それは予約済みの悪夢。
 月を蝕(は)む仮面が笑う。
「檻の外へは逃がさない」と嘲う。
 夢買いの覚えも皆無。出会いすら皆無。
 それでも彼は言う。



「この恋は実ることはない。

 だけど、俺はあんたに恋をした」




月蝕の仮面
-blind summer fishX-

前編−【悪魔の烙印】





「ねえ! 聞いた?」
「聞いた聞いた! 今度は柊の全員同じドラマに出るって!」
「それも共演者がさ、」
「知ってるー! あのリョーマくんなんだよね!」

 女子高生のミーハーな声を耳に掠めながら、白石は道を急いだ。
(しもた…すっかり遅れてしもた)
 撮影のあるテレビ局の前まではたどり着いたが、聞きつけて集まった女の群から見つけてもらうのも、入るのも無理そうだ。
「どないしよ…」
 困り果てて呟いた時、黄色い悲鳴が一層大きく響く。
 思わずそちらを見ると、手を女の子たちに振りながら歩いてくる背の高い黒髪の青年。
(あ)
 知っている。
(共演する、『越前リョーマ』や)
 不意に彼がこちらを見た。
 視線があうなり、彼はすたすたとこちらに近づくと、女子の悲鳴に構わず白石の手を取った。
「え?」
「遅刻したんでしょ? 一緒に行こ」
「…あ」
 そのまま引っ張られるままテレビ局の中に連れていかれる。
 背後で「え!? 今ここにいたの柊の白石くん!?」という悲鳴が聞こえた。



 長い廊下を歩きながら、不意に白石の戸惑った視線に気付いた彼が、人懐っこく笑ってぱ、と掴んでいた手を離した。
「ごめん。つい掴んだままだった」
「う、ううん。…ありがと」
「別に。共演者だからこのくらいどってことない」
 にこ、と笑う姿は背は自分より高いのに、幼い印象を与える。
「『柊』の白石蔵ノ介さん、だよね。俺、越前リョーマ。
 よろしく」
「あ、よろしく。ええと、確か俳優は副業なんやったっけ」
「うん。本職はテニス選手。俳優は先輩に誘われただけ。…そしたらすっかりこんなことに」
 疲れたように溜息を吐く姿がなんだか年下のようで、可愛い。
「…あ、敬語使うべき? 俺」
「え?」
「白石さん、十八だよね?」
「ううん。今、十九」
「あ、じゃ二個年上か」
「越前くんは十七?」
「うん。だから年上だし、敬語?」
「ううん、いらんし。それより、俺らまだそんな演技の仕事しとらんから、…色々足引っ張る思う…」
「別にいい。俺の先輩よりはうまいよ」
「キミの先輩ってテニスの? それは比べたら失礼や思う」
「っ…そだね」
 吹き出した彼が行こうか、と促した。
 頷いて歩き出した瞬間、身体の横に降りていた両手首を掴まれた。
「…え」
 気付けば背中は壁に押さえつけられていて、両手首は彼の両手に掴まれて動かせない。
「……越前、くん?」
「油断大敵、棚からぼた餅。…どっちでもいいか」
「…え?」
「……綺麗だよねあんた。…そんな無防備にいられたら、手を出さないのは男としてまずいでしょ」
「……冗談…」
 掠れた声が紡いだ言葉に、越前は笑うと耳元で囁いた。
「じゃ、…イカせられたら、冗談ってもっ回言える?」
「っ…や!」
 手を離さないまま膝元にしゃがみ込んだ越前は、器用に口でズボンのファスナーを降ろすとまだ勃ちあがっていないそれを口に躊躇いなく含んだ。
「…ッ…や…」
 抵抗しようとするのに、押さえられた腕は全く動かない。
 足は割り広げられていて間にいる彼に蹴りを見舞うことも出来なかった。
 耳につく水音に、誰か来たらという思いもあって羞恥に死にたくなる。
 それ以上に、あるのは恐怖だ。
 千歳以外に、触れられる恐怖。
「…や…や…っ…なんで……ぁ…は…」
「…」
 ぴちゃ、と軽く吸った顔が、白石を見上げてくすりと笑う。
 完全な恐怖に染まって、震えている顔にソソられたように。
「…その顔、…すごくあんたエロい」
「…ッ」
 性器を口から離した越前が伸び上がって白石の唇を強引に塞ぐ。
「…ん…ッ」
 片手を離して、その手で性器を愛撫すると、口が耳にうつって耳朶を執拗に舐めた。
「……ぁ…っ…や…嫌…!」
 解放された右手で引き剥がそうとしても、全く意味がなかった。
「…は…ぁ……ッ……ぁっ」
「気持ちイイでしょ? もうイきそうだね」
「…ぁ…ッ…や…嫌や…!」
「大丈夫だよ。飲んであげるから」
「嫌や…!」
 白石の全身の拒絶すら彼は嗤うと、屈んでもう一度口に含む。
「…ぁ…ッ―――――――――――――」
 呆気なく達した身体が絶頂の感覚に堪えられずずるずるとしゃがみ込む。
「………ホント、可愛いね」
 己の唇についた精液をぺろりと舐めて、越前は笑むと茫然と泣く白石の髪を優しく撫でた。
「じゃ、仲間呼んできてあげるよ。ここ、そうそう人来ないから、大丈夫」
 そう言った声が足音と共に遠ざかっても、少しも動くことが出来なかった。





