それは不可能の代名詞

決して咲かない青いバラ








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36.7度の波打ち際
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「ただいまー」
 甲斐の間延びした声に、クラブハウスの中から平古場のおーという声が返っただけで、彼も知念も振り返らない。田仁志だけが振り返って、「不知火が後輩見に行った」と甲斐に教える。
 後輩たちは今木手に言われて練習をしている。早乙女が顔を出さない今日、後輩をテニスだけに集中させてやりたいという木手の意見で、クラブハウスの清掃は、テニス部は引退した三年だけでやることが決まっていた。
「あれ、主将は?」
 田仁志がふと言った。こいつは、と甲斐が思う。多分凛も思った。
「慧くん、それさ、イヤじゃないけどこーいちが形見狭くなるからやめたげて」
「…あ、ああ、すまん。どうも、主将って呼ぶ癖が抜けない」
 思えば田仁志は木手を「主将」以外の呼び名で呼ばなかったから、なんと呼べばいいかわからないのだろう。それがわからなくもないので、甲斐は責められない。
「デブの馬鹿」
「凛!その言い方も駄目!」
 田仁志より先に、田仁志贔屓の甲斐が怒った。
 だが平古場は全く気にせず、掃除を続けている。甲斐は言うだけ無駄と悟って肩を落とした。
「甲斐クン、あとで俺が怒っておきますから」
「そうだけど…凛はさぁ」
「………………」
 田仁志の目が、文字通り点になった。
 まん丸な目をパチパチと瞬きして、それから。
「主将、なんで髪おろしてるんだ?」
 と言った。
「だから主将は……、いやいいや。
 うん、さっきいろいろあって」
 甲斐が説明のような言葉を乗せた時には、驚きの顔で知念と平古場が振り返っていた。 甲斐の隣に立つ、髪の降りた木手を凝視している。
「ちょっと不注意で。多分、掃除終わったあと対抗バスケまで一時間も時間ないでしょうから、このままやりますよ」
「……永四郎、髪降りてるとなんか可愛い」
 平古場がぽつりと言った。
「あ、それ俺もわかる。綺麗だけど可愛いよな」
 甲斐が賛同して、田仁志も頷いた。
 その中で知念だけが固まっている。
「知念くん?」
「………なんで?」
 甲斐の言葉に、知念はやっとそう言った。
「いや、バスケ部通りかかったら水の掛け合いしててさ、とばっちり」
「それでバスケやるのか?永四郎」
「ええ。だって暇ないでしょ?」
「セットして来い」
「……知念クン?」
 怪訝な目を向ける木手に、なおも知念は同じことを言った。
「だって、時間が」
「ワックスは持って来てるんだろ。掃除は俺たちがやっておくから」
「出来ませんよ。そんなこと」
「いいから」
「……知念クン?」
 いよいよおかしがった木手があからさまに眉をひそめた。
「ちょっと、キミおかしいですよ?いつものキミらしくない。
 どうしたんですか?」
「どこもおかしくない。普通のことを言ってる」
「おかしいでしょ。そんな公私の私を優先しろなんてキミが言うなんて」
「いいから直せ!」
 堂々巡りになり始めた会話を断ち切ったのは、今まで他人に怒鳴ったことなど誰も見たことのなかった知念の怒声だった。
 一瞬にしてクラブハウスが静まりかえる。
 その怒声は明らかに木手を向いていて、言った知念も一瞬後にはまずいと我に返ったが、一度出てしまった声は戻せなかった。
「……あ、いや、永四郎」
 違う、そうじゃなくて。どう説明したらいいんだ。
 ただ、そんな可愛いお前を他の奴らに見せたくないだけなんだ。
 そんなこともっと言える筈もなく。
 軽く俯いてしまった木手の顔を、普段上げられている髪が覆い隠した。
 胸がずきりと痛んだ。確実に傷付けてしまった。
 彼を傷付けたという恐怖が、知念の頭を鳴らした。
 木手は無言でクラブハウスに足を踏み入れると、そのまま何事もなかったように掃除を続けた。
「永四郎?」
 平古場が案じるように呼んだが、彼は結局掃除が終わるまで無言のまま俯いた顔もあげてはくれなかった。




