わらない、呼び名。
 前と、同じ。
 俺が、謀る前と。
「白石、手当!」
 ぐい、と肩を謙也に抱き込まれ、小石川のところに連れて行かれる。
 なにか言う寸前で遮られた『二人の世界』に、千歳は仕方なさそうに苦笑した。
 小石川が心底安堵した顔で迎えると、白石は微笑み、すぐ瞳を揺らした。
「…どないした? なんか…」
「…あいつ、アホちゃうの…。国の将軍が…国がもうない敗残兵士やあるまいし…。
 敵の将軍守るために…自分の鎧も武器も……」
「……」
 小石川の手が、優しく白石の猫のような髪を撫でた。
 考えなくていい、と。
「……ごめんな」
「な、んで健二郎が謝るん?」
 慌てて顔を上げると、そこには悔やむ顔をした恋人。
「…お前に、偉そうに言っておいて…守れたんは俺やなかった」
「……」
 泣きそうになって首を左右に振った白石を抱き込み、小石川は背中を撫でる。

 あの瞬間、背筋を襲った後悔と、あまりに深い焦燥。
 白石を失ったら、という恐怖。
 千歳を信用がおけないと非難して、けれどあの瞬間、浅ましく千歳に願った。

“頼む。白石を助けてくれ。頼む。千歳”

「…非道は、誰やろうな」
「…?」
「なんでもない」
 そう、答えて。

 でも、今度は守る。
 今度こそ、お前は前を見ていてくれ。
 今度こそ、お前は振り向くな。
 もう、なにも悲劇は見せはしない。







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