決して咲かない青いバラ
その日、リストにあった生徒を当たって空振りに終わり、知念は仕方なく帰るところだった。 時間がないため、平古場も甲斐も、別の生徒を当たったら集合せず各自自由に帰宅することになっていた。 二人の携帯に「空振り」と打たなくてはならない。 大抵の生徒は、琉球空手の猛者と評判の自分たちを前にして怯えるだけで、嘘を吐くものはいなかった。 軽く声の調子だけで脅せばそれで十分だった。 特に同級生の間では乱暴者と定評のある平古場と、長身の自分は酷く怯えられてみな蒼白になって「知らない」と可哀相なほど繰り返し「見つけたら絶対教えるから」とまで約束してくれた。 溜息を吐き、一つの教室前を通り過ぎた時だ。中から声がした。 思わず足が止まる。まだ残っている生徒がいると思わなかった。 ただ、声は一つだった。友達と話している風ではない。 呼吸を潜めて聴覚に集中すると、激しい荒い呼吸が訴える意味に、気付いて馬鹿らしくなった。 学校で自慰している馬鹿な男がいる、それだけだ。 ばからしい、そう思って去ろうとした。その時、耳にその男の声で「木手」と聞こえなければ去ってしまっていた。 信じられない気持ちで振り返る。その男の声はなおも木手の名を呼んだ。 まさか、木手もいるのか。なにか強いられているのかと頭が真っ白になって確認もせず扉を思い切り開けた。中から悲鳴がした。 イヤな予想に反して、狭いその教室には男子生徒一人だけだった。 自分の性器を手で愛撫していた姿を見られて固まる生徒は、確かバスケ部の石井と言った。 「……ぁ」 情けない声が漏れる。 無言で去るのもなんだか馬鹿らしく、家でやれと言ってやろうと軽く近づいた時だ。 机の上に置かれた、いわゆるその男の自慰の「オカズ」が目に入って、呼吸が止まった。 そういえば、こいつは木手の名を呼んでいたではないか。 それは、バスケの時の木手の写真だった。 木手を、こんな汚い目的に使った。そうわかった瞬間、折られたラケットを見つけた時より激しい感情に襲われる。 そのまま無言で石井の胸ぐらを掴みあげると、怯える石井の声に構わずガツンと強く顔を殴り飛ばした。 軽い物のように石井の身体が飛び、机にぶつかる。 許してくれと繰り返す石井にも、知念が何故怒っているかはわかっている筈だ。 だからこそ、怒りを堪えて知念は呻るような声で一言だけ言った。 「今度永四郎をそんな理由に使ってみろ。二度とそれが使い物にならない身体にしてやる」 知念が限りなく本気だとわかって石井は首振り人形のように何度も頷いた。 使われた写真を奪うように机から拾うと、握りつぶしてその場を後にした。 残された石井のことなど知ったことではない。写真は、例え永四郎の写真でもあんな理由に使われた写真を残しておきたくない。帰り道を迂回して焼却炉に放り込んだ。 本当は、もっと殴りたかった。 殺してやりたかった。 永四郎を汚すな。永四郎を汚したあの男を、とても許せそうもない。 彼が本人ではなく、写真を使ったことをせめてマシだったと思うことしか出来なかった。 (遅くなった…) 自分の教室を出て、木手は足を急がせた。 ちょっとした用事のつもりが、思ったよりかかってしまった。 この分では早乙女は残っていないだろう。 仕方ない、明日にしようと廊下に出た時だ。 大きな音が向こうの教室でした。 なにかと思う暇なく、そこから出てきたのは知念だった。 身体が反射でびくりと震える。 知念は木手に気付くことなく、そのままいなくなった。 わかっている。それに安堵しながら、寂しい理由も。 わかっている。それでも、まだ怖かった。 いつだって、優しく傍にいてくれた彼だったからこそ。 彼の、言葉少ない無言の優しさが、好きだった。 その怒声が決して自分を向かないよう、主将として頑張った。 怒鳴られた理由はわからない。だが、ただ怖く、痛かった。 彼のなにかを裏切ってしまったような思いで、こんな思いでは彼になんと触れればいいかわからず、あんな態度しかとれない自分がイヤだ。 本当は―――――――――――――。 思案に沈みかけて、そういえば何故彼はあそこにいたのだろうと思いつく。 誰ももう出てこないところを見ると、誰もいないのか。 じゃあさっきの大きな音はいったい…?と覗き込む。 言葉が出なかった。 力無く床に座っている男子生徒がいる。 その頬は赤く腫れていて、誰かに殴られたことは一目瞭然だった。 そして、先ほどの大きな音と直後にここを去ったのは。 「……まさか」 思わず口にしてしまった。その声でその石井という生徒が顔を上げて、木手に気付いた。 「……それ」 追求せずにいられなかった。 血の気の多い甲斐や平古場ならわかる。