それは不可能の代名詞

決して咲かない青いバラ








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36.7度の波打ち際
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 おじゃましますと母親に挨拶して、タオルで髪を拭きながら沸かしてもらった風呂を木手に譲った。
「え?いいですよ。キミが先に入ってください。俺は客です」
「だから。客を待たせて風邪ひかせたなんて、それこそ母さんに怒られる」
「そうよ永四郎くん。この子大きいからそんな簡単に風邪なんか寄りつかないわよ。
 先入っていいわ」
 母親にまで勧められて、木手は苦笑すると風呂場に消えた。
「永四郎くん、相変わらず礼儀正しいわね。やっぱり部活、顔出してるの?」
 床を汚さないよう身体を拭くだけして脱ぎやすい部屋着に着替えてきた息子に、母親が聞く。
「いや、あまり出してない」
「そうなの?」
 意外そうな母親に知念は淡々と。
「主将としての永四郎の影響がすごいのは本人もわかってるから。
 だから、自分があんまり顔出すと今の部長の浩一が大変だからって」
 浩一――――――――新垣のことだ。
「ああ、それならしょうがないわね」
 母親は納得してころころ笑った。
 父親を事故で失ってもう三年になる。当時は泣くばかりだった母親もすっかり明るさを取り戻して、遊びに来る友人たちを暖かく迎える。
 知念の父親が亡くなっていることを知っている甲斐たちもだからといって遊びにくることを遠慮しない。気を遣う方が失礼だと思う彼ららしい。
 その時、風呂場の引き戸が開く音がした。
 椅子から立ち上がって廊下に出る。
「すいません、服」
 借りてしまって。と遺してあった父の服を着た木手がタオルを肩にかけた姿で礼を言った。
「いい、じゃ俺入ってくるから。止むまでいて。
 あと一時間しても止まなかったら泊まっていって」
「……。はい」
 ここで遠慮するのは逆に失礼だとわかる木手が、素直に頷いたのを見てから知念は着替えを持って風呂場に向かった。
「お風呂、有り難うございました」
 居間に挨拶に入った木手を、母親は椅子に促した。
 素直に座った木手の傍に立って、彼女は微笑む。
「いいのよ、甲斐くんたちもそうだけど、お友達が来るだけでおばさん嬉しいわ」
「そういっていただけると助かります」
「寛ったら、ああいう子でしょう? もう中学入るまで友達なんて連れてきたことなくて。
 初めて永四郎くんが来た時、寛が“友達”って言ったの聞いておばさん一瞬世界がひっくり返ったかと思ったのよ」
「それは…すごい表現ですね」
「でも本当よ?だからよかった。永四郎くんがお友達になってくれて。
 甲斐くんたちもいい子だし。こんな風にお友達をもてなすことなかったから、とっても楽しいのよ。だから遠慮しないで泊まっていってね」
 そう本当に楽しそうに言われて、断れる筈がない。
「じゃあ、…お言葉に甘えさせていただきます」
「本当?よかった!おばさん腕振るっちゃうわね。
 布団も干したばかりでよかったわ。寛の部屋でいい?」
「はい」
「じゃあ後で寛に運ばせるわね。永四郎くんはお客さんなんだからのんびりしていいのよ。
 それより、嵐の相手をしてあげてくれない? あの子、すっかり永四郎くんに懐いちゃって」
「俺でよければ喜んで」
 嵐、知念の今年小学校三年になる弟だ。
 父を幼くして失い、ふさぎ込んでしまった彼は学校を今長期で休んでいる。
 そんな嵐は、兄が連れてくる友人をひどく慕って懐き、特に木手に甘えた。
 木手も弟が出来たようでイヤではなく、むしろ嬉しかった。
「でもあの人の服、とっておいてよかった。寛は大き過ぎるし、嵐はまだ小さいから」
「……ち、寛くんはお父様似なんですか?」
「そうね。顔や寡黙なところは似ているけど、あの背の高さはお祖父ちゃん似ね。
 お祖父ちゃん、滅多に母屋来ないから会ったことないでしょうけど本当に背が高いの」
「あ、会ったこと、ありますよ」
「そうなの?」
「はい。俺、家が道場ですから。寛くん、お祖父様の勧めで道場通い始めたって聞いてます。それで家が道場だって話したらいろいろ聞きたいって」
 今日は急だったから会ってませんけど、と言うとまあと母親は笑った。
「本当、永四郎くんが来てくれると助かるわねぇ。いっそ永四郎くんがうちの子ならよかったわ」
 知念を否定するつもりが母親にないただの冗談でも、生真面目な木手はどう答えたらいいかわからず曖昧に微笑んだ。きっとこんな時甲斐なら「俺もこんな美人のお母さんなら大歓迎です」―――――――――と笑って言っただろう。母親の言葉はそんな種類の他愛ない冗談だった。それすら受け流せない自分が少し、木手はイヤだ。
 そこで知念が風呂からあがってやってきた。
「ああ、寛。永四郎くんが寝る布団、あんたの部屋に運んでおいてね」
「ああ、泊まっていくのか。わかった」
「俺…ああいいえ、頼みます、すいません」
 俺が運ぶと言いかけ、母親に弟の相手を頼まれたことを思い出したらしい木手の迷い箸のような台詞に、知念は一瞬首を傾げた。




