それは、千歳が部に馴染んで(主に白石の努力あってだったが)一ヶ月経った日だった。 「あ、すまん。セ…白石」 「…最初から言い間違えんなや…なんや?」 部室で部誌を片手に見上げた白石に、千歳は悪戯が見つかった子供のように笑った。 「俺、明日から二日部と学校休むばい」 「…え?」 落とされた言葉に、白石は呆けてそう零した。 「いや、親が…一回戻って来いてうるさか…。大会始まるとそげん暇なかから…」 今のうちに一旦顔出してくる、と千歳が言った。 千歳自身、白石にはよく思われていないと重々承知だ。 てっきり、清々したとあっさり送り出されると思った。 「…そう、なん…?」 だからだ。彼が、ひどく寂しそうに見上げて、そう言ったことに驚いたのは。 「…え」 「明日と明後日、来れんのか…」 「あ、うん…。え、白石、…それが、嫌と?」 「…え?」 自覚がないのか、そう逆に言われる。 「いや、白石…」 顔が、と言おうとして謙也に遮られた。 「あー、白石、残念なんや。明日千歳がおらんのが」 「謙也!」 「ええやん」 「どげん意味?」 「ああ、明日レギュラー同士の練習試合予定なん。 そんで、白石、対戦相手お前やから。 ほら、白石いっちゃん強いから、お前くらいしかまともな相手にならんやんか。 やから、お前が“試合する日におらんのが残念”」 謙也は間違ってもお前自身がおらんのが嫌とか言ってない、と強調したが、千歳の耳にはあまり入っていない。 白石に、テニスの面だけででも、必要、と思われていた。 それだけでも今の千歳には嬉しすぎる話。 「…別に、いつやって試合出来るし」 拗ねたように零した白石は椅子から立ち上がると、それでも高い千歳を見上げて笑った。 「…うん、いつやって出来るもんな。いつやって会えるんやし。 やから、気にせんと行ってきぃ。待ってるし」 それでも、どこか、寂しげに微笑む顔。 “セシアは待っています” 彼女の声が蘇る。 待っていると、信じていると告げた彼女を置き去りにして、微笑んだ彼女を置いていなくなって、そして自分は二度と会えなくなった。 彼女を、永遠に独りにした。 微笑む白石の声も、顔すらそれに重なって、思わずきつく抱きしめた。 「…え、ちょ…!」 「…行かん」 「…は?」 「行かん…行けるわけなか」 「…千歳…? なに、言うて…」 「…お前も一緒やなか…行けるわけなか…。 二度と、お前を独りで置いてけるわけなか…! 二度と独りにせんて、離さなかって誓ったと!」 抱きしめられて、拒絶しようとした。 けれど、抱きしめる巨躯が震えて泣いているのに気付いて、出来なくなった。 正直、そんな前世とか、信じてない。 記憶なんかない。 嘘かもしれない。 けれど、 “…… ます” ―――――――――――――「自分は本当は、あの時なんて言いたかった?」 “待って…す” ―――――――――――――「そんな言葉じゃなかった。本当に、あの時あなたに言いたかったことは」 「…なら、一緒に連れてって…」 ぽつり、と零れた言葉。 白石自身、すぐ我に返って全力で身を離した。 「い! いやいやいや! 今のなし!」 「…白石?」 茫然と謙也が見上げてくる以上に、言葉を失っているのは千歳で。 「なし! 気のせい! 幻聴やあんなん!」 「…っ」 必死に弁明する白石をもう一度抱きしめて、千歳は泣きそうな笑みで強く言った。 「なら、一緒に行くたい…絶対離さんと…!」 「い、いや…! やから…!」 否定したいが、今のは紛れもない自分の言葉なのだ。 言った経路が全く理解出来なくても。 取り返しがつかない、というのはこういうことだ、と冷静な隅の思考で思う。 「あ、部活! 部活あるから無理や! 俺部長やもん!」 そう言った時だ。扉を開けながら聞き慣れた濁声が。 「おーい、明日と明後日部活休みな。連絡回しといて………。 また襲われてんのか? 白石」 「…オサムちゃん、なんちゅーバッドタイミング…」 そう告げた。謙也の言うとおりだ。 部活もない。おまけに自分の言った言葉を撤回出来るほど、白石は器用ではない。 「………」 千歳の腕の中で、途方に暮れて溜息を吐いた。 「…意外とでかい家やんな…」 結局、一緒に九州に来てしまった白石は、千歳の表札のある家の前。 そう零した。 「白石ん家の方がでかくなかね?」 「来たことないんに勝手なこと言うな」 「とにかく、家族には白石んことば言ってあるたい。