だが知念は喧嘩になっても滅多に手出しはしない人間だと知っていた。余計信じられない。 すると、石井は嫌らしい笑みを浮かべて、立ち上がった。 「おい、今俺知念に殴られたぜ?お前の監督責任じゃないのか木手」 「…殴ったんですか、知念クンが」 「他にいるか?」 「…どうせくだらないことしたんでしょ?」 理由など他に見つからない。 「おいおい冷たいな」 吐き捨てた木手を、石井は更に笑った。 「いいのか?これが騒ぎになれば」 「キミ、馬鹿? 知念クンも俺も、もうテニス部員じゃありません。 確かに引退部員の飲酒は責任になりますよ。けど暴力沙汰は論外です」 おおかたなにかを引き換えに要求しようというのだろう。ばからしいと切り捨てた木手に石井は一瞬ひるんだが、すぐまた笑った。 「じゃあ、知念はどうだろうな?」 「?」 「暴力振るったのが知念だってのは間違いない。それが上にしれたら、知念の内申とか、世間体とか?」 その言葉に心臓が冷えた。そうだ、知念自身はなんらかの汚名をかぶることになるのだ。 「どうする?木手の態度次第で黙ってても…」 石井の言葉が途切れた。 木手がひどく冷静に扉を閉める。鍵もかけてしまうと自分に向き直った。 「で?」 「…で、って」 「なにをすれば満足ですか」 木手の冷静すぎる言葉に、石井の方が動揺した。 無茶な要求をされるとわかっているのに、木手は冷静さを揺らがさない。 「……じゃ、じゃあ俺の、銜えろ。飲めよ」 震える声で、これなら木手だってビビって動揺するだろうと口にした。 だが木手は相変わらず冷静な面で見つめ返すと、迷いなく歩み寄って石井の前にしゃがみ込んだ。 「え、おい…」 上擦った声をあげる石井に構わず、出されたままだった性器を躊躇いなく口に含んだ木手に、石井はただ頭が真っ白になった。 それでも為される愛撫に簡単に高められ、射精してしまう。 それをあっさり飲み干すと、木手は何事もなかった顔で立ち上がる。 「これでいいんでしょ? これで知念クンを貶めるようなことをしたら、キミにも相応を味わってもらいますから」 今他人の性器を銜えたとは信じられないくらい綺麗な顔で、言う木手に戸惑う。 「なんで…そこまで」 「……」 そう言われて、初めて木手は視線を揺らがせた。 それに堪らなく煽られてその胸元のシャツを掴む。 「なにか?」 「これで最後、本当に知念のことは言わない」 「…どうぞ」 木手はあっさり溜息一つで許した。 石井が強くシャツの下の鎖骨の皮膚を吸って、チリと痛みが走っても眉一つ寄せず、木手は用が済んだとばかりに扉に手をかける。 「待て」 「もういいんでしょう?」 「そうじゃない。知念も、平古場も、甲斐もずっと最近探してる」 「……なにを?」 「お前のラケット、折った犯人」 石井のその言葉は、流石に予想外だったらしい。木手は一度だけ目を見開いた。 「だから…」 「馬鹿ですね。見つかる筈ないのに」 だからもういいと言ってやれと木手に強いてしまったことへの罪悪から口にした石井は、戸惑った。 「見つかる筈ない…?」 「だって、あれ折ったの俺ですし」 嫌がらせですらないのに、と木手。 その顔があまりに犯しがたく綺麗で、言葉を失った。 演算の答えを告げるよう、言われた真実。 「なんで……まさか、もうテニスやらないとか、言わないよな…?」 「……そのまさか、ですよ?」 「おい、だって知念たちと一緒にまた全国目指すって…!」 「ああ、彼らはそう信じてる。でも俺は別の高校を受けます。 テニスは、もう一生やりません」 そう言い切って、木手は今度こそ廊下に消えた。 結局苛々が収まらないまま翌日になった。 珍しく低気圧をまとった知念を他の生徒は遠巻きにして、近寄ってこない。 平古場と甲斐もおかしいと思ったらしいが、追求しないまま三限目になった。 この時間は一組と合同のプール清掃だった。 季節はずれもいいところだが、まだ暑い沖縄ではたまに思い出したようにプールの授業が秋でも行われて、夏からさほど汚れていないプールを清掃する時間が作られる。 といったって、内申に響かないお遊び授業で、それも試験などでストレスの堪った生徒をリラックスさせる目的の授業だと知っていたし、清掃すら水掛遊びになっても教師は誰も咎めないのだから悪い気はしない。 清掃役はくじ引きで選ばれ、今週は一組と知念の六組だった。 一組の木手と不知火は自分たちの分担を終わらせてもう更衣室で着替えているだろう。 木手の態度はもうほとんどいつも通りで、少し怯えた仕草があるものの、一線を引かれたと勘違いするほど激しい反応はもうなかった。ただ降ろしたままの髪型だけ変わらない。 それでも安堵出来て、もうあんなことはしないと決めた。 