アルファルド

 第四話−【まるで最期の愛撫】


 白石蔵ノ介は俺の共犯者であって恋人ではない。わかっていた。




「おーい、白石! 二組のクラス委員!」
「ん、なに?」
 二組の教室を覗き込んだ一組のクラス委員に顔を上げた白石の席は廊下側の一番後ろである。
 覗き込んだ生徒とすぐ顔が合う場所にいるので、テキストを出しながら答えた白石に隣のクラス委員が今日提出のプリント余ってないかと言ってきた。
 今日は登校日だ。
「ああ、ある。なに忘れて来たんがおるん?」
「ああ。助かる」
「ん、ええよ。ちょお待って、あ、これや。はい」
 言って軽く立ち上がった瞬間だ。足に妙な痺れが走って前のめりになった白石はそのまま廊下に倒れ込んだ。
「白石!?」
「…った……」
「大丈夫か!?」
「いや、足つっただけ…大丈夫や」
 思わず大袈裟なリアクションをした謙也に手を振って教えて、変な座り方してたんやろかとつった足を撫でる。
「あれ、白石。廊下で座り込んでどげんしたと」
「千歳」
「いや、足つって転んだだけや」
「…右?」
「ああ」
「…これまだ痛か?」
 右足を軽く掴まれて聞かれる。痛くないので全然と答えた。
「ならすぐ立てっとね」
「え…?」
 にこりと笑った千歳は白石の言葉を待たず、両脇に手を差し入れるとそのままひょい、と抱え上げた。
 それはさながら転んだ子供を抱え上げる父親のような。
 しかししているのが大男の千歳でも、されているのはしっかり者で怖いものナシなテニス部部長の白石蔵ノ介。
 その異様な光景に周りが唖然としたのにも気付かず白石を床に立たせると、これでよかろ?と笑う。
「……」
「白石?」
 無言な白石に気付いて、覗き込んだ千歳の目に映ったのは、真っ赤に頬を染めた顔。
「…ば…」
「え?」
「ばば…馬鹿…! なにすんねん! 俺はオンナノコやないんやで!?」
 真っ赤になって怒鳴りつけると、プリントのことも忘れて走り去った白石をただ見送って、千歳も思わず真っ赤になってしまい口を押さえる。
(…しまった…ミユキのつもりで…)
「…千歳。お前、迂闊」
「…………知っとおよ」
 謙也に突っ込まれても困る。
 一番わからないのは俺自身だ、と千歳は言いたかった。





『で、謝ってないのか? お前アホか?』
「うるさかよ桔平」
 その日の夜。
 家で橘との電話のついでに話題に出したらそう言われて、返す言葉も威力がない。
 橘はあれ以降、頻繁とは言わないが連絡をよこす。
 最初の電話はあの喧嘩別れの翌日だった。


「……」
 布団の上で振動を続ける携帯の窓が表示する名前は『橘桔平』。
 風呂上がりの千歳はたっぷり固まった後、なんとか声を整えて電話を取った。
「なんね?」
『まだ怒ってるのか?』
「当たり前たい」
『…千歳、悪いんだがな』
「なんね」
 不機嫌調子の千歳の声に、橘は淡々と。
『それ、男女の喧嘩の「私は真剣に悩んでたのになんでそんなあっさりしてるの? 私が馬鹿みたいじゃない」って意味と一緒だからやめてくれ』
「………………俺がいつお前の女になっとうね!?」
 しばらくの絶句の後そうキレ気味に叫んだ千歳の耳元で、落ち着け、と冷静な声。
『あくまで例えだ例え。本気で思うわけないだろ。俺だって大概気持ち悪い。
 で、俺が図星さしたとか、お前が本気で悩んでたのはわかったよ』
「……じゃ、なんね」
『……謝るつもりがそれに関してないんだ。お互い様なんだよ、俺達は多分』
「…は?」
『俺はお前の「目の怪我」に重点を置くからテニスを一度辞めた。お前は「橘桔平のテニスの今後」と「自分との関係」に重点を置くから不安になった。
 重点が違うんだ。
 お前だって目のことで悩んでただろうし、苦しんでないとは思ってないさ。
 ただ、俺はお前がテニスが出来るか、お前を俺が傷付けたこととか、そういうことで一杯だった。
 実のところ俺はお前が四天宝寺でテニスをやっていると聞いた時点で、俺とお前の関係に全く不安はなくなったんだよ』
「…? なんでと?」
『お互いがテニスをすること=再び向き合うことだからだよ。俺の中では。
 だからお前がテニスがちゃんとまた出来てるなら、俺がテニスをまたやればなにも問題も不安もないと思った。俺の思考はそうだから、お前が不安だったなんて昨日初めて知った』
「………桔平も、俺がテニス始めるまでは不安やったとか?」
『馬鹿。当たり前だ。怖くて怖くて、ラケットすら見れなかったよ』
「………」
 張りつめていた息がほどけて布団の上に座り込んでしまった。
 なんだ、と。
 論点が違うから、橘があっさりしているように見えただけだ。
「……そか」
『悪かった。一緒にいたころはお互い論点がこんなに食い違うことなかっただろ』
「いや、俺もよか。俺もそれはしらんかったし」
『で、な。お前、宮崎行けるか?』
「急になんね」
『手塚がいるんだと。青学の手塚』
「……手塚」