気使わんでよかよ」 「そういう問題でもないわ…」 千歳の自室まで案内されて、全く片づいてない部屋に苦笑が漏れた。 息子が出て行った後も、家族は部屋をそのままにしているらしい。 「千里」 扉がノックされた。千歳の母親のものだ。 開けた千歳がなにか受け取っている。 飲み物らしい。お礼を言うと、いいえと優しい声が返って扉は閉まった。 「ほら、喉乾いたとやろ?」 「ああ…」 物珍しそうに部屋を見ながら受け取ったカップの中身を一口飲むまで把握してなかったのがまずかった。 一口飲み干した直後に襲った強い吐き気に、口を押さえて、持っていたカップが落ちて中身が零れていく。 「白石!?」 「…ご…め…洗面…じょ…」 「こっちと!」 手を引かれながら、我ながらきっと青い顔だ、と思った。 落ち着くまで吐いて洗面所から出てきた白石を廊下で迎えた千歳は、大丈夫と?と伺った。 顔色はもう全く問題ない。 「ああ、すまん…。ただの…えー…なんやろ、とにかく、アレルギーみたいなもんやねん」 「…珈琲が? カフェインがあかんと?」 「いや…一応、検査は一通り受けたんやけど…。全くそんなアレルギー反応もなんもないらしいんやけどな。 なんでか昔っから、一度も飲めたことないんや。 珈琲っちゅーか、珈琲牛乳とか、カフェオレとかもあかん。 珈琲ってつくもの全部、吐いてまう」 なんでやろ、と呟いた身体を、本当は抱きしめたかった。 それは、 それは、あの日、毒を盛られた飲み物が珈琲だったからだ。 記憶なんてない。欠片も覚えていないのに。 彼は、前世の死の恐怖を、身体全身と、魂全てで記憶して、怯えているんだ。 一口すら、受け入れられない程に。 「…千歳?」 「…なんでん、なか」 抱きしめたかった。 だけど、彼女をそうしたのは、白石をそうしたのは自分だ。 抱きしめるなんて、自分だけが愛しいだけのことを、出来ない。 「…四天宝寺のみんなは、しっとーと?」 「ああ、みんな知っとる。やから、俺が一緒に行くとみんな遠慮して珈琲誰も頼まんわ。 財前あたりに悪いんやけどな…」 「ああ、光は好きそうたい…珈琲」 「うん、好きらしい」 やから、悪い。と笑う。 彼に、思い出して欲しいと願い続けていた。 けれど、それは本当にいいこと? 死の恐怖を、もう一度味わせることが、本当にいいこと? あの時だってそうだ。 “一緒に連れてって” あの日、セシアは本当はそう言いたかったんだ。 だから、白石はあんなことを言ったんだ。覚えてないのに。 そう気付いて、泣きたくなった。 あの日、セシアは身を切るような孤独の中で死んだ。 たった独りで。 その孤独は、間違いなく、白石の中に生きている。 それが堪らなく悲しい。 なのに、それをどこかで喜んでいる自分。 「ほんなこつ卑怯もんたい…」 「え?」 「…なんでんなかよ」 「…?」 「それより、もう大丈夫と?」 「うん。全然。一回吐けば全然大丈夫やから」 「なら、付き合ってくれんね? さっきミユキからメールばあって、迎え来てくれって」 「ああ、妹さん。ええよ」 知らなくていい。 こんな醜い、胸中までは。 純粋に愛したいのに。 どこかで、暗い執着が邪魔をする。 「コートってどこ?」 「もうすぐたい。もうすぐんとこで」 歩き馴れた道を歩いていると、不意に横手から声がかかった。 「あ! 千歳や!」 「ほんなこつに!? 千歳たい! 多少真面目っぽくなっとうが!」 三人組の男子生徒が走ってきて、いつ帰ってきたと!と叫んだ。 「あ、…みんな。いや、今日。で、明日には帰ったい」 「なんね。もう帰るんか」 「…千歳、獅子楽の?」 「うん、獅子楽ん時のクラスメイトたい。テニス部の仲間ではなかよ」 白石に簡単に紹介して、白石も簡単に挨拶をした。 「てか、…“多少真面目っぽく”って向こうのお前、どんだけ不良やったん」 「聞かんで欲しか…」 「あー、そりゃあ、生活指導室常連。サボリ魔。脱色。ピアス。女癖。 いろいろやっとうたよなぁ? 橘と一緒に」 「余計なこと言わんでよか!」 ぎゃあぎゃあと言い合う千歳を見遣って白石は小さく笑った。 なんだ、そうしてると年相応じゃないか。 「なあ」 そう思っていると、不意に言い合いに加わっていなかった一人が声をかけてきた。 「へ?」 「白石? お前、千歳のコレ?」 「……んなわけ…っ!」 「あ、だろな。すまん。ただ、あいつの目? お前見る時、たいが愛しいって、言っとうけんそう見えた。 …気付いてなか?」 「……全然」 「そっか」 ―――――――――――――愛しい? そんな風に見られていたなんて、…気付くわけ、ない。 「…お前、誰にも前世の話ってしてなかったんやな」 あの後、ミユキを迎えに行って、帰ってきて、千歳の自室で白石が不意に言った。 「ああ、馬鹿にされんのわかっとうし」 「…うちでは言うてる」 「そら、お前がいたけん」 「……」 「けど、桔平には話しとったと。桔平は前世になんば関わりなかけど、親友やったし」 「…そっか」 「…白石?」 ずっと、考えている。 「…なぁ、お前」 「ん?」 「俺んこと、抱きたいんか?」 真顔で見上げて問う白石に、一瞬言葉を失った。 「好きとか、前世の妻とか言うけど、つまり…そうやろ…? 俺んこと…ヤりたいんやないの…? ほんまに俺んこと好きなら…よけい」 なお言い募ろうとした白石の唇をそっと指で封じて、千歳は笑った。 「そげんこつ、しとうないって言ったら嘘んなるたい」 「……」 「やけん、それはせんよ。絶対」 「…なんで? 余計、無理にでもシたいんやな…」 「…シて、白石が傷つかんって言うならな。 やけん、俺が前世のお前を好いとうとか、覚えとうとかは全部俺の都合たい。 お前は今は、“セシア”やなか。ただの“白石蔵ノ介”たい。 その白石の意志無視して、…ただ昔妻やったからって抱けるわけなか。 ほんなこつに、白石んこつ、好いとうから、…抱かんとよ。 傷付けて、今の白石を、否定したくなかね」 「……千歳」 「昔のように、愛してくれるようなったら、そら、したかけど」 言葉がない。 泣きたくなって、俯いた。 それでは済まなかった。 結局零れてしまった涙に、千歳が目を瞑った。 「………、……一人に、した方がよかと?」 抱きしめたい衝動を堪えた声に頷くと、わかったと言って彼は扉の向こうに消えた。 なんで。 心底、嬉しくて、心底悲しかった。 千歳が自分を、“セシア”じゃなく“白石蔵ノ介”として見ていてくれた事実が。 …嬉しかった。 千歳が、“昔のように”と結局自分を前世ありきで見たことが。 …悲しかった。 ない交ぜになって溢れた涙を、彼はどう思ったのか。 わからない。 後から溢れる涙を拭おうと、ティッシュを探す。 勉強机にあったそれを取ろうとして、傍にあったノートが落ちてしまった。 見るつもりはなかった。ただ開いてしまったそれを閉じようとして、目が離せなくなった。 それは、記憶だ。 千歳の、昔の記憶。 “セシア”と出会って、別れるまでの―――――――――――――。 見てはいけないと思うのに、指は、動いてくれなかった。 あの後、部屋を出たまではよかった。 ただ、結局彼を目の届かない場所に一人になんか出来なくて。 部屋の前で座り込んだままでいたら、夕飯だ、と階下で呼ばれた。 白石の分は、もらってこようかと思ったが、やめる。 彼はどこまでも真面目だ。 他人の、それも初めて来る家で、夕飯を持って来てもらって一人で食べるなんてことは、礼儀がないとやりたくない生真面目な性格をしている筈だ。 仕方ないと扉を控えめに叩く。 「白石…?」 声をかけても、返事はない。 そっと扉を開けて、心臓が掴まれた気分だった。 ただ、なにもない場所を見つめてひたすらに涙を流して嘆く姿が。 今にも壊れそうに儚く、消えてしまうようで、なにも考えず駆け寄って抱きしめていた。 拒まない身体は、ただ腕の中で嘆き続ける。 その瞬間、なにかが落ちたが、もうそんなものを意識する余裕はなかった。 「…ごめん、白石」 「…え」 肩を掴んで抱き寄せ、唇を深く塞いだ。 まるで出来ない、というように抵抗をしない身体を床に押し倒して、ただ何度も謝った。 「…否定せんて言うたとに…我慢ば、…できん」 「…ち…と?」 「…白石が欲しか」 服の前開きを掴んで、無抵抗の身体の皮膚を暴いた。 理解が追いつかないのか、下肢からも布が奪われても抵抗すらしない身体にもう一度謝って、指でそっと触れた。 「…っ…ぁ!」 「…すまん…ちくっと…痛か。だけん、ナらさんと、余計痛かよ」 「…あ…や…っ…ん……」 「……ごめんな」 「…っ」 嬌声すら素直に漏れるのに、何故抵抗一つしないのか、理解は出来ないけれど。 もう、我慢なんか出来なかった。 欲望のまま、貫くと高い悲鳴があがった。 階下に響かないように、唇を塞いで何度も貫く。 「…っ…ん…ふ…」 「…白石…ヨか?」 