戻ってきた不知火に木手の行方を聞く。知念を苦手にする不知火は木手よりよほど怯えながら、更衣室と答えた。 その中に混ざる安堵に、不知火にも心配をかけたとわかって礼を言うと更衣室に向かった。 謝りたかった。 お前は悪くない。ただそう謝りたかった。 まだ思いを告げる勇気なんてないけれど、それだけわかって欲しかった。 お前が悪いことなんか一つもないと、早く教えてやりたかった。 扉を開けると木手一人しかいなかった。 中央に置かれた長椅子を挟んで振り返った木手はさほど驚かず、知念を呼んだ。 「ああ、六組の分担も終わったの?」 「いや、抜けてきた」 「知念クンが。珍しいですね」 「すぐ戻る」 「そう」 「……永四郎」 どう切り出したらいいのか。 「あの……」 言いかけ、不意にその濡れた体操服についたシミに気付いた。 「永四郎?怪我でもしたのか?」 「え?してませんよ?」 「だって胸のところ、赤いシミが…」 濡れた体操服を軽く引っ張って、呼吸を失った思いだった。 服の下から見えたのは、鎖骨の下についた紛れもない鬱血の跡だった。 それが濡れた白い体操服から透けて見えたのだ。 知念がなにを見つけたかを悟った木手が、思わず弾かれたように知念から逃れるように下がった。 その反応が、知念にそれがキスマークに間違いないと教えた。 自分の?いや自分はもう一週間以上前だ。例えいくら跡が残りやすい体質でも、もう消えているか薄れている。一週間以上経ったものにしては、鮮やか過ぎる跡は、間違いなく自分以外の誰かがつけたもの。 「……それ、なんだ?」 絞り出すような知念の声に、木手は息をのんでただ逃れるように俯く。 「誰にやられた」 「………」 「永四郎」 身を縮こまらせるようにして呼吸を浅くする木手に、知念は大股で歩み寄ると逃げようとして壁に背中をぶつけてしまった木手の肩を強く掴んで引っ張った。 「痛…っ」 「誰にやられた」 視線を逸らさないよう顎を掴んで問いつめる知念に、木手は一瞬瞳を泣きそうに揺らがせたがそれは瞬く間に消え去った。 「キミに関係ありません」 木手の喉から出た迷いない言葉に、全身を激しい衝動が襲った。 「…ッ!」 木手の細い身体をそのまま引き寄せると、知念は有無を言わさず長椅子の上に押し倒し、上から身動きが出来ないよう押さえつけた。 「知念クン…っ!」 身をよじろうとして叶わず無体を何故と訴える木手に構わず、その首筋を舌でつうっとなぞった。 「…っ」 木手が小さく身を震わせる。 その首筋を強く吸うと、赤い花が散った。 「や…知念クンっ…なんで…っ!」 「黙れ」 「…っ」 低い声に怯んだ木手の顎を掴むと、容赦なく噛みつくように口付けた。 「…っ」 呻いて顔を背けようとする木手を押さえつけて何度も何度も角度を変えて深く口づけ、口内を貪り蹂躙した。 「…ん…っ…んぁ…っ」 漏れる掠れた甘い声に、下半身に覚えのある衝動を感じる。 「や…なんで…っ…ちね…ッ」 必死にあがく木手の手が知念の顔を押しのけるのを、許さずその細い手首を掴んで思い切り木手の顔の横に叩き付けた。 怯えるように震えた身体になおも耐えられず怒鳴る。 「うるさい黙れ!お前が悪いんだ!」 二度目になる理不尽な怒声に、木手は最早抵抗すら忘れて凍り付く。 それに構わず、襲う衝動のままに体操服をたくしあげてその皮膚に手を這わせた。 手で肌に触れながら唇は首筋をなおも執拗に吸い、跡をいくつも残す。 そのまま首までたくしあげた体操服から露わになった胸元にも残してやろうと顔を埋めて、その彼の抵抗が全くなくなっていることに顔を上げた。 「……っ」 木手はただぎゅっと目を必死に閉じて、目の前の悪夢からただ逃れようと完全に怯え切った表情で顔を背けて頬を長椅子に押しつけていた。 気付けば、押さえている手首も身体も、小刻みに震えている。 その頬が、閉じた瞳から零れる涙に濡れているのに気付いたとき、初めて後悔した。 理不尽に怒鳴ったことも、こんな彼を汚す行為を強いたことも。 なにもかも後悔した。 自分自身に激しく憤った。ここまで彼を怯えさせ、泣かせてまでしまったことに。 自分が堪らなく許せなくなった。 為されなくなった愛撫に、木手がそろりと濡れた瞼をあける。 その頬の涙を指でそっと拭うと、知念はその細い、まだ震える身体を抱き起こし、腕の中に閉じこめるようそっと抱き寄せた。 「ごめん…」 そして、ただそう伝えた。 「ごめん…もうしない…ごめん、永四郎」 震える背中を撫でて、子供をあやすように髪に触れる。 「お前は、…なにも悪くないから」 そうとだけ伝えると、その身体を離して、なにも言えない木手から顔を背け、更衣室を出た。 ただ、自分が一番許せなかった。 →[行方] |