それは不可能の代名詞

決して咲かない青いバラ








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36.7度の波打ち際
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 放課後になった。
 三限目以降、知念は木手を見ていない。
 授業には出ているらしいと不知火から訊いたが、決して遠くない教室なのに、会わないのは矢張り彼が自分を避けているからだろう。
(……傷付けた)
 机に頭を押しつけて、呻くように息を吐いた。
(きっと、ひどく怖がらせた…)
 もう、自己嫌悪なんて生易しいものではなかった。
 自己憎悪といった方が正しかった。
 この大きな手も、腕も、足も身体も。
 全て彼のために授かったものだと思っていた。
 全て、彼の役に立つため。彼と一緒に全国制覇するため。
 彼を―――――――――――――全てから守るために、俺は大きい身体を与えられたのだと。
 なのに、その身体を、彼を傷付けることに使った。
 強い力も、大きな手も、あの時自分は彼に暴力を強いるために使ったのだ。
 許せない。
 自分自身を、酷く憎んだ。
「知念くん」
 呼ばれた声に、しばらく気付かなかった。
 もう一度呼ばれて、やっと顔を上げた知念を教室の入り口で甲斐が呼ぶ。
 背後に平古場もいた。


「なに」
「木手」
 甲斐は単刀直入に言った。
「あの首、お前?」
 より直接的に訊いたのは平古場だった。
「………ああ」
 否定も嘘も出来なかった。
「そう」
 平古場は淡々としていた。むしろ、それならいいとばかりに。
「…平古場?」
 怒られると思ったのに。いくら彼が一度応援してくれたって。
「あのさ、鎖骨にも、跡あんじゃん」
 甲斐の言葉に、心臓が痛くなった。
 イヤな予感もした。
「誰がやったか、知ってるのか?」
 生唾を飲み込んで問う。
「二組の石井」
 平古場が答えた。
 あの男だ。一瞬で血が沸騰したような感情に、思わず二組に向かおうとした足を、平古場の手が止めた。
「平古場…っ!」
「あれはもう俺が殴った。むしろビビったってよ。木手が素直にいうこと聞きすぎるから」
 殴る価値ねえからやめとけ、と甲斐も語っている顔だった。
「……いうことを………?」
 意味がわからない、と聞いた知念を、平古場は叩くように落ち着かせた。




 それは三限目の終わりだった。
 知念の様子がおかしいと話しながら廊下を歩いていると、こちらに向かっている生徒と目があった。
 彼は目があった相手がテニス部の平古場と甲斐と知るや、逃げるように踵を返した。
 それに、折られたラケットのビジョンが蘇って、二人はその生徒―――――石井を屋上まで追い込んだという。
 怯えた面で、彼は必死に、違うと繰り返した。
「違う。俺はそんなこと本気でさせるつもりじゃなかった。冗談のつもりだったんだ!」
 ラケットのことにしては、意味が食い違っている。
 おかしく思った二人が詳しく問いつめると、彼は知念に殴られたこと、それが自分が木手を汚い目的に使ったことであること、知念が去ったあと偶然会った木手に冗談で条件を出したらあっさりと受け入れられて逆に怯えてしまったことを洗いざらい吐いた。
 血の上った平古場に殴られても、石井は謝るばかりでもうしないと繰り返していた。




「………」
 言葉が、なかった。
 あの跡、あれは。
(俺のした暴力から、俺を守るため―――――――――――――?)
 足下がぐにゃりと柔らかくなったように地面が揺れたような感覚を受けるほどショックだった。
 汚したくなかった彼にそんな行為を強いたのは、自分の考えなしの行動だった。
 そして、自分を守るために屈辱的な行為すら受け入れた彼を、よりによって傷付け、泣かせたのだ。
 ―――――――――――――許される筈がない。
 守りたかった。
 なにより守りたかった彼を、二重にも三重にも傷付けたのが他ならぬ自分だと。
 最早消えてしまった方がいいんじゃないのか。
 彼の役にも立てない。それどころか傷付けるばかりの自分。

 その時、初めて彼を愛したことを後悔した。

「知念」
 目の前の平古場が、ひどく冷静に呼んだ。
「知念」
 うつろになって、焦点のあわない知念の視線を見て、なお彼は名を呼んだ。
「起きろ。後悔する暇があるなら、永四郎に謝って来い」
 永四郎の名が出て、初めて知念が現実に視線を戻した。
「…無理だ。もう、…許されない」
「それを決めるのは永四郎だ」
「……俺が、俺を許せないんだ」
 もう駄目なんだと嘆く大きな身体をいっそ殴ってやりたかった。
 耐えて、もう一度促そうとした時だ。
 三人の名を呼ぶ声がした。
 木手ではなかった。頬を腫らした石井だった。
「なに、また殴られたいんか?」
 平古場が邪魔するなとばかりに声で脅すが、石井は怯えながらも聞いてくれとすがった。
「なんだよ」
 テニス部では一番明るく友好的な甲斐すら苛々を隠さず詰るように聞いたが石井はもつれるような唇で必死に綴った。
「ラケット…」
「…まさか」
「違う!俺じゃない!けど、…やった奴を知ってる」
 それを伝えに来たと石井は必死に言った。
「誰?」
 まさかわざわざ追ってきて嘘など吐かないだろうと、甲斐が促した。
 石井は乾く口を必死に開いて、信じられない名を呼んだ。