「…っ……」 そのまま胸元に唇を移動させて、何度も箇所を変えて口付けた。 「…っや…あ……ん」 「…ほんなこつ、綺麗とね」 「…あ…っ…せ」 「ん…?」 わからない。 何故、素直に抱かれているのかも。 否定しないと約束しておいて抱く千歳も。 けれど、怖い。 謙也たちと、全然違う。 怖い。 ―――――――――――――彼が、俺を好きだなんて言うからだ。 謙也たちは絶対言わないのに。 こいつは、好きだから俺を抱くから。 そんなの、…怖い。 「…っ」 「…白石…なんで」 泣いとると、そう零された声に嗚咽になりながら睨んで言う。 泣き声に途切れて、全く毒すら籠もらなかったけれど。 「お前なんか…っ…大嫌いや…!」 「…………白石」 「…嫌…っあ」 嫌い、とまた言おうとして奥を抉られ、あがった声に遮られる。 また唇を塞がれて、真っ直ぐ見つめられて囁かれる。 「俺は…好いとうよ」 「…っ……っから」 だからだ。 「っから…、俺は…お前なんか大嫌いや…!」 「…俺は、好いとうよ…」 すぐ、また塞がれた唇はそれ以上“嫌い”なんて吐けなくて。 ただ、怖いと思う理由だけはわかっていた。 そんなの、受け入れられるわけないんだから。 好きだ、なんて。 …信じられるわけない“恐怖”を、受け入れられるわけなんか、ない。 怖いよ。 俺はお前が、怖いよ―――――――――――――千歳…。 お前が現れるまで、俺はそれなりに幸せだった。 秀でたと自負出来る外見も、恵まれた仲間も、努力したいと心から思える大好きなものにも、満たされて。 幸せだったのに。 これが運命だというなら、どうしてこんな残酷な仕打ちをするんだ。 信じてない前世なんか―――――――――――――一生、出会いたくなんてなかった。 帰路につく電車は、もう大阪の線路を走っている。 飛行機から乗り換えた電車が、地元に着くのはもうすぐだ。 「……」 あれ以降、言葉を発さない白石を思いやってか、千歳も無言のままだ。 「白石」 出かける直前、謙也が不意に言った。 「ん?」 「…お前、間違っても、千歳になんか抱かれてくんなや?」 「…謙也」 「お前は…俺たちの」 「わかっとる。死んでもヤらへんから」 言うと安堵して笑った親友を。 丸ごと裏切ってきた。 何故、抵抗出来なかったかなんて、本当は知っている。 あの紙だけの記憶にすら、涙が止まらない程、愛しくて、悲しくて堪らなかった。 ただの千歳の妄想なら、涙なんて出るわけない。 抵抗出来ないわけがない。 「…千歳」 そんなの、知ってる。 何一つ思い出せない。 けれど、 「…え?」 「…ずっと、お前の妄想や思ってきた。思い出してやるつもりなんか、永遠になかった。 大会が終わればお前なんかさっさと九州帰せばいいとか…思っとった」 「…白石?」 「…けど、…今、………阿呆なこと思っとる」 「……、なん、て?」 「…なんで、俺、覚えて生まれてこんかったんや…って」 呼吸ごと、瞬きすら止めた千歳を見られず、背いて紡ぐ。 「…嘘やって、もう思えへんのや…。ほんまに俺、お前んこと昔愛しとったんやて。 そうとしか、今思えへんねん……。 あの、紙だけの記憶すら、…思い出したくてしゃあないくらい…。 もどかしゅうて…悲しくて…。 やのに………もう、…嘘やなんて、…言えない」 伸びた大きな腕が抱きしめるのを、拒まなかった。 「…思い出さんで、白石はよかよ」 「……嘘言うな」 「嘘やなか…。白石は、白石でおればよか」 「……俺、」 揺れる、電車の音。 たたん たたん と、揺れる。 まるで、ノックのように。 空洞を叩く、手の声がする。 たたん たたん と。 すいません、と。 “ここにセシアはいませんか?”と。 声がする。 「……俺……も……お前に会いたかった……」 「何一つ覚えてへんのに……お前に会いたくて…しかたなかったんや……」 馬鹿みたいに、お前一人を昔から愛したまんまやったんや。 飲めない珈琲みたいに、忘れられんまま、お前だけ。 お前だけを、ほんまはずっと待ってた。 俺は、お前に置いていかれたなかった。 ずっとあの日のまま、お前を待ってた。 お前が帰ってきて、ただいまって抱きしめてくれる、それだけを。 そう言って、日記読んだ、と最後に謝った俺を抱きしめたまま、千歳は離してくれなかった。 表情は、わからない。 けれど、なんとなく。 彼は今、酷く泣きそうに悲しい顔をしている。 絶対、喜んでなんかいないと、思った。 →NEXT |