 撮影の行われるスタジオに入ってきた越前を見遣って、千歳たちは顔を見合わせる。
「あいつ、遅すぎやせんか?」
「さっきもうすぐって言うとったけんど…」
 千歳も落ち着かない様子で携帯を見遣る。
「あれ、…白石くんまだかい?」
「あ、すいません。探して来ます」
「頼むよ」
「はい」
 スタッフに言われて軽く頭を下げると駆け出そうとした千歳の前に軽く出された手があった。
 すぐ降ろされる手の持ち主は、その先ほど来たばかりの共演者だ。
「?」
「白石さんなら、さっきテレビ局の前で立ち往生してたから連れてきたよ。
 ちょっとトイレって言ってたから多分西の通路あたりにいるんじゃない?」
「…あ、ああ。有り難う」
 多少びっくりして、それでもお礼を言った千歳の横を通り過ぎて、千歳の背中に言う。

「…あの人、泣くと可愛いね」

「…!?」
「早く行ってあげたら?」
 耳を襲った衝撃に振り返った千歳に言って笑うと、越前は監督の方へ行ってしまう。
「……」
 声なく一瞬だけ固まった千歳がすぐスタジオを出ていくのを見送って、財前は目を細めて越前の背中を見る。
「……ああ」
 人を殺せそうな視線で睨みつける財前の意志をわかったように、謙也が頷いた。




 靴音が響くのも構わずに廊下を走る。
 角を曲がった瞬間、その先で茫然としゃがみ込む姿が映って、一瞬足が震えて止まりかけてしまう。
 大丈夫だと言い聞かせてすぐ駆け寄った。
「白石!」
 頬を伝う涙に気付かないのか、彼は茫然自失のまま千歳に目をやった。
「…白石。大丈夫たい…。…もう」
 なにがあったかは知らないけれど、今聞くべきではない。
 今一番に優先すべきは、彼を抱きしめることだ。
 その涙を、止めることだ。
 失敗して、自分も泣きそうに顔が歪んだかもしれない。
 それでも千歳を認識した白石は、また新たに涙を流すと、その巨躯にすがりついてくる。
 背中を抱きしめると、声もなく泣いた。
「……大丈夫とよ。もう…大丈夫」
「……………」
 今は、『千歳さん』と呼ぶ声すらなかった。
 ただ、必死にすがりつくことしか出来ない身体を、自分もまた、抱きしめることしか出来なかった。




 スタジオに戻って来た千歳の隣についてきた白石が、監督に謝罪するのを謙也たちも目を離さず見遣る。
「……あれ」
「ああ」
 促した財前に、謙也が答えた。
「…目、真っ赤ですよね」
「……気ぃつけたらな、あかんな」
「当たり前ですわ」
 すぐ撮影が再開された。
 だが、


「カット! NG!」
 これでもう十回目になる監督の声に、その場のスタッフたちもまたか、という目で見た。
 視線の先は白石しかいない。
「………すいません」
「白石くん。これ普通に話すだけのシーンだよ? それを何回も何回も。
 台詞覚えてないの?」
「覚えてます」
「じゃあしっかりやってくれよ。悪いけど、キミたちがどれだけ人気があろうが、贔屓するつもりはないよ」
「わかってます」
「越前くんの足引っ張らないでくれるかな」
 その瞬間、あからさまに震えた白石を見逃す程千歳たちは鈍くはない。
 そのシーンは越前と白石のシーンだった。白石は、他のシーンではさしたるミスをしなかった。
 彼とのシーンになってからだ。
 それでもあからさまに庇えない。
 ミュージックシーンでは人気がトップだろうが、俳優業界は違う。
 ベテランの俳優の方が、アイドルより優先されるのは当たり前だ。
 そして、その監督はそういう傾向にあからさまだとわかる。
 庇うことは出来ない。庇えば何故白石がうまく演技出来ないかも話すことになる。
 なにがあったか詳しくは千歳すら知らない。それでも、それは白石の本意ではないとわかる。
「監督」
 遮ったのはその越前だった。
「そんなきつく言わないでいいですよ。俺、気にしてませんし。
 白石さんも、この話急だったから戸惑ってるだけだと思いますし」
「…越前くん」
「少し時間もらえます?
 楽屋で練習してきますよ」
「…!」
 身体を震わせた白石に気付いているのか、いないのか、監督はそういうなら、と許可をあっさり出す。
「じゃ、行きましょ。白石さん」
「……」
「ほら、早く」
 笑顔で、引きつった顔で越前を見る白石の手を取った越前を引き留めようと、その肩を掴んだ千歳を監督が邪魔そうに見た。
「千歳くん、キミたちは次のシーン。…これだから下手に人気があるヤツは」
 最後に呟かれた言葉はしっかり聞こえていて。
 これ以上逆らうのは、降板に関わるとわかる。
 それでも行かせたくない。大丈夫と言ったのに。
 ―――――――――――――怖い思いなんか、させたくない。
 傍で、守れると思っていた。
 視線があった白石が、一瞬千歳にすがるように見上げて、瞳が泣きそうに揺れる。
 彼も本当はすがりたがっている。あの時のように、助けてと言いたいとわかる。
 それでも、背中に刺さる視線に。いい、と無理に笑った顔が首を左右に振る仕草に。
 …手を、離してしまった。





