暗闇の中、目を覚ますと、白石が立っている。
その瞳を、誰かが隠している。その手が、誰の手かわからない。
これは、夢?
白石の唇が動いた。
綴ったのは、四つの言葉。
やめてくれ。顔を隠さないで。
そんなことしたって、わかるんだ。
「 」
飛び起きた千歳の肌を、冷えた汗が流れた。
暗い、自分のアパートの部屋の布団。
頬を、伝うのは涙だ。
心臓が痛いほど高鳴っている。
なんで、あんな夢。
怖い。
手を握りしめて、低く呻るように零れた声は泣いていると己でもわかった。
(白石)
『 ば い ば い 』
頬を流れた雫が布団に落ちた染みが、やけに暗闇でも目立った。
「…嫌…行かんで……」
声だけは、酷く現実的に絶望していた。
「……しらいし……っ……」
お願い。
ココからお別れなんかしないで。
「お前ら、喧嘩したん?」
謙也に言われても、なんとも言えない。
喧嘩というのか、俺が悪いのは事実だと千歳は思う。
白石は、ずっと千歳を見ない。
「そういや、ニュース見たか?」
「あ、ああ」
『大きな台風六号は依然、勢力を増し…』
朝、出かける前に見たニュース。
「今日は早く終わるかなぁ」
「…ああ」
覇気なく答えると笑われた。
早く仲直りしろ、と。
でも、わからない。
自分が卑怯だったからだとわかるから。
廊下を歩く背中を見つけて、咄嗟に掴んだ肩が震えた。
千歳だと認識した白石の瞳が、怯えたように揺れる。
「…しら」
「………………なに」
「………」
声が、出ない。
汚されたことより、こんなにも無惨に傷ついて怯えるお前を前に、なにを謝れというんだ。
「…………白石」
自分の声も、泣きそうだ。
「……気を、つけて帰った方がよか」
言葉は、他愛ない声になった。
白石は、少し頷いてすぐ離れていく。
嵐が来る。
校舎を出て、悲鳴を上げながら帰路につく生徒たちを見遣って軽く溜息を吐いた。
その背後に声がかかる。
「謙也」
「千歳! お前ん家って遠かったっけか?」
「あー……電車が停まらんなら大丈夫たい」
「そか!」
そう、笑った謙也の顔が一気に暗くなった。
声なく驚いた千歳の前で、謙也がうわーと空を見上げる。
「雲が空すごいで。顔見えへん」
「…ああ」
「お前、なに、ものっそう死人見たような顔してんで」
「……そうか?」
「うん」
夢と、似ているからだ。
あの、さよならの夢。
「あ、千歳」
「ん…?」
「あのな…石………が…日」
「…え、謙也…?」
「明日…………と…………テニス……かな」
なに、言っているんだ?
嵐で、声が、聞こえない。
「なぁ、千歳!」
振り返った謙也の顔が、見えない。
「明日、晴れるとええな!」
『台風六号は依然、勢力を増して北上。夕方には………』
ここにはテレビなんてない。やめてくれ。そんなニュースを、流すな。
暗い。顔が、見えない。
「千歳、ばいばい!」
嵐が来る。
「はよ、帰らないと台風来るで?」
校舎の中まで響く軋み。
社会教材室は渡邊の城のようなもので、言われて、白石は困ったように俯いた。
「ずっと、千歳を避けてんな」
なんかあったか?と聞かれても困る。困ったようにしか笑えず、手を握りあわせた白石を見遣って、その肩が震えていると気付く。
知っていた。
いつだって、俺と話す、この子は怯えていた。
俺がいつ出すかわからない、知らない女の名前に。
知ってるよ、白石。
お前を悪魔にしたのは、俺だって。
ちゃんと、知ってる。
(……)
妻の名をそっと心で呼んだ。
お前が亡くなって、ずっと泣くのは堪えていた。
誰かを愛することも、お前が怒るだろうと、我慢したよ。
でも、もう、三年だ。
もう、ええやろ。
もう、ええやろ?
もう、許してくれないか。
俺を、解放してくれ。
「先生?」
一生、お前しか愛さないままなんて無理だ。
お前の時間は止まっても、俺は動いてる。
動かしたくなくて、泣いた日は遠く、今は真っ直ぐ生きる、彼らに憧れて。
溢れた思いの先に彼がいたのなら、もう、いいじゃないか。
俺を、この子に渡して、いいだろう?
もう、…この子自身を愛していいじゃないか。
…もう、許してくれ。
「……先生?」
黙ったままの渡邊に、少し緊張したように俯いた白石の指通りのいい髪を撫でた。
指にさらりと絡みつくそれは、驚くほど柔らかかった。
「……」
「白石?」
白石は、泣きそうに目を揺らがせて渡邊を見上げた。
すぐ、涙が零れる。
「…しく…せんで…」
「え?」
「…ただの生徒なら、もう優しくせんでください。
もう生徒と教師以上にならんのなら、優しくせんでください。
俺に、もう背中以外の顔見せんでください…!」
憧れるんだ。
子供だから、未熟だから恐れず思いを告げて、恐れず泣いて、恐れず笑う、その懸命さを。
無理を言うな。
「…そんなん、堪えられるか」
「…え、せん…」
肩を抱いて、手を掴んで、そのまま腕の中に抱きしめる。
強く、骨が軋む程かき抱くと、声もなく驚く白石を、そっと呼ぶ。
「…蔵ノ介」
腕の中の身体が震えた。
嵐が近い。
風で窓が大きく鳴って、一瞬驚いた。
疚しい己を、見透かされた気がした。
その瞬間僅かに緩んだ腕の中から必死で逃げだした白石が、自分を見上げるのに、顔が見えない。
嵐の所為で暗くて、見えない。
「…―――――――――――――………先生」
声が、泣いているかも、笑っているかも、わからない。
「…ばいばい、センセ」
「白石…っ?」
すぐ部屋を飛び出して行った身体を追えず、立ち尽くす。
違う。
代わりになんて、してないよ。
「…あのままじゃ、嫌やったんや………わかれなんて…無理やってわかってた」
声すら、嵐の音がさらっていく。
雨が空から降り出す。
ようやく足を止めたのは、人気のない歩道橋の下。
身体は濡れていて、それ以上に心がわけがわからない。
「……、……センセ」
とうとう、代わりにされた。
重ねてたって、絶対代わりに愛したりしなかったのに。
そう願ったのは自分なのに。
嬉しくない。
「……っ…ぁ…」
悲しい。
否定されたのだ。
自分を。白石蔵ノ介を、跡形もなく。
否定された。
とうとう。
千歳にも、否定された。
全部を。
なんでや、千歳。
俺、ほんまにお前の願い、叶ってよかったって思ったんに。
お前は違ったんか?
なんで、自分が楽になった途端。
…否定するん?
からん、と歩道橋からなにか落ちてきた。
多分、上にいる奴らが落としたんだろう。不良かなにかだ。
ナイフ。
俺には、もう誰もおらん。
先生も、千歳も、もういない。
俺は、こんな場所で一人で。
それなら、一緒にお別れしてもいいだろうか。
明日にはここから去る、嵐と一緒に。
ナイフを手に取った。
雨が五月蠅い。
傍に来て。なにか言って千歳。
いつもならお前が抱きしめてくれたのに。
嵐がうるさくて、聞こえない。
顎を上向かせて、開いた首筋に向かってナイフを振り上げる。
もう、いい?
「……ばいばい」
振り下ろしたナイフが皮膚を裂いて、血が地面に落ちて、雨に流されていく。
『 白石 お願い ここからお別れなんかしないで 』
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