アルファルド

 第一話−【また病んでいく空】





 四天宝寺テニス部に千歳がやってきたのは、その年の四月だった。

「千歳、て九州のか」
「うん。よろしくな」
「こっちこそよろしゅうな」
 挨拶を済ませて、練習に加わったのは三月の下旬から。
 好ましいレギュラーに部員に、理想のような良くできた部長に感心するばかりの千歳に、この環境への不満はなかった。
「よう、出来た部長さんですね」
「ああ、白石が。あいつはほんまにな。テニスも一番やし」
「ほんなこつ、よか部長さんたい」
 笑う渡邊の声を聴きながら、それでも不意に感じたのは、なにかも不明なもやもやだった。

 四月に入って、転校生として扱われることにも馴れた。
 けれど、千歳の中。
 なんの感情かも、原因がなにかも不明なもやもやは大きくなるばかりだった。
 日に日に、大きくなっていく。
 それでも千歳自身なにかわからないのだから、放っておけばやがて消える、ただのホームシックかなにかだろう、と。
 だって、不満はなにもない。
 良い部の環境。良い部員。強いレギュラー。強い部長。
 なにに不満があるのだ。
 獅子楽と違ってこんなに恵まれた此処に。

「せやけど、今年はホンマ奇跡やな! うち」
 部室の扉を開けようとして、中から声がしたことに思わず止まってしまう。
「千歳はおるし、金ちゃんもおるし、部長は白石やし。
 今年は絶対出来るわ! 全国制覇!」
 それは、当たり前の言葉。
 中学部活をやる人間から、出て当然の言葉。
 けれど、理解してしまった。そのたった一言で。
 このもやもやの正体を。

 扉を開けて入ると、謙也が気付いて笑った。
 笑い返しながら、胸に更に強く浮かぶ感情に手を握りしめた。

 これは、苛立ちだ。

 ―――――――――嫉妬に似た、苛立ちだ。

 テニスをやっている人間として、テニスをする全てに恵まれた彼ら四天宝寺テニス部全員への、妬みに似た苛立ちだ。

 獅子楽と、違いすぎる。

 あそこは、廃れきっていた。

 二人突出した自分と橘に卑屈になるばかりの同輩に先輩。
 持ちたかった仲間意識も結束もなにも持てなかった。
 目指しているとは名ばかりの全国。
 唯一持てた橘とは離れてしまった。
 そして橘が、再びテニスを始めるかもわからない。

 此処は、どうだ。

 全員が持つ高い志。
 高い能力。卑屈な部員なんていやしない。
 そして強いレギュラーに、その彼らより強い、最高の理想の部長。

 あまりに、恵まれた部活。

 全員が足並みを揃えて全国を目指す、理想の部活だ。

 これは嫉妬だ。

 あまりに違う、あまりに恵まれた彼ら四天宝寺テニス部全員への、苛立ちという嫉妬だ。

 自分だってもうその一員だと知っている。
 こんな感情がどれほど子供じみているかも、知っていた。

 けれど、堪えられない。

 理由はわかっていた。


 俺の世界は、今、あまりに傾きすぎていた。


 見えない瞳に、全く絶望しない人間なんているのか。

 その原因を全く憎まない人間がいるのか。

 けれど、橘は親友だ。
 今でも、今でも。
 だから憎みたくない。
 それでも憎む気持ちも、見えない目も。

 確実に千歳の心を歪めていた。

 理不尽だと、あまりに子供じみているとわかる苛立ちを、嫉妬を。

 堪えるには、千歳は疲れ切っていた。



 それでも、なにも知らない、罪もない部員にぶつけられる筈はなかった。

 ある日、心底嫌になって保健室で休むと言った千歳を心配した謙也に笑った。
「ありがと。謙也。大丈夫たい」
「そうか? ゆっくり休んでこいや」
「うん」
「あ、あとでドリンク持ってこか?」
「…うん。ありがとな」
「別にええって!」
「…うん、…ありがと。ごめんな」
「別にええって」

 謝ったのは、本心だった。
 ごめん。
 こんなに汚い妬みをお前達に向けて、ごめんな。
 わかってるんだ。
 こんなの間違ってるって。
 わかってる。十分に、痛いほどに。

