決して咲かない青いバラ
永四郎は、綺麗だ。 そう自分は思っている。 少し神経質な仕草。女性らしい身体捌き。伸ばされた時の真っ直ぐな指先。 彼を形取る、全てが美しかった。 彼が愛しい。彼がかな(愛)しい。 知念にとって、彼と一緒にいられる時間こそが、至上の時だった。 「ああ、まだ打っていたんですか?」 沖縄の陽は、十月になっても長い。 もう七時だというのに、空はやっと茜を見せたばかりだった。 テニスコートに立っていた知念を見つけて、駆け寄ってきた木手の手には沢山の資料。 きっと、また部活のメニューを作成していて遅くなったのだろうと予想がついた。 「永四郎こそ、まだ残ってたのか。家でやればいいのに」 「学校でやると、コートが見えて、ああ、こうすればいいって浮かぶんです」 「そうか」 短く相づちを打って、知念はボールを片づけ始めた。 すぐ、木手の細い指先が手伝いにボールを拾い始める。 いい、と言っても無駄なことはよくわかっている。 テニスに関わること、部員である(であった)自分たちに関わることで、彼はとても真摯で頑固だ。 知念には決して言葉に長けていない自分が(ただでさえそれで同じレギュラーだった不知火に苦手にされている)弁で圧倒的に強い木手に勝つという目標は最初からなく、彼の行動には逆らわず無言で従ってしまうのが常だ。 だからといって知念は自分がない人間ではないし、消極的でもない。 言葉を上手に選べないだけで、身体だけなら学校中の誰より大きいし、逆らうつもりなら逆らえる。それが不当な命令なら逆らうことは躊躇わない。 知念が木手に逆らわないのは、純粋に木手のすること全てが正しいからだ。 逆らう理由も余地もない、その正しさにわざわざ逆らう労力を消費する物好きもいない。 木手の言うとおりにすれば強くなったし、自分ではうまく出来ないこともうまくいった。 小学校六年の時に木手にテニスに誘われた知念の木手に向ける感情が、歪みのない真っ直ぐで純粋な信頼に変わるのに時間は必要としなかった。 「はい、これで最後」 「ありがとう」 「いいえ。知念くんも」 「……?」 そこでお礼を言われる理由が見つからない。 不思議そうな顔をした長身を見上げて、木手は笑う。 「引退したから、後輩に迷惑がかからないように、後輩が帰った時間を見計らってコートに入っているでしょ?いつも。知念クン、優しいですよね。甲斐クンや平古場クンなんか、遠慮なく部活中に顔出して引っかき回していくのに」 まあ、あの二人は歓迎されているからいいけど、と木手。 副部長だった甲斐は、ひどく後輩に慕われている。意識して厳しく部を率いていなければならない木手に代わっていつだって明るく後輩を励まし、早乙女のしごきに泣く後輩がいれば泣きやみ落ち着くまで自分の練習時間を削っても傍にいて話を聞いてやる。 甲斐はそんないい副部長だった。木手も、そんな甲斐を副部長に選んでよかったと感謝している。 そんな甲斐が顔を出してイヤな後輩がいるはずもない。甲斐が顔を出せば、笑顔で全員が迎えるのがいつもの風景。 平古場は、どちらかといえば一匹狼気質で他人に左右されてばかりいる人間も、左右されることも大嫌いな人間だ。 ダブルスの相棒だった知念の性質がたまたま彼の“大嫌いな人種”に抵触しなかっただけなのか知らないが、知念は平古場に味方贔屓されていて甘えたことも言われたが、平古場に容赦なく罵られて泣く奴は比嘉中に男子女子・先輩後輩構わずいた。 最初会った時はとんでもないトラブルメーカーを誘ったものだ、と木手に思ったが。 だが平古場は決して他人を馬鹿にしていないし、軽んじてもいない。 彼はただ、自分がない人間が嫌いなのだ。 だから他人に簡単に影響を受ける人間を嫌がる。 