アルファルド

 第六話−【嵐、去る】



 来ることのない痛みは、命が尽きた証だろうか。

 ぽたり、と顔に落ちる雫。

 その感触が、雨粒じゃないと気付いた。

「…………」
 茫然と、開けた瞳に映る視界。
 白石自身に振り下ろしたナイフを、背後から伸びた手が掴んで止めている。
 その人間の空いた手が掴むのは、白石の身体だ。
「……………」
 ここまで薄汚れてなお、この心は期待して、振り返った。
「………ちと……せ」
 ナイフを掴む男の名前を呼んだ瞬間、白石は強く抱き寄せられるとナイフを手から奪い取られる。
 そのまま地面に投げ捨てられたナイフが転がった。
「…ちとせ……」
 名を呼ぶことしか出来ない白石を抱きしめて、千歳が強ばらせていた顔をやっと緩める。
「………生きててよかった……………」
 その言葉に、安堵を映す彼の顔に、いけないと知るのに両手を伸ばしてすがりついた。

「千歳………!」

 嵐の中、それでもさよならなんか出来ないと知る。

 呼ぶ声が、まだここにはあって。




 千歳が呼び出した渡邊の紹介で、騒ぎ立てないでくれる類の医者にかかった千歳は右手に包帯を巻いて、千歳の家まで送った渡邊に言っていた。

「あんたが悪くないとは言わん」
「…知っとる」
「…俺が、悪くないとも…言わん」
 それに、渡邊は少し目を細めただけだった。



 千歳の家に、ほぼ保護という形で連れて来られて、卓袱台の前に座らされる。
 促すように肩を抱く手は、包帯に覆われていて。
「…白石?」
 柔らかく聞かれても、涙しか溢れない。
「…どげんした? …痛か?」
「…………っ……た」
「…ん?」
 あやすように背中を撫でられ、抱きすくめられる。
 もう、こんな風に、この腕に、

 抱きしめてなんかもらえないと思ってた。

「……俺、…取り返しつかんことした」
「……ついとうよ?」
「でも…っ、…よりによって死…死ぬなんて…っ、…みんなの信頼、裏切る真似した…」
「……」
「先生を……千歳を裏切る真似した……っ」
 強く自分を責める、その涙の伝う頬を撫でた。
「…失望された。……センセに……千歳に………」
 自分の手の上まで流れる涙を舐めて、そのまま瞳に何度もキスをする。
 うっすらと瞳を開けた白石の髪を撫でて、そのまま唇を塞いだ。

「……ちとせ」
 キスされたことに、驚いた白石の濡れた瞳を真っ直ぐ見つめる。
「俺は、失望した人間に、キスなんかせんよ」
「……なんで?」
「…謝るんは、…悪かったんは、俺の方」
 ほんなこつ、先生も悪か。
「…俺は、白石を否定したかったんじゃなか。
 …俺は、もう白石の幸せを祈れん。だけん、あげんこつ言った」
「…否定、したんやないん?」
「違か。…俺は、白石の幸せを今でも祈っとう。
 お前が笑うんを、守りたいて思う。…切なかほどに、…痛いほど。
 ばってん、お前が先生と結ばれて幸せになるんはイヤばい。
 …幸せになるなら、俺の腕の中やなか許せん……」
 泣くことすら忘れたように、見つめてくる翡翠はまだ涙に濡れていた。
 それを舐めるようにキスして、もう一度唇にもキスを落とす。
「…俺はお前を愛しとうから、お前の気持ちば否定した」
「……ちとせ……」
「…ごめん。卑怯で。ばってん、…こっち向いてなんてすぐには願わんから。
 …お願い白石。
 ここから、お別れだけはせんで。
 …この世界から、…いなくなったりせんで。

 お前を失って、…俺はもう立てなか。

 ……愛しとうよ白石。…共犯者やなく……お前自身を」

 声も出せず固まったように千歳だけを見ていた顔が、不意に歪んで泣き出した。
 悲しみからじゃなく、ただ安堵から。

 必要なんだと。

 まだ自分は要るんだ、と。

 知って、声にならないほど安心したから。


 その身体をずっと抱きしめる腕が、泣きたい程暖かい。



 繰り返し千歳の名前を呼びながら、ずっとその腕にすがっていた。






 夜が明ける。

 アラームの音に意識が眠りから引き上げられて、むずがるようにまるまるとその身体が不意になにかに包まれた。
 抱きしめられた、と理解して瞼を開けると、隣で眠る千歳が微笑んでこちらを見ていた。
 身体はすっかり、彼の腕の中に収まっていて。
「…おはよ、白石」
「……」
「しらいし?」
「…おはよう」
 目を伏せて答えたのは気恥ずかしいからだ。
 あんな風に、愛を告げられたのは、初めてで。
 すると、すぐ髪に手を差し込まれて口にキスをされた。
「…ちょっ…」
「白石、」
「…待てや。……まだ、お前のもんでもないん…に」
 拒みながら口にして、ふと声は途切れてしまう。
 見つめる顔が、幸せそうに、あまりに緩んでいるから。
「……なに、その顔」
「白石の唇、甘かね。すごく」
「味がするわけないやろ」
「甘かよ? …そう…、こん甘さはショートケーキの生クリームかチョコより甘か」
「言うな! しゃべるな離せ!」
「ばってん、お前の力じゃ抜け出せなか。俺はまだ離す気がなか」
「なんで!」
「離したくなかもん」
 さらりと告げられて、白石は布団の中なのにへなへなと脱力した。
「…白石、顔、まっか」
「当たり前や」
「…白石」
「なんや」
「…キス、したことあっと?」
「…お前、何度もしといて聞くんか?」
「俺以外と」
「…?」
「…先生とか」
「ない!」
 答えた瞬間、嬉しそうにその顔は笑うから。
「よかった」
「……」
 つられて、俺まで笑ってしまった。

 胸が暖かくて、なにかが染みていく。

「…ちとせ」
「なん?」
「………ありがとう」
 言葉にすると、もっと暖かかった。
 そのままぎゅっと抱きしめられて、拒まずしばらくそこにいた。










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