 お前たちはなにも悪くないよ。

 大坂でならやり直せると思った。
 やり直せていると思っていた。
 だけど、心はそんなに簡単じゃなかったんだ。

 ありがとう。
 こんなに歪んだ俺を案じてくれて。
 ありがとう。
 仲間にしてくれて。
 本当に嬉しいんだ。

 だから、ごめん。

 こんなにも、――――――――歪んでいて、ごめんな。




 疲れたように横たわった保健室のベッド。
 ぎしりと軋んだ音にも構わず目を閉じた。
 校医はいなかった。


 誰かが新たに入ってくる気配を感じても、身体は重く、動く気もなかった。
 足音は二つ。
「ほな、少し休んどけ? 俺はちょお先生呼んでくるから」
 渡邊だ。一緒にいるのはおそらく部員の誰かだろう。
 不意に興味を惹かれてカーテンの隙間から覗いた先、見えたのは、背中を向けた渡邊の身体に手を回し、抱きついた部長の姿。
 渡邊の身体が硬直した。
「…せんせ」
 白石と信じられない程甘く掠れた声が、まるで聞いてはいけない死神の声のように鼓膜に届く。
「…なぁ、こっち見て?」
「…、あのな」
「……俺、そんなに…せんせの亡くなった奥さんに似てるん?」
 渡邊の胸板に手を這わせて、頬を背中にこすりつけたまま囁く白石の姿は、コートの上の彼と違いすぎた。
「……なら、教えてや」
「白石?」
「…どんな風に笑って、どんな風に先生呼んだ? 仕草とか癖とか。
 教えてくれたら、俺そう演じるし…。な、…俺、生きてる」
 口元に刻んだ笑みが惑わすように震える。
「先生より、十年は生きると思うで? 先生を置いていかへん。
 ……なぁ…俺にしてや…。俺なら、先生の望んだ通りの恋人になってやれる」
「……白石」
 溜息を吐いた渡邊が、白石の手を強引に解いて、白石の身体を抱き寄せた。
 一瞬勝ち誇ったように歪んだ白石の笑みは、すぐ消える。
 渡邊は“子供が大人をからかうな”という顔で笑っていた。
 そのまま白石の額に顔を近づけて、思わず目を閉じた白石の額にデコピンを見舞う。
「お前が俺を手玉に取ろうなんて十年早い。ガキの挑発と色仕掛けに乗る程若くないわ阿呆」
「………」
「ほな、先生呼んでくるわ」
 ひらひらと手を振った渡邊を見送って、白石はすぐ項垂れた。
 その自信のない顔、それを支える頼りない首、身体。
 すぐ、胸に浮かんだのは暴力的な欲望。

 いかにも理想の部長だと思っていた。
 下級生に優しく、同輩にも信頼厚く、親身に人の世話を焼くのがお仕着せではない面倒見のよい、世話好きな部長。
 テニスの腕は一番で、最強の力で部を引っ張る、理想の部長だ。
 性格も基本通り、マニュアルを越えない模範通りの真面目な色。
 人を軽視しないし馬鹿にもしない、非にもなにか理由があると必ず考えるお優しい性格。
 まるで、漫画の正統派ヒーロー。
 オンナノコがやる恋愛ゲームなんてやったことはないが、きっと彼みたいなタイプがよく言う“正統派王子様キャラ”なのだろうと、疑わなかった。

 だが、あれは?

 正統派王子様の秘密は、男の顧問に片思いして、あげく死人を利用するような、悪魔みたいな顔。
 悪魔のような姿。

(……おもしろか)

 胸に浮かんだのは、残酷で暴力的な欲望。
 壊してやりたい。
 あの王子様面して、実は悪魔のような男の心を。
 他の人間に思いを寄せる彼の身体を無理矢理暴いて汚したら、きっと楽しいに違いない。

 壊してやりたい。

 俺の抱える苛立ちもなにもかもあの男にぶつけて。

 壊してやろう。

 泣き叫ぶのを許さず、組み敷いて、縛って貫いて、ぼろぼろになるまで。
 彼が、二度と正しい部長の顔なんて出来ないように。

 俺が深い憎しみの底にいるなら、彼を俺の場所より深い暗闇に沈めてやる。

 そうすればきっと、苛立ちも収まるだろう。
 自分より惨めなヤツを見れば。

 思いついた確定済みの行動を考えて、千歳は楽しそうに顔を歪めた。






 翌日の学校で、廊下でなにやら困っている風な渡邊を見つけて、千歳は声をかけた。
 あの日、自分が保健室にいたことを、二人は知らない。
「先生。どげんしたと?」
「ああ、千歳。それがなぁ、俺外に用事頼まれたんやけど」
 そういう渡邊の手には社会で使う地図の筒。
「ああ、それ片付けにいかんといけんのに?って。
 そんなら、俺が片付けてもよかですよ。俺が勝手に入ってよかならですけど」
「おお、そっかぁ! 千歳、お前ええヤツや!
 頼んだ! すまんな」
「いいえ。でも、ほんなこつに入ってよかの?」
「別に生徒が見て困るもんもないし、生徒がパチりそうなもんもないわ。
 てかお前そういうキャラちゃうし」
「先生の中で俺ってどげんキャラね…。まあ、よかけど」
「ほな頼むわ。これ鍵な」
「はい」
 受け取って、背を向けた渡邊に見えぬよう笑った。
 思わぬチャンスだった。あの白石を自分の部屋に誘うのは今はまだ無理だ。
 他に場所もない。だが、
「…」
 くすり、と笑みを零して、千歳は一度社会教材室ではなく放送室に向かった。



