![]() 桜ノ宮戦争 ACT:5[降伏の儀式] 結局、東京軍に動きはなく、小石川達は翌日の朝の二時に寮に戻ってきた。 迎えた財前が、なにか言いたげに白石の部屋に招くから、胸を嫌な鼓動が急かした。 そこには、ただ寝台で静かに眠る白石と、傍らに千歳の姿。 「…」 「白石なら、無事とよ?」 見れば、わかる。なのに、そう言えなかった。 とても静かに、穏やかに微笑む千歳を見るのは初めてだった。 そして、今の彼は、なにか今までと違っている。わからない。 廊下で靴音が響いて、すぐ渡邊が入ってきた。中にいる千歳を見て、早口に「マジか」と呟いた。 「先生?」 「千歳。…ホンマか」 千歳が渡邊の問いに、はぐらかすような笑みを浮かべる。 「情報は大人の役目や。今、国から回ってきた」 「ああ、早かね」 「…マジか、千歳。…お前」 「あんたが言うなら……九州が言うなら、ほんなこつ」 小石川達には意味が分からない。ただ、穏やかに微笑む千歳とあからさまに困惑した顔の渡邊を交互に見遣る。 「…千歳は?」 「…こいつは、もう九州将軍やないんや。小石川」 「え?」と掠れた声で返した小石川や謙也に、渡邊は「九州国から回ってきた確かな情報や」と重ねた。 「千歳千里は昨晩、十一時五十二分を持って九州将軍と九州を捨てた裏切りものと認証。 九州と将軍の座を捨てた裏切り者として、九州の敵とする―――――――っちゅうんが、九州の言葉や」 「………は?」 思わず、そうとしか小石川は言えなかった。謙也も、石田たちも。 財前だけ多少聞き知ったのか、言葉を挟まない。 「こいつは、九州国神を国神の座から引きずり降ろした…らしい。 今の九州国神は、八咫烏。鹿獅子は今、大坂将軍の…鎧らしい」 なにか言いたくて、でも言えない小石川たちに千歳は微笑んだまま「他に方法がなかった」と言う。 「東京は本気で、白石ば殺そうとした。一国の国神の鎧じゃ勝てん呪い。 …なら、もう一国の鎧ばあれば…。そんためには、九州ば捨てる他なかった。 他の、方法ば俺はしらん」 やっと金縛りから解放されたように、小石川が大股で近寄って千歳の胸ぐらを掴んだ。 「なんでや! なんでそない真似した!」 「…勝手な方法ば使ったばってん、怒られる義理はなかね」 「そやない! それは…お前のやったことは…俺らには……最大の孝行や。 …これ以上、望める願いも見返りもない。 せやけど、」 なんでや。そう言って小石川が手を解いた。 「俺らは、お前にそうしてもらえることしとらん。何一つ。 …せやのに、なんで…助けてくれた……」 「あんた、馬鹿なこと聞くばい」 なんと言ったらいいかすらわからない小石川に、彼はふっと笑う。 「恋が叶わなくても、なにも与えられなくてもかまわん。 ただ、傍にいて、守りたい。生きてて欲しい。 そう、愛した人間に願って、なにがおかしか? それが、…恋ってやつじゃなかね」 そう告げられて、微笑まれて、言えることなどなかった。 ただ緩く首を振り、小石川は一言返した。「ありがとう」と。 白石が目覚めた時、視界には安心した顔の恋人。それでいて、彼はひどく不安定に微笑む。 「…健二郎? あれ、おれ…」 いつの間に眠っていたのだろう。そう考える白石を、小石川はきつく抱きしめた。 「…白石」 「…健二郎?」 「…ごめん。…よかった。無事で」 「……け……」 何故、そんなに悲しそうに言うのだろう。心から安心した笑顔で、声で。 「…よかった。お前が、生きていてくれた。…他に、願うもんはない……のに」 「健二郎?」 出陣する前、殴ってしまった頬を撫でて小石川は俯いた。その唇にやはり、刻まれたままの優しい、安堵の笑み。 「……俺は……」 「……」 なにを言ったらいいのか、わからない。何故、彼はそんなに悲しそうに、嬉しそうに、笑うのだろう。 その理由すら、彼の話した事情で理解する。 だから、理解したくなかった。 「千歳っ」 廊下で呼び止める声は、あのテノールだ。 まだ怪我は酷い。動けないのにここまで自分を捜して来た姿に、千歳は苦笑すら零れた。きっと聞いたのだ。自分がなにをしたのか。 なにを言いに来た。感謝? いや、多分、小石川と同じ、問いつめ。 「なんで…九州、捨てる真似した」 「お前がそれ聞くとや? 俺は何回も言うた。昨日も」 「…なんで、なんで…お前はもう、いつ死んでもおかしない。九州の人間全てに狙われる。…国神はもうお前の鎧やないんや!」 知っている。国神を自分は失った。 国神が今まで己の鎧であり、武器だった。 それがなくなる。今、自分の身を守るべき力はただの霊力。武器は、ない。 夜の国で戦うには、あまりに不足した、力。 「……なんでや」 その場に座り込んだ白石の身体に、それでも堪らなくいとおしさを感じた。近寄って、ただ一杯に戸惑いと、それに勝る嘆きを浮かべる顔を撫でた。 「答えなら、もう俺は、何回も、言っとう。何回も、お前に、…言った」 「…………」 「信じてくれるなら、俺は、何回だって繰り返す。……お前に、届くなら、ずっと、何度でも」 『政略の愛なんて、嘘でも優しく触れられるもの』 頭の中の渡邊の声。「違う」と声に出すことなく否定した。 今、目の前にいるのは、九州将軍じゃない。 ただの、一人の、人。 政略なんか、ない。 「……る」 掠れた声が、やっとそう世界に出た。 受け入れるわけじゃない。けれど、何度も彼の本心を裏切ってきた。「政略」だと偽ってきた。彼の言葉を、信じなかった。 だから、なにか一つでも返せるのなら、 「信じる………」 千歳の手が、ふわりと白石の髪を撫でる。 「信じる…今度は…もう…政略にせん。…お前が言うなら、…信じる」 その声が出た唇を指で辿り、千歳は柔らかく、ひどく綺麗に微笑んだ。嬉しそうに。 「……お前を、好いとうよ…白石」 やっと、胸まで届いた言葉。 やっと、信じることの出来た気持ち。 彼への気持ちが変わるわけじゃない。 でも、なにか一つ返せるのなら、信じることが一つの道。 「……白石?」 彼が、初めてのように呼ぶ、名前。 「……聞こえてる」 「…うん」 「…聞いてる。…千歳」 「……うん」 千歳はそう言って、やはり綺麗に笑ってくれた。 →NEXT |