今更知らされて、浮かぶのは憎しみしかないと思っていた。
白石を汚した翌日、部活に普通に顔を出した千歳は奥で着替える白石を見遣って、小さく笑んだ。
「おはよう」
そのまま普通の態度で前にいた謙也に挨拶をする。
「おはよ千歳!」
「うん。謙也、朝から元気たいね」
「お前、眠そうやな」
「…実は低血圧で」
「嘘くさっ!」
「説得力がないですわー」
傍を財前が通り過ぎながら爆弾を落としていく。
「光の言うとおりやな」
謙也の笑い声を聞きながら、白石の傍に立つ。自分のロッカーは白石の隣だ。
すると白石はやっと気付いたのだろう、顔を上げて、千歳に向けて笑った。普通に。
「おはよ、千歳」
一瞬、反応が出来なかった。
いくら普通に装うとしても、普通な振りなんか出来ないと思っていた。
どこかに自分への恐怖が滲むだろうと。
「ああ、千歳。今日お前試しにダブルスな。謙也が相手。準備しといてくれや」
そう言った白石が千歳の肩を頼むな、と叩く。その手はまるで震えていない。
謙也もいなくなって一人残された部室で、千歳は愕然として唇をかみしめた。
なんだこれは。
なにも一回で壊せるなんて最初から思ってない。
だけど、これはなんだ?
普通に笑って挨拶して、震えてもない身体。
こんないつも通りの彼を、望んだわけじゃない。
俺が望んだのはこれじゃない――――――――――!!
結局数分遅刻してコートに来た千歳に白石は遠慮なく罰走を命じた。
普通、気後れして無理が出て、罰すら命じられないのが普通じゃないか、と苛立ちは深まった。
休憩時間、呼び出されたことにも白石は拒むことなくついてきた、校舎の影。
「…なんね、あれ」
「なにがや?」
「…俺が、憎いとか、なかね」
「…」
白石はあからさまに溜息を吐いた。それに更に苛立った千歳を見上げて言う。
「お前は俺をなんや思てんねん。憎まないわけあるか」
「…なら」
「やけど、それがお前を悪く“特別扱い”していいことにはならん」
「…………」
憎いけど、それが千歳をそういう“特別”として扱っていい理由にはならないと彼は言った。
そんな甘えは甘えじゃないと。
なんだ?
あんなに悪魔のような顔を持っているのに、何故光の下の白石はこんなにも正しいのだ。
未だに、惨めなのが自分だけだと、言われたようで。
「…俺は遠慮なんかせんよ? 何度も女みたくする。白石を部長として扱うんは部活の時だけたい」
「理由は、聞いてもええか? 嫌ならええ」
こんな時でさえ、千歳の意志を尊重する白石に苛立った。だから敢えて言った。
「腹立つから」
「…なにに」
「…全部たい。お前っちゅー“理想の部長”にも“理想の部長”に恵まれた“部員”にも、全員で全国目指せる“四天宝寺テニス部”全部に。
…俺と桔平の気持ちなんか、お前らにはわからなか。
子供じみてるとはわかっとうよ? ばってん、俺はあんたをそのぶつけ場所にするこつ、もう躊躇いはなか」
長い早口の台詞を聞き終えて、白石は表情を動かさずに吐息を吐いた。
「お前ももう、“四天宝寺テニス部”の部員なんにか。…お前、自分で一人でおるんやないか?」
「…どげん意味ね」
「今のお前を助けてくれる手が沢山あるんに、お前は悲劇ぶったまんまか」
「…そげんもんわかるわけなか!」
叫んだ気持ちのままに白石の胸ぐらを掴み上げていた。
「白石になにがわかっと? ここの連中になにがわかっと?
卑屈な目で見られるこつも、それでも親友がおったから堪えられたこつも、その親友さえ失ったこつも!