 そして翌日見に行って、妹に会って、現在に至る。



『しっかし、お前もなー…』
「なに笑っとうや桔平?」
『いや、…気付いてないのか?』
「……なんね?」
『いや、ないならいい』
「きっぺい?」
『…………多分真っ赤になった白石もわかってない気がするからいい』
「……???」
『千歳。お前、その時の白石をどう思った?』
「……? 普通に、ああ真っ赤たい、て」
 首を傾げる千歳に橘はなにやら笑いを堪えて。
『他は? お前そもそもなんで白石にそんな抱え方したんだ?
 いくらお前より小さいからって男で、部長だぞ?』
「……なんでとやろ。…ん………そうするんが自然な気がした?」
『…抱きかかえるのが自然な気がした、ってことか?』
「…ああ」
『…それ、深い意味にとるととんでもないな』
「…は?」
『…いや、あとは会った時教える』
「……?」
 全国大会は既に三日後。
 もうすぐ会えるが、なにやら無性に気になった。




 白石は、なにも言わなかった。
 わかっていた、はないだろう。
 ただ、部長だから。
 最後まで根ざさないことを知っていたのか、あるいは。
 ただ本当に勢いで出してしまっただけで、彼らと袂を分かつつもりなんてなかったとわかってくれているのかもしれない。
「しかし、お前ほんに馬鹿たいね?」
「うっさい、桔平いきなりなんね」
 全国大会二日目。青学との準決勝の後、落ち着いてまた顔を合わせた友人は千歳の退部届けは既に知った顔でそう言った。
 箍は外したから、と彼は遠慮なく言葉を惜しまない。
 そして、今は胸の奥が満ちていた。
 ―――――――――――――願いは、叶ったのだから。

 それは、優勝出来なかったことは、悔しい。
「自分からまた切る真似せんでもって意味たい」
「…知っとおよ。後悔ばした」
「…自分から白石を切る真似して、困るのはお前やろ」
「……、そら、白石は…」
「…千歳。大会前の電話のこと覚えとう?」
「…あ、ああ…。『深い意味にとると』?」
「…あれな、多分お前はそういう意味で白石を抱えたよ」
 急に標準語になった橘は笑って耳元で声を低くする。

「お前は白石を『オンナノコ』扱いしたから、平気で抱えたんだ」

「………」
「だろ? 他のヤツがそんな真似したらお前キレたね。絶対。
 お前の『オンナノコ』扱いは『自分の女』扱いだ」
「………俺が」
「…気付いてないのか」
「……俺が、白石…を?」
「…当確だ。白石がいなきゃお前、関東決勝、俺に会いに来てないよ」
「……………」
 白石蔵ノ介は俺の共犯者だ。
 知っている。
 恋人じゃ、ない。


 恋人じゃない。




「…ああ、待っとる」
 白石への電話を切った携帯を布団に投げ捨てた。
 東京から帰ってきた、今日はその日。
 すぐ、呼び出すなんてどうかしていた。
 彼は、橘のことだと疑わないだろう。

(一瞬にして、思い知った)

 橘のことが叶って、背負っていた荷物が消えた瞬間だった。
 その途端だ。
 自分を満たすのは、想像と違う思い。

 ずっと、お互いを共犯と思えたのは、白石が俺の幸福を一番に祈ってくれたように。
 俺も彼に幸せになって欲しい、と心から思えたからだ。
 互いのためには祈れた。馬鹿らしい夢物語も口に出来た。
 これは共犯という信頼だと信じていた。