それは彼の素直な感想で、知念だって彼ほどではないけれど揺らいでばかりの優柔不断な人間には嫌気がする。 平古場はただ自分を偽りたくないだけで、彼らを侵害する悪意など全くないのだと知れば、あと彼に抱く残りの感情は仲間としての愛情だけ。 今となっては平古場のそんな姿勢をどちらかといえば好ましく感じる。 そう感じるのは自分だけではなく、平古場は多くの男女を問わない後輩から格好いいと好かれている。その黙っていれば人形のような外見も相まって、平古場は人気がある。 彼を慕う後輩は特にテニス部に多く、テニスに関われば雰囲気が近寄りがたいものから柔らかいものに多少なり、甲斐と一緒に軽口を叩き、笑いあう平古場を怖がる後輩はいない。 この二人は本当に部員に好かれている。 「あの二人は、あれでいい、と思う」 「まあ、あれがなくなったら、甲斐クンと平古場クンじゃないけど」 「うん」 「甲斐クンも、受験が近くなって危機感を持ったのか、遅刻しなくなったしね」 そう言って我がごとのように安心する木手。 部員に好かれているのは、一番は木手だ。 26年ぶりの沖縄全国進出の立て役者として、教師からも期待と信頼厚い元主将。 たった三年の時間で全国に行ける体制を作ってしまった木手はすごい。 テニスの腕も全国区で、部活に厳しいが決して社交的でないわけではなく。 笑う顔もテニス部ではよく見せる。なにより指導に嘘がなく、彼に教われば必ず強くなる。 早乙女は刺激すれば余計酷い行いに及ぶ教師で、だからこそ目立たないよう後輩の負担をさりげなく軽くする配慮をいつだって木手はしていたし、それに気付かない後輩たちではない。 木手は、好かれている。 とても、尊敬されている。 同級生なのに、田仁志などもそうだ。 一度同級生を尊敬するって言うのかと言ったら(イヤな意味でなく、同級生との関係に使う言葉としてはおかしくないかという意味で)、だってその通りだからと当たり前の態度。 田仁志は今でこそ、試合中に相手を挑発出来るが、元は例外に漏れず大きな巨体からからかわれがちで内気な性格をしていた。 そんな彼にビッグサーブを教え、巨体だからこそキミにしか出来ないと、田仁志がマイナスに思っていた体躯をプラスに変えてくれた木手を、尊敬するなというのは無理かもしれない。 そんな風に、木手はみんなに絶対だった。 彼が他人に強いているのではない。自然、そうなるのだ。 今だって、引退して受験も近くなってきたのに相変わらず次につなげるために、後輩たちへのメニューを遅くまで考えている。 そんな木手を、知念も尊敬していた。 「じゃ、帰ろう知念クン。着替えるの待ってます」 「先、帰らなくていいのか?」 「ええ、俺が待っていたいんですよ」 「わかった。じゃあ、すぐ着替える」 言ってクラブハウスに消えた知念を見送って、木手はクラブハウス脇のベンチに腰掛けると、見落としがないか作成したメニューを簡単に読み始めた。 クラブハウスで手早く着替えながら、外で待つ木手を思った。 クラブハウスの鍵は、いつも知念が自分が戸締まりするからと新部長になった新垣から預かっている。 “俺が待っていたいんですよ” そういわれた時、間違いなく喜びにはねた鼓動。 いつしか、木手に抱く感情は信頼や尊敬ではなく、醜さと欲望を伴った恋慕に変貌した。 彼を変わらず信頼し、尊敬する傍らで、彼に近寄る生徒に彼に触れるなと心で叫ぶ。 彼を、汚したいと思う。 彼を女のように貫いて、鳴かせたいとさえ欲望が願う。 ―――――――――――――こんな醜さを、木手だけには知られたくない。 “先、帰らなくていいのか?” 「……この嘘つき野郎」 小さく自分を罵った。 彼が待っていてくれるとわかった上でそう言った。 