 ボールの転がる音が響く。
 体育館では今テニス部と野球部の合同チームが、バスケ部とバレー部の合同チームと試合を行っている。
 結局髪を直さなかった木手は、降りた髪のままボールを受け取るとレイアップシュートを決めた。
 やったー!と歓声をあげた野球部の三年が木手の肩に腕を回してくるのに、木手は笑って答える。二時間前までのあの俯いた顔が嘘のようだった。
 髪が降りたところなど見たことがなかった他の生徒は、矢張り驚いた。
 そして次には「綺麗」「可愛い」と口にして、「週明けからそのままで来いよ!」と木手に強請った。
「知念の馬鹿」
 補欠になっていた平古場が、同じく補欠で隣に座る大きな身体をぼそりと罵った。
「……」
「永四郎、ぜってー傷ついた」
「………ごめん」
「俺に謝るな。むかつく」
 平古場の罵る声が自分を向くのは、出会った時以来だった。
 それよりなにより、木手を傷付けた一点に心が痛んだ。
「…」
「言えばよかったんだよ。あんなん」
「……え?」
「『他の奴に見せるな』って言えばよかったんだ」
 平古場の意外な言葉に、知念は瞬きも忘れて彼を見遣った。
 あの日、あのとき、平古場ならどうするだろうと考えた。
 罵るか、木手だから仕方ないと溜息を吐くか、それともと。
 あり得ないと一瞬でうち消した最後の平古場の選択肢。
「そういえば永四郎だって聞いてくれたかもしれないだろ。馬鹿」
「……平古場?」
「いいじゃねーか。好きな奴独占したいって思ったって」
 さらっと彼は言う。
 もう一つの、最後の選択肢。

(“それとも、背中を押してくれるだろうか―――――――――――――”)

 平古場は、そのあり得ないとうち消した選択肢を選んでしまったのだ。
「……そんな風に、押さないでくれ」
 零れた声は、我ながら情けなかった。
「俺は、汚いんだ。永四郎を思うと、どんどん汚くなる」
「イヤなのか?」
「イヤじゃない。永四郎を好きになってイヤだったことなんて一つもない。
 後悔だってしてない。
 ただ、怖い。汚したくなんかない。好きでいさせてくれるだけで俺はいい。
 いいのに、……他の奴に笑うな、触れるな、話しかけるなって…思う俺もいる。
 ……自分が、こんな酷い奴だって知らなかった」
 それに永四郎は責任なんて一個もない。と言うと平古場は呆れるように知念の肩に頭を乗せて来た。その金髪がさらりと知念の肩を流れる。
「人間好きになるってことは、綺麗なことばっかじゃねえよ」
「知ってる」
「独占したがってなにが悪い」
「でも、俺は永四郎の友達なだけだ」
「だったら恋人にでもなれ」
「…わからない」
「なにが」
「どうして平古場は俺の味方をするんだ」
 思ったことそのままが口に出た。
 自分は決して口達者ではなかったのに。
「平古場は罵るか、溜息を吐くだけだと思った。背中を押すなんてあり得ないと思った。
 他の奴にはそうするのに、なんで?」
 一息で言うと驚いた顔で知念を見上げていた平古場が、今度こそ呆れたという顔。
「俺はお前の相棒だ」
 それがなんだというのか。
「たった一人の相棒だ。お前以外は、俺の相棒じゃないしお前が俺以外を相棒だなんて言ってみろ。そいつ殺す。
 高校行ってからもお前とダブルス組む。他の奴となんか組まねえ。
 なぁ、俺何回お前を味方贔屓した?
 何回味方贔屓して甘えればお前はわかってくれんだよ。
 お前を俺が罵るわけねえだろ。ふざけんな。
 それにお前のそれは“他人に左右されてる”んじゃねえよ」
 人好きになって、その相手の気持ち考えない奴が恋愛出来るかよ。と平古場は吐き捨てた。
「好きだから気遣って、笑ってやりたくなって、味方贔屓してやりたい。
 それ当たり前だろーが。
 なに馬鹿言ってんだ」
「……平古場」
「何度言ったらわかる。お前の気持ちなんか筒抜けだ。
 とっくに知ってんだよ。だから俺はお前を味方贔屓しても一線はひいてた」
 今度は意味がわからなかった。
 味方贔屓することが何故一線を引くことになるのか。
「わかんねえ?」
 平古場の瞳は澄んでいて、真っ直ぐに知念を見つめた。
 その少女のような唇が、いつも自分を贔屓する唇が言った。

「俺はお前が好きなんだ」

 呼吸が止まる。
「お前が永四郎を好きなのと、同じ意味で好きなんだっつってんだよ。
 だから、俺は味方贔屓したし甘えた。
 お前が永四郎が好きだから、一線引いた。
 でも、」
 一呼吸おいて、平古場は知念を見上げた。
 それは、いつも自分しか信じていないような奔放な彼らしくない縋り付く子供のような瞳だった。
「お前が永四郎を好きでいられるだけで満足で、告白する気もねえんなら、俺はお前にもう遠慮しない」

 だってお前が好きなんだ。

 なにも言えなかった。
 断る言葉も、友達でいてくれという願いも、何一つ。
 ただ視線に縋り付かれて、見つめ返すことしか出来なかった。
 親を捜している迷子の子供が、手を引いてくれる赤の他人の大人を必死にすがって泣くその手を離せる大人がいるだろうか。世界で独りぼっちになった思いで泣く子供から、手を離せるだろうか。
 それと同じように、平古場から視線をそらせなかった。
 逸らされない視線を了解ととったように、平古場の顔が近づいて離れた。
 誰も見ていなかったが、今確かに自分たちはキスをした。
 その後、平古場は視線を自分から逸らして、ただ体育館を走る甲斐たちを見ていた。











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