 ばたん、と閉じた楽屋の扉に、それだけで震える自分を叱咤した。
 鍵までかけた彼が、それを笑う。
「無理しなくていいよ? 怯えてるあんたの方が、可愛いから」
「……なんの、つもりなん」
 笑う声が耳障りで、それ以上に恐ろしく、言った言葉は震えて迫力がない。
「そんな回りくどいかな俺。つもりもなにもないよ」
 すぐ大股で近寄った越前から逃れるように後ずさったが、すぐ壁にぶつかる。
「ただ、あんたを最後まで犯したいだけ」
 嗤った声。喉の奥で鳴った悲鳴が口を裂く前に、唇を彼がポケットから出した布で塞いだ。
「…っ…ん……」
「別に、気絶させる薬じゃないよ」
 ツンと鼻につく匂いに目を閉じた時には布は離されていた。
「……?」
「これ、…ちゃんとわかる?」
 白石の眼前で指を三本たてた越前の意図がわからず、それを凝視した白石の視界が不意に歪んだ。
「…ッ!?」
 そのまま床に倒れ込む。
「キいてきたね」
「…な、に……ッ?」
「…身体によくクる薬」
 媚薬って言えばあんたにもわかるよね?と低い声が笑った。
「でも、ありきたりに犯すんじゃつまんないから」
 すぐ覆い被さってきた越前を退かそうと手を動かすが、易々と掴まれて背後に両手を回されてしまう。
「ッ!」
 粘着テープで背後で縛られた腕を掴んで、そのまま床に転がされた。
 越前は余ったテープを放り投げると、そのまま、とん、と扉に背を預ける。
「……」
 荒い呼吸でいぶかしげに見上げた白石を見て、ゲームと言った。
「俺に甘いから、あの監督。
 三時間はこうしてられる。
 だから、耐久ゲーム。
 …あんたが、そのまんま三時間、犯されずに堪えられたら千歳さんたち呼んであげる。
 堪えられなくて、俺にすがったら、犯す。
 簡単でしょ?」
「……………」
「さ、始めようか」
 悪魔の宣告のように、狭い部屋にそれは響いた。



 ―――――――――――――苦しい。

 汗が滲んで肌を這う。拭うことも出来ないが、既に刺激が欲しいと強請る身体を止められる筈もない。
 勝手に身をよじってしまい、それで服がすれて肌をこする感触すら、刺激だった。
 決して足りない刺激。
「…一時間半。割としぶといね」
 唇をきつくかみしめる。
 それでも、『犯せ』なんて言いたくない。
 言ってはいけない。
 …千歳を裏切りたくない。
「……っ」
 閉じると、瞼の裏に蘇るのは彼の姿ばかりで。
 優しく、笑う姿がそこにある。

「…とせさ」
「…」
「…千歳さん…………」
 頬を涙が伝った。
 それでも、堪えればいいはずだった。
「…むかつく」
 越前がそう呟いて扉から離れ、白石の傍に屈んだことは、霞んだ思考でも認識出来た。
「…ッ!?」
 おもむろにズボンにかけられた手が、そのまま抵抗すら出来ない下肢から下着ごとズボンを抜き取った。
「や…な…!」
 なんで、という懇願を込めた視線を、彼は残酷に笑い捨てた。

「ッ―――――――――――――!」
 下肢に一気に埋め込まれた熱に、嫌悪を感じたのは一瞬でしかなかった。
 すぐ薬に高められた思考は、快楽に飲み込まれて。
「…は…あ…っぁん」
 千歳以外に犯されている。
 その禁忌すら、歯止めになってはくれなかった。



 自分の中で彼が達したことも、抜かれた後下肢を伝った千歳以外の体液も、今の思考は捉えられない。

『千歳さん呼んできてあげる』

 一度犯しただけで離れた彼がそう言っていなくなって、何分経ったのか。
 響いてくる靴音。
 彼が来たら、なにを願えばいいか、もう正しい答えを自分は失っているに違いない。
「白石…っ!?」
 千歳が見たのは、床に腕を縛られたまま転がされた白石の肢体だ。
 さらされた下肢は精液に濡れていて、頬を涙が伝っていた。開きっぱなしの口からは唾液が零れている。
「白石!」
 扉を閉めてすぐ駆け寄り、抱き起こす。
 呼びかけて、頬を叩くように撫でた。
「しらい…」
「……腕は…ええから」
 外そうとした粘着テープを指して、白石はそう言った。
「……」
「ええから……はよ……」
「しら…」

「…もっと犯して…」

 零れた言葉は、誰が悪いのかという命題の正