「…木手」

「……ぇ」
「木手本人が、自分で折ったって。本人が、本人がそう言ったんだ…!
 もうテニスやらないのかって、お前たちと同じ高校行くんだろって、また全国目指すんだろって聞いたけど、あいつひどく冷静に…」
 矢次に言って、石井は一度大きく息を吐くと、はっきりと告げた。
「自分は…自分は違う高校に行く…。テニスはもう一生やらないって……」
 衝撃を受けたのは、知念だけでなかったのは当たり前だ。
 甲斐も、平古場も言葉がなかった。
 だからあいつ、止めてやってと石井は最後に告げて、怯えるようにその場を後にした。

「…木手が、テニス…辞める……!?」
 嘘だろ!? 残された廊下で甲斐が叫んだ。
 だが、犯人が見つからない理由。なにより大事に保管されているラケットを折れる人間。それを考えれば木手が自分で折ったという図式が一番自然だった。
 全く疑わなかったのも、思考の隅にすらまさかという疑心を置かなかったのも。
 木手の強いテニスへの愛情を知っていたからこそだった。
「嘘だろ……」
 平古場が声を掠れさせた。
「そうだ…! 晴美! 晴美に聞けばなんかわかるかも…」
 甲斐がそう思いついた時、背後で「儂がなんだ」という低い声がした。



「ああ、知ってる」
 木手のことを追求されて、誰もいない職員室に三人を連れてきた早乙女は事も無げに言った。
「なんで!?」
「儂が言ったんだよ。テニス止めろってな」
 ふん、と早乙女が鼻を鳴らした。
「……なんで」
「いくら全国進出だろうが、優勝じゃなかっただろうが。
 だから儂は顧問を降りるって言ってやったんだよ。他に顧問になる教師がいねえから、このまま部は廃部になるだろうって。そしたらあいつ、土下座してまで部を存続させてくれって頼みこみやがって。
 だから言ったんだ。お前が今後一生ラケットを握らないならってな」
 あっさり告げた早乙女が信じられなかった。
 尊敬できた人ではなかった。だが、テニスに対する部員の熱意くらいはわかってくれている人だとは思っていた。なのに。
「晴美てめえ!」
 早乙女の胸ぐらを掴んで拳を振り上げた甲斐は、早乙女が言葉をなお重ねなければ殴っていただろう。

「そうしねえと、あいつテニスを休まねえからな」

 甲斐の拳が、中途半端に止まった。
「…テニスを、休む………?」
 掠れた声が平古場の喉から零れた。
「ほら、大会前にあっただろう。テニス部レギュラーに受けさせた検査が」
 確かにあった。中学生の身体には無理な特訓を続けさせた罪悪が多少早乙女にもあったのだろう。故障を見つけるための簡単な検査を大会前に確かに受けた。
「あの時、故障が見つかった部員はゼロ―――――――――――――結果はそうだったな」
「…うん」
「だが九月になって、診てもらった医師が見落としてたことを言いに来た。
 一人、故障抱えてんのがいたってな。それが木手だ。よりによってな」
「…。」
 木手が。
 木手が、テニスが出来ない故障を抱えている、そう知って言葉が誰もなかった。
 蒼白ともとれる並ぶ顔を見て早乙女は馬鹿野郎早とちりすんなと吐き捨てた。
「故障つったって、このまま続けたら故障するって意味だ。
 木手の腕はまだ故障してもいなけりゃ、爆弾抱える程悪化してもねえよ」
「…、じゃあ」
「ただ、一年完全にラケットを振らない休養期間を持たないと、疲労がかなり溜まってるからすぐ一生ラケット握れない腕になるって言われた。
 一年しっかり休みゃ、あいつはその後何年ラケット振ろうがテニスやろうが、全国目指そうが世界挑もうが全く問題ねえんだ」
「……そ、そっか」
 よかった―――――――――――――安堵した甲斐を、早乙女がだがあいつ聞かねえだろと続けた。
「あいつが一番お前らとの全国制覇に固執してる。いくら正直に腕が壊れるから一年休めっつったって、見てねえとこで絶対ラケット握る奴だ。あいつは。
 そんなこたお前らが一番知ってんだろ。
 だから部を盾にした。部を盾にされりゃ、あいつは誰が見ていないとこですら絶対ラケット持つことすらしねえって思ったからな。
 廃部にする気なんか全くねえ。一年経ったら本当のことは教えるつもりでいたしな」
 早乙女は、決して尊敬出来る教師ではなかった。なかったかもしれない。
 だが、部員を考えない顧問ではなかった。そう知って、甲斐は手を離すとうなだれるように頭を下げた。
「ごめん…有り難う…」
「有り難うございますだろーが。ったく口の利き方しらねえガキどもだぜ。
 だがラケット折るほど思い詰めてんだったら、正しくなかったかもな。
 お前らから本当のこと言って、一年ちゃんと休めって言え。
 でねえとあいつ、腕の前にここ壊しちまうわ」
 言って早乙女は胸を叩いた。