彼なら待っていてくれる、一緒に帰ってくれる、そう願ってすらいるのにそんな返答の分かり切った意味のない遠慮を述べる時だけ弁が立つ。 そんな自分が、とてもイヤだ。 平古場はどう思うだろう。 他人に左右されるのが嫌いな彼が、他人に左右されている今の自分を見たら。 矢張り嫌いだと罵るだろうか、それとも相手が木手だから仕方ないと溜息を吐いてくれるか。―――――――――――――或いは。 「…あり得ないな」 一瞬浮かんだ考えに笑って、着替えをバッグにしまうとノブに手をかけた。 ここにもう、自分のロッカーはない。 それが引退ということ。 今まで自分が使っていたロッカーも、教室も、机も椅子も、やがて違う人間のものになる。 それが卒業ということだ。 それに寂寥を感じることはある。まだ早いと甲斐は笑うだろう。 だが、進学校は全員一緒だった。 全員で、また全国を目指せる。 その未来に比べたら、今の寂寥などちっぽけだ。 早く行こう。永四郎は待つことに馴れているが、待たせていいわけではない。 ノブをひねる。扉が開くと、ようやく沈み始めた太陽の赤が見えた。 「あ、知念くんに木手!」 帰り道、商店街で寄り道癖だけは相変わらずの甲斐に遭遇した。 明るく手を振って駆け寄って来た彼の背中にも、相変わらずのテニスバッグ。 トレードマークの帽子が、今日はない。 「甲斐、帽子は?」 「あ、なくした」 「なくした?」 鸚鵡返しに木手が聞いた。 「てゆーかあげた。さっきさ、迷子の女の子見つけて、交番まで連れてったんだけどすっかり懐かれちゃって。 俺が帰ろうとするとまた大泣きするもんだから、じゃいつでも会いに来ていいよって帽子あげたら泣きやんだから」 「そうか」 あまりに甲斐らしいエピソードに、知念も木手も笑う。 帽子は甲斐のお気に入りだが、こういう時それを優先しない彼の善い潔さが好きだ。 「二人はまた居残りメニューと練習?」 「キミ、今日また顔出したでしょ」 「…いいじゃん」 怒られる、とわかって甲斐が勢いをなくす。すると。 「宮城クンが直し方のわからなかった間違ったフォームを直してもらえてとても助かったと言ってましたよ。有り難うございました」 説教ではなくお礼を口にした木手に、覚悟をしていた甲斐の顔がきょとんとなる。 「俺はあまり顔を出せませんからね。本当は助かってるんです。 どうせなら今度は田仁志クンも誘ってください。今、彼勉強に疲れてちょっと集中なくなってますし」 テニスすればすっきりするでしょ、と木手。 「お、おう! 俺慧くん好きだからまた打ってもらう! 任せろ!」 「はい」 またハイテンションに明るくなった甲斐に笑って、キミは今帰るところ?と聞く。 「うん。昨日やっと父ちゃん帰ってきたんだ。あまり遅くなると怒られる」 甲斐の父親は漁師だ。家を1年あけることがよくあって、二年の夏からずっといなかった。それがやっと帰ってきたらしい。 「そうですか。なんだかんだいって嬉しいでしょ」 「うん。テニスどうだって聞かれて、全国行ったって言ったらよくやっただって。 優勝出来なかったけど、高校で絶対するって言っといた! な、絶対優勝しような木手!」 「当然です」 「よし!知念くんも!」 「わかってる」 「うん。あ、じゃ俺こっちだから、じゃまた明日!」 転ぶぞと思う体勢で振り返ったまま甲斐は駆け出す。 それを見送って、木手と知念が再び歩き出して五分と経っていない。 空が泣き出した。 最初、ぽつりぽつり程度だった雨はすぐ大泣きに変わり、傘のない二人を容赦なくずぶぬれにした。 「永四郎、寄ってって」 家は知念の方が近く、木手の家は知念の家から更に一時間歩かなければならない。 止む気配の全くない大雨のなか帰せないと家の前で引き留めた知念に、木手は仕方なさそうに甘えた。 →[ラフレンツェの傷] |