……わかるわけなか」
「………橘くんが九州でテニスできんのは、もうしょうがないやろ」
「そげんこつわかっとうや? …俺はただ、目が見えなくなった俺を丸ごと見て欲しかっただけたい。悪いもごめんもいらんから、俺を見て欲しかった。桔平しか俺にはおらんかったのに…っ!」
「…なら、俺にぶつければええ」
「……、あんた…?」
「…俺をぶつけ場所にするんやろ? ならそうしろ。
俺はそれでええ。それで、お前が四天宝寺テニス部の一員にちゃんとなれるんなら」
「……………」
何故、何故そんなに正しい。
光の下で、太陽にも負けない程に正しいんだ。
こんなにも。
「…お前は、あれやな。アルファルド」
「…アル?」
「孤独な星」
そう白石の口が綴った瞬間、渾身の力でその頬を殴っていた。
流石に吹っ飛ばされて壁にぶつかった白石をすぐ醒めた頭で見下ろした千歳の背後から彼を呼ぶ声がした。
「白石! 千歳お前なにして…っ!」
「…謙也…」
見られていたと気付いた千歳の前に立って、走ってくる謙也に白石は手を振った。
「気にしなや謙也」
「白石!?」
「俺が千歳の地雷踏んだだけや。な、千歳」
笑顔で言われて、思わず頷くように俯いてしまったのは、多分白石の言葉が一理あったからだ。
“お前も四天宝寺テニス部の一員やろ”
仲間の謙也に嫌われたくない気持ちが千歳の中には既にあった。だから否定も出来なくて顔も見れなくて、俯いた。
それを白石の言葉が正しいと取ったのか、謙也は“そうか?”とさっきとは違う落ち着いた口調で交互に見遣る。
「ごめんな謙也、びっくりさせて」
「…いや。ごめん。千歳。誤解した」
「…あ、よか」
そうとしか言えない理由を知っている。後ろめたいから。
本当は100:0で自分が悪いから。
謙也を騙したことが、後ろめたいから。
それでもそれを理解した風な白石に弱みを握られたとは思わなかった。思えなかった。
彼は正しいから。
光の中で、彼は誰より正しいから。
彼は、人を惨めにしたりしない、太陽のような人だから。
自分じゃないから。
疲れたように自分のアパートに帰った千歳が、着替えも面倒で敷きっぱなしの布団に横になった時だ。
携帯が声を上げた。
着信は、九州の友だち。
なにかと出て、聞いたニュースに浮かぶのは、憎しみだと信じていた。
『橘が東京でテニスを始めた』
電話を切って、額を押さえて、胸に渦巻く感情に、一番愕然としたのは自分自身。
橘を憎んですらいた。
自分を非難した千歳の親に、テニスは辞めると言っていた。
その橘にやめてくれと願ったのは自分だ。自分のためにお前がやめることない。そんな理由はどこにもない。そんなもの欲しくないと、願った自分に彼は背いたから。
目を失った千歳を、橘は見てくれなかった。
見て欲しかった。白石に言ったことが全てだった。
自分には橘しかいなかった。だから橘だけには見て欲しかったのに。
橘を憎む両親に、橘は悪くないと言った。理解しない親を憎んだ。
けれど同時に、見えない目に、逃げた橘に、憎む自分が確かにいた。
全てが嫌だった。
やり直せると思った。大坂に来れば。
なのに苛立って、なお惨めになって。
何故お前だけそんな明るい場所にいるんだ、と。
橘がテニスを始めたら、そう思うと信じていたから絶望していたのに。
浮かんだのは、真逆の思い。
よかった、と。
ただよかった、と思った。
彼はテニスコートに戻ってきた。戻ってきてくれた。
自分があの日願ったことをわかったからか、ただ彼自身がテニスを捨てられなかっただけかなんてどっちでもいい。
ただ、よかった、と。
ほんの少しでも、自分と向き合ってくれるために戻ってくれたんじゃないかと。
向き合いたいと橘も望んでくれていると、ほんの少しでもそう思えるニュースは、自分を喜ばせた。
憎悪は欠片もなく、あるのはただ親友がテニスを捨てずに済んでよかったという安堵と、喜び。
もう自分は誰かのことに喜べない程落ちたと思ったのに、今の自分にはその気持ちが確かにまだ残っていて。
自分で思っていた程暗くなかった暗闇に、ただ安堵して泣いてしまった。
半分眠りかけていた千歳の思考を引っ張ったのは、耳元で鳴る携帯。
「…謙也?」
『ああ、千歳! お前、白石しらん?』
「……白石? どげんかしたと?」
いつの間にか雨が降り出したのか、雨音がする。
『それがまだ家に帰っとらんて! どこ行ったかしらん?』
時計を見るともう八時だ。
「そげん言われても謙也…。謙也たちがしらんのに俺が知るわけなかよ。
俺まだ白石の家もしらなか」
『あ、ああ…そうやんな。ごめん』
「いや…」
一応探してみる、と言って携帯を切った。
面倒な男だ。
一応、傍のコンビニくらいまでは探すべきか。そう思ったのは部員としての義務感だ。
白石にしたことへの罪悪は相変わらず皆無で、光の下で彼が正しくても、顧問を惑わせていた悪魔の顔も本当だから、白石が綺麗だとも、正しいとも千歳は思わない。
ただ、部長として、光の下でなら、彼は正しいのだ、と思っただけだ。
扉を開けようとして、重いことに気付いた。
「…?」
無理矢理に開けると、まるで漬け物石が扉の前に置いてあったような感触に不機嫌になって千歳が外を見て、驚いた。
扉の外に座り込んでいたのは、その白石だった。いつからいたのかはわからないが、濡れている。
「……なして」
茫然と呟いた。
とりあえず、顔を上げた彼は酷く傷ついていて、放置出来ず家に入れる。
しかし、いつ俺の家の場所を知ったのか、と不思議にすらなった。
「どげんしたと」
着替えになりそうな唯一のスウェットに着替えた白石に一応と、暖かい珈琲を渡しながら聞いた。棘が滲むのは仕方ない。
「……」
「白石」
「…………千歳しか、思いつかんかった」
「? なんのこつ?」
「…先生の話、聞いてくれるん」
……………………………。
絶句、とはこのことだ。
確かに、千歳しか白石と渡邊のことはしらない。
おそらくこの様子だと渡邊となにかあったのは確実だ。
(だからって自分を汚した人間のとこに相談に来るとか!?)
「……白石、相談相手、間違えてなかね?」
思わず浮かんでしまった引きつった笑みにも白石は頓着せず珈琲を口に含む。
「相談やない。…かもしれへんけど。聞いてもらえるだけでええし」
「…白石、…俺が白石になにしたか、忘れたと?」
「ううん。やから…」
「…?」
「やから、千歳は俺の話、聞く義務くらいはあるやろ」
再び絶句した。
思い直すなんてとんでもない。
この男は光の下であんなに正しい癖に、裏ではどれだけ悪魔のように汚いのかと閉口さえする。
ようは、自分を強姦したのだから、詫びに自分の駆け込み寺になれ、と強要しているのだ。
したたかを通り越して悪魔だ。生まれてくる世界を間違えてないかこいつ。
「白石、そげんこつ言うと、また犯すとよ?」
「…別に構へん」
「…は?」
大袈裟に眉を顰めて言うと、白石は真顔で言う。
「…無理矢理に犯されても、…先生からの辛いを考えんで済むならいいから、…多分犯されたくて来たんかも」
最後は涙に滲んで、不明瞭になった。
言葉がない。
何故。
「…なして、そげん必死なんとや?」
「…え?」
「男の顧問に、そげん必死に…。
死んだ奥さんに似てるこつは、白石が辛いんじゃなかね?」
「……辛い」
「ならなして」
「…それでも俺は先生が好きやった」
白石の声はか細いのに、はっきりと耳を打った。
それは、悲鳴のような告白だった。
「…間違えられるんは、馴れとった」
白石が初めて間違えられたのは、入学式。
紛れもない男子の制服に身を包んだ白石を見て、渡邊は「恭子?」と亡き妻の名を口にしたらしい。
自分に、昔いた妻が自分に似ているのだ、と教えたのは渡邊の方。
白石が聞いたわけではないし、渡邊が間違えなければ自分は一生知らなかった、と白石。
その後も、間違えられることはなくとも、覚えのある眼差しで見られることは多かった。
成長すればするほど、白石はその亡き妻に似るらしく、二年に進級した後回数はむしろ増えた。
間違われて呼ばれたりはしない。
だが、渡邊の眼差しは自分を通して彼女を見る。
いつだって。
それが自分を見ていないとわかっていた。わかっていたのに、好きになってしまった。
そして、自分を彼女と重ねてしか見ないなら、似ていることを利用するしかなかった。
「……知っててもしょうがないんや。
俺はあの人が欲しい」
「………」
「…やけど、ホンマは似てるからって好きになられてもうれしない。
やけど似てる以外に手に入れる方法がない。あの人に好かれる方法が。
あの人に“白石蔵ノ介”を見てもらう方法がなかった」
言葉を失う程、その瞬間胸が痛かったのは、それが自分だったからだ。
「見て欲しかった。
妻やなくて、俺を見て欲しかった。
白石蔵ノ介を見て欲しかった。似ていることも丸ごと引っくるめて俺を見て欲しかった!
…ホンマに好きやから」
彼の頬を伝う涙を、初めて悲しいと思った。
知っている。
見て欲しいと願う、叶わない切ない願いを。
あれは、これは、自分だ。
彼は“千歳千里”だ。
自分を丸ごと見て欲しい、それは、俺の願いだ。
彼の願いは、俺が願ったことそのままだ。
同じ、願いだ。
恋愛と友愛の違いはあっても、同じだ。
そっと、泣く身体を抱きしめた。
そのまま震える背中を撫でてやると、不思議そうに泣いて掠れた声が千歳を呼んだ。
白石は悪魔だ。
けれど、それは俺も同じだ。
“千歳”の中にも、悪魔がいる。
死人を利用してでも一人の人間を望む白石が悪魔なら、自身を生んだ親を憎んでまで捨ててまで一人に執着する自分だって悪魔じゃないか。
「……白石」
自分たちは、きっと鏡のように似ている。
「……いつでも、来てよか。俺が聞く」
「…千歳?」
「…俺は白石と同じたい。…俺も桔平に同じこつ願っとる。
やけん、自分で自分を汚か思う。…なんに、同じ願いなんに、白石は綺麗か思う」
「……」
「俺は俺の願いを、真っ直ぐには思えん。叶って欲しいと思って、それが叶っていいかもわからん」
「………俺、うたた寝しとった先生を起こしただけや。
なんに、センセ…起きて俺の手掴んで、“恭子?”て…俺を…」
震える身体を強く抱きしめた。
「…よか。…白石は、泣く権利がある」
「……っ。……ぁ…っ!」
腕の中で泣き出した身体を、抱きしめて守った。
ああ、きっと、俺はこんな風にずっと俺自身を誰かに抱きしめて欲しかった。
そう願うのは間違いじゃない、と。悪くないよ、と。間違ったことじゃないから泣いていい、と。
背中を撫でて、抱きしめて、その腕の中で。
「……っ……桔平……」
こんな風に泣いてしまいたかったんだ。
ただ、子供のように泣いてしまいたかった。
そんな自分を、許す声がずっと俺は欲しかったんだ。
白石も、同じなんだ。
ああ、こんなに似ているのに、何故わからなかったのだろう。
こんなに傍に、分かり合える存在がいたのに。
なあ、白石。共犯ってよくなか?
自分のこつは真っ直ぐ願えなくても、お互いのこつは願える。
やけん、お互いがお互いのことを叶うよう願って、自分が思えないこつを叶うよう祈って。
許しあえばよか。
鏡のように似とるなら、きっとそれで少しは救われる。
少しは、明るくなれる。
やけん、―――――――俺の共犯になって。
白石が泣きたか時はずっと聞いて抱きしめとるよ。
やから、俺が泣きたか時は白石が聞いて。
抱きしめててくれ。
一つの布団で眠りながら囁くように言った千歳に、白石は微かに、しかし確かに頷いた。
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