「悪かったな」
 夜の十時になって、ようやく嵐は寝た。
 というより、なお木手に甘えるのを母親に、もう遅いから眠りなさいと言われて自分の部屋に戻ったのだが。
 知念の部屋に来て、敷かれた布団に座った木手に謝ると、木手はいいえと笑う。
「俺、弟いないからすごく嬉しいですよ。とんでもない」
「ならよかった………………」
 言いながら、じーっと自分を見つめる知念に、木手は少し居心地が悪そうになにか?と聞く。
「いや、髪おろしたところ、久しぶりに見たと思って」
 部活でも滅多に崩れないそれが今のように完全におりたところを見たのは、全国大会のために泊まった東京のホテルで見たのが初めてだ。中途半端におりたところなら早乙女のスパルタ練習でいくらでも見たが、意外としっかり固まっている髪型は案外崩れにくい。
 木手の髪はおろすと案外長く、肩に触れるくらいまであるそれは艶やかで、そうしていると酷くかわいらしく見えた。
「ああ、そうでしたね。時間かかるから、寝る前にわざわざ直したりしませんよ」
「俺は、そっちの方がいい」
「そうですか?」
「うん」

(可愛くて)

 とは口に出さない。永四郎がかわいいことなんて、自分だけが知っていればいい。
「じゃあ、寝ましょうか」
「そうだな。明かり消す」
「はい」
 横になった木手を見下ろして、知念も明かりを消すとベッドに横になった。
 しばらくすると、下から寝息が聞こえてくる。
 寝付きのいい木手はすぐ眠ってしまう。知念も寝付きはいい方だ。
 だが、傍に木手がいる状況は、そう簡単に脳を眠らせてくれない。
 ベッドに肘をついて、その眼鏡のない寝顔を見下ろす。
 とても、綺麗だ。
 馴れた目では暗闇でもよく見える。
「……永四郎」
 呼ぶが、彼が目覚めないことはわかっていた。
 彼は寝付きが良い代わり、寝起きがひどく悪い。
 ただ体内時計が正確なため、部活で問題になったことはないが。

 綺麗だ。

 そう感じると、リアルに欲望を覚えた。

 抱きたい。

 その妄想を振り払う。俺たちは友達だ。なにを思ってるんだと。
 それでも、その欲望は強く、全く消えてくれない。

 抱きたい

 駄目だ。このままではきっと寝顔に口付けてしまう。と欲望を一時的でも忘れるためにベッドに横になって無理矢理目を閉じた。
 寝ようと集中する。だがきっと見る夢は彼を犯すような夢だろうという予感がした。
「…ん」
「…………永四郎?」
 まさか起きたのだろうか。そう思って覗き込むと、寝ていた。寝言だ。
 なんだと戻ろうとした時だ。
「…ねん…クン」
 漏れた寝言は、自分の名の形をしていた。