『三年二組、白石蔵ノ介くん。三年二組、白石蔵ノ介くん。
 渡邊先生がお呼びです。至急社会教材室まで来てください。繰り返します…』


「……やって、白石。なんやオサムちゃん」
「どうせたいしたことないやろ。ほなごめん謙也」
「ああ」
 教えていた途中の教科書をそのままに教室を飛び出した白石は、内心胸が弾んでいた。
 渡邊からの呼び出しで、場所は職員室じゃない。
 少しは期待していいのかと高鳴る胸は気のせいじゃない。
 そのまま社会教材室の前に立って、呼吸を整えると何気ない風を装って「センセ?」と開けた。
 がらんとしたほこりっぽいそこには、誰の姿もない。
「センセ?」
 少し席を外しているのだろうか。そう思った瞬間、背後で鳴ったのは間違いなく鍵が施錠された音。
 流石にびくりとして振り返った白石は視界がすぐ切り替わったことに、頭が着いていかなかった。
 気付けば両手を頭上でひとまとめに手で掴まれて、背中は床に押さえつけられている状態。
「……ち、とせ?」
「…やっぱり、先生の名前だと油断すっとね?」
「…千歳?」
「…白石、この状況で、まだわからんと?」
 くすくすと笑う千歳はまるで人が違う。だが、意味はすぐわかった。
 途端必死に暴れ出した白石の耳元で、その抵抗をあっさり封じて千歳が囁く。
「よかの? 白石。困るんじゃなか?」
「…は!?」
「俺、バラすたいよ? 先生と白石のこつ」
「………、え…俺と…、センセ…?」
 自分と、渡邊のことを? 誰に?
 なんのことを?
「…白石、先生を好いとうとね?
 やけん、先生は本気にしとらん。
 で、白石は先生の死んだ奥さんに似とる。…そげんとこかね」
「……ちと…なんでそんな…」
「実際、白石と先生にはなんも疚しかことはなかろ?
 ばってん、教師ん中じゃ若い先生が、これがバレたらどげん風に見られっと?
『亡くなった妻を男子生徒に重ねた最低教師』とか、肉体関係なくても、もう白石に先生が手を出してたんじゃないか、とか、…先生、下手すっと教職なくなるんじゃなかね?」
「…………、」
 抵抗も忘れて硬直した白石の首筋をそっと指で触れ、舐める。
 その間に千歳の指は白石のシャツのボタンを全部外していってしまう。
「そうして欲しくなかなら、…おとなしくしとかんね?」
「……っ」
 露わになった肌に印を散らされ、下肢に触れた手がベルトのバックルを外して強引に太股までズボンを下着ごと降ろした。
 それでも顔を背けても抵抗はしない、想像通りの白石の反応に笑みが零れた。
 そのまま足から布を抜き取ると、両足の膝裏を抱え上げた。
「…え、千歳…! …待っ…」
 全く慣らしもしないそこに宛われた熱に白石が掠れた抵抗を示した時には、それは白石の下肢を強引に貫いていた。
 グジュ、という嫌な音が立って、下肢を濡らすのは目にも毒な赤の液体だ。
「…ぁ…ッ……は…ぁっ……!」
 生理的な涙に顔を汚して、喉を仰け反らせて喘ぐ白石を気遣うことなく抜き差しを強引に繰り返す千歳の腕にわけもわからずしがみつきながら、白石が掠れた声をあげた。
「ちと…せ…っ! …いた……いた…あ…っ! いや…、や…っ!」
「…なんね、白石。もしかしてこれが初めてと?」
「………は…ぁ……は、……い…た……ぃ……」
「血、すごい出とるね。処女喪失みたか。…白石、痛か?」
「………っ」
「…………白石。…………可哀相ばい」
 笑って言った。
 可哀相だ。本当に。
 ―――――――――――――自分よりも。
 そう思うと堪らなく愉快だった。
 可哀相な人間。今の自分よりも、と。
 そのまま許さず何度も突き上げて、中に容赦なく放った。
 掠れた悲鳴をあげた白石の髪を撫でて、ただ先のことばかりを考えた。
 ここからどうすれば彼を原型なく壊せるかと。
 また犯すか、犯した姿を写真でばらまくか、それとも、部員に教えるか。
 正常な彼の思考が大事にするものを壊すと思うと楽しかった。
 本当は二人の関係をバラすのが一番愉快だがやめておこう。
 そうしたら白石に言うことを聞かせる札がなくなるし、部活の顧問が辞めて困るのは自分自身。
 ああ、本当に馬鹿だ。
 少し考えれば、白石にだって千歳が本気でバラさないことだってわかるだろう。
 千歳だってテニス部員なんだから。
 そのことにすらこの聡い彼が気付かないことがまたおかしくて、唇にその笑みを乗せた。







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