「……木手、辛かったろうな」
 平古場の家にそのまま寄って、テーブルを囲んだ甲斐がぼんやりと言った。
「だろーな。あいつ、テニス好きだもん。辛かった」
「でも、…晴美も正しいよ……」
 それは否定出来ない。早乙女のやり方は、ある意味正しく、よく木手永四郎という教え子を見ていたからこそのやり方だった。
「……知念くん、」
 俯く彼に、甲斐が顔を向けた。
「…なに」
 ただ、考えていた。
 テニスを取り上げられて、俺に傷付けられて。
 あいつはどれだけ辛かったろうと、考えるほど胸が痛かった。
「木手、止めてやって」
 甲斐はそう言った。
「知念くんしかいないよ。木手にほんとのこと言って、休ませてやれんの」
「…」
 その信頼が、わからないんだ。
「なんでだ…俺はあいつを汚そうとしたんだぞ…!」
「だからなんだよ」
 有りっ丈の叫びをばっさりと切ったのは、平古場だった。
「だからなんだよ。そんなん、後からでも好きだっつって、教えてやりゃいい話だ」
「…平古場?」
「好きなんだろーが」
 平古場がわからない。自分を好きだといい、遠慮はもうしないといい、キスをして。
 それでも自分の背中を押す彼が。
「行け。知念くん。木手、これ以上泣かせたくないだろ?」
 甲斐が笑って知念の大きな肩を叩いた。
 その時甲斐の携帯が声を上げた。
 平古場が眉を顰める。甲斐の携帯の着信音は部内で不評だ。
「はい! あれ、おばさん?」
 誰かの母親だろうか。
「………え」
 甲斐の顔が引きつった。
 ばっと彼は壁にある時計を確認する。
「本当に? はい、探します!」
 勢いよく返事をして、甲斐は携帯を閉じると立ち上がった。
「木手がまだ帰ってないって…」
 その言葉に、時計をとっさに見た。
 もう九時になる。
「……っおい知念!」
「……っ!」
 一斉に立ち上がって、携帯だけ持つと三人は部屋を飛び出した。



 田仁志たちにも探すよう連絡して走り回り、やがて海の見える堤防へとたどり着く。
「いた!?」
「駄目だいねえ!」
「…」
 知念も無言で首を横に振る。
 いそうな場所は全て探した。空は、いつの間にか泣き出していて、全身が濡れて流石に寒い。
 だがあの状態の木手を放置してなどおける筈がなかった。
「…」
 甲斐が一点で視線を止めた。
「あれ、…木手……?」
 掠れた声に、弾かれたように海辺の砂浜を見遣る。遠いそこに、間違えようのない人影があった。
「永四郎…」
 ただ天を仰いで、雨に打たれるままの姿は、ただ必死に泣くことを堪えているような、痛い姿で。
 言葉がない。
「行け」
 平古場が背を押した。
「俺たちじゃ、無理だろ」
 だからお前が行けと、彼は言う。
 好きだと言った唇で、木手を好きだと言えという。
 その瞳にはただ信頼があって、恋慕の色は欠片もない。
 傷付けた。怖がらせて、泣かせた。
 けれど。
 ただ頷く。
 それでも、許されなくていい。
 この汚れた手で、救えるなら、たった一度でいい。
 彼の心だけは、救わせて欲しかった。



 走り出した知念を見送って、帽子を取ると甲斐が小さく笑って平古場の肩をこづく。
「凛、知念くんには遠慮しないけど木手には遠慮するよな」
 にやにやと笑って言われて、平古場は沈黙する。
「……」
「素直じゃねーのな凛。
 知念くんに遠慮してただけならもっと知念くんを攻めるだろー?」
「…だって、俺知念より永四郎の方が好きだもん」
 ふてくされたような平古場に、甲斐はますます笑った。
「はは、だよなー。
 凛は木手大好きだよな」
「だって一目瞭然なんだっつの。知念の阿呆。
 永四郎だって知念が好きだろーが」
「気付いてないの知念くんだけだよな」
 そこへ二人を見つけた田仁志が走り寄ってきて、遠目に木手とそれに駆け寄る知念を見て安心したらしい顔。
「本当だっつの。知念の阿呆」
「二回目ー。
 ま、木手も知念くんに好かれてるって気付いてないからおあいこな」
 そこで、途中から話を聞いたくせに確信をつくのがうまい田仁志が。
「…天然同士」
 とぼそりと呟く。甲斐がそれに遠慮なく大爆笑した。
「もう、大丈夫だろ」
 頼んだ知念くん、と遠い背中に言って、甲斐たちはその場を後にした。








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