 駄目だ。

 そう思うのに、身体は言うことを聞かない。
 そのまましゃがみ込んで、その眠る唇に自分のそれをそっと重ねる。
 唇からは、甘い味がしたように感じて、麻薬のようだと思った。
 木手は起きることなく寝息をたてている。

 ただの事故だ。

 自分から明確な欲望でしておいて都合のいい言い訳だったが、他に思いようがなかった。
 そのまま唇でそっと鎖骨の下に触れる。寝息が変わらず聞こえることを確認して、小さく吸った。
 暗闇にもわかる赤い鬱血の跡が鎖骨の下に咲いたのを見て、つくづく自分は狂っていると思った。




 三日後の学校ではクラブハウスの一斉清掃が行われた。
 教師からのお達しだ。
 翌日から大型連休で部活も実質今週はこれが最後という運動部の部員たちはそろって掃除に取りかかっている。
 それには元部員の三年生が混じる部もあって、テニス部もそれに漏れず元レギュラーが集まっていた。
 黙々と片づける木手・知念・平古場と違い、黙っていると落ち着かない甲斐はさっきから田仁志に話しかけてばかりいる。
 木手が怒鳴らないのは手がそれでも動いているからだ。
「じゃ、ゴミだし行って来ます」
「あ、俺も行く!」
 一回目のゴミ出しに行こうとした木手を、甲斐が呼び止めた。
「一人で持つの大変な量じゃん?」
「ああ、じゃあ頼みます。こっちを」
「うん。じゃ慧くん行って来るね」
「なんで慧だけに言うんだよ」
「だって凛は話してくんないもん」
「なんだそれ」
 残る平古場と簡単な言い合いをして、二人はクラブハウスを出た。
 少し行くとバスケ部が掃除の合間に脱線したらしい。水飲み場で水の掛け合いをしていた。
「ああいうの沖縄だからだよなー」
 甲斐が横を通り過ぎながら言った。
 確かに今の季節、本土では水の掛け合いをするにはもう寒い季節だ。
「まあね」
「でもさ、っわ!」
 勢いよく噴射されたホースからの水の飛沫が木手と甲斐を直撃した。
「あ、悪い!」
 バスケ部員がとっさに駆け寄った。
 どうやら二人の手前にいた生徒を狙ったらしいが、その生徒が避けたため二人に当たってしまったらしかった。
「いいけど、先生に見つかる前にやめろよ?」
 さして怒っていない甲斐が淡々と言う。
 ほんとごめん!と木手の前でその生徒が手を合わせる。
「いいですよ。すぐ乾きます」
「ほんとごめんな!あ、タオル貸すし!それも俺たちが捨ててきてやるから!」
 言ってゴミを奪うと他の生徒が二人にタオルを手渡した。
 甘えた方がよさそうだ、と二人は従うことにした。

「あー、体操服でよかった」
 汚れる清掃に加えて、今日はこの後お遊びの部活対抗バスケの試合がある。
 引退した部員限定でだ。
 それまでには乾くだろう。
「そうですね」
 一番派手に濡れた頭を強く拭いて、木手が顔を上げた。
「…………」
「どうか?」
「あ、ああ。やっぱ、髪降ろすと別人だよな、木手」
 強く拭いた所為で完全におりてしまった髪を見て、甲斐がしみじみ言う。
「キミもそういうんですか」
 苦笑した。そこにゴミを出しに行ったバスケ部員が戻ってくる。
「はい、袋。まだ使うだろ……木手は?」
「あ、これが木手。髪崩れちゃった」
 甲斐が隣に立つどう見ても美貌の麗人を指さした。
「…え? 木手? これが?」
 怪訝というより、酷く驚愕した顔でバスケ部員が何度も問う。
「嘘!すっげー美人!」
「や、木手は元から美人」
「甲斐クン…」
「木手、バスケそのままやれよ!またセットする時間ないだろ?」
 テンション高くいうバスケ部員に、まあそうですけどと木手。
「よし!絶対そのままでやれよ!じゃ掃除頑張れ!」
「お前らんとこもなー」
 投げやりに甲斐が言って、二人はクラブハウスに戻った。








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