「……わかっとうよ」

 こんなの、卑怯だって知っている。
 自分の願いだけ叶った途端、と。
 自分は知っている。
 この願いがどれほど傲慢かも、どれほど身勝手かも酷いかも。

 橘と共有していた痛みが消えた途端、気付いた。

「白石に幸せになって欲しい」と思い続けた。

 今あるのは、「白石が“渡邊の隣で”“渡邊に思いが通じて”幸せになる姿を純粋に祝福できない自分」なのだから。

 卑怯だと知っている。
 重みが消えた。背負っていた罪を取り上げられて、自由になっていいよ、と言われて。
 途端、白石への思いが既に「共犯」だけで収まらないことに気付くなんてあんまりだ。
 せめて、卒業まで俺を彼の望むままの「千歳」でいさせてくれと。
 誰かに願った。

「千歳、入るで」
 合い鍵を渡していたので入って来れた白石は、数分前には来ていたらしい。
 千歳の返事を待つあたり、白石だと思う。
「どうかしたん?」
「……」
 その、優しい笑顔。
 欲しいんだ。堪らなく。
 こんなにも呆気ないほど、俺はキミに酷くなる。
「……白石、」

 もう、キミを二度と、傷付けたくないって胸が叫んでるのに。
 止められない自分も、千歳なんだ。

「……先生と、どげんかなった?」
「……え」
「もう、顧問やなくなる」
「…あ」
 白石は気付いていたのに、今更に気付いたように寂しげに俯いた。
「……そやな。もう、あんまり傍おるんも、無理やな」
「…うん」
「…せやけど、また行くわ。前部長になるわけやし、権利はある。
 それに…この顔を、先生が放っとかんでくれると思う」
 こういう時は、似てるって嬉しいな、そう呟いた白石の伏せた目に、何かが切れた。
「…っ?」
 顔の横に投げつけられた枕を、白石は茫然と見た。
「…千歳?」
「…もう引退たい」
「う、うん…?」
「…すぐ、高校生になる。先生のおらんとこに行く。
 …なんにまだ諦めつかんと?」
「………」
 千歳?と多分気のせいではない程血の気が失せた唇が呼んだ。
 呼んでくれ。彼じゃない。俺だけを。
 どんな悲鳴だっていいからと、願った残酷さは止まらなかった。
「先生、先生っていい加減目ぇ覚ましたらどげんね!
 一生報われるわけなかやろ! 叶わんって知っとうて馬鹿や!?」
 罵声に殴られた瞬間、白石は蒼白になってその場に座り込んだ。
 壁とこすれた彼の背中の服が音を立てる。
「……で…っ?」
 掠れた声は、泣いているからだと気付いた時にやっと激情が去ったが、遅かった。
 頬を伝う、翡翠から零れるのは、涙だ。
 ああ、傷付けた。
 あの日より、もっと無惨に傷付けた。
「…とせ…が、…言うてええって…泣いてええって…許すて…言う…たのに…っ」
「…白石…」
「…なんで、否定するん…なんで……なんで……ぇ?」
 白石、と呼ぶ千歳の声も掠れていた。
 傍にしゃがむ距離が、酷く長く感じた。
 自分の所為だって、痛いほどわかった。
 触れた、伸ばした千歳の手の指を、赤子のように一本だけ掴んだ手が、震えている。
 見上げてくる翡翠の泣き顔が、あまりに無惨な姿で言う。
「嘘吐き…っ」
「…白石…」
「千歳のうそつき……っ……!」
 そのまま、部屋から逃げ出す力すらなく、言葉もなく泣き続ける身体を、抱きしめることが許されていたのなら。
 抱きしめたのに、守ったのに。
 今、彼を傷付けたのは俺自身だから。

 守りたかった。
 誰からも。
 …俺自身からすらも。

 それは、ずっと気付かなかった愛情。

 誰より必死に愛しているから、守りたかったんだ。

 傷付ける前に、思いを告げればよかったんじゃないか、馬鹿。

 電話をしたら、あの東京の親友はそう言うだろう。
 そうだ。その通りだ。俺はとんでもない馬鹿だ。
 そして、この手で愛しい人を残酷に裁いた。
 裁かれるべきは、俺の方だ。


 神様、俺は地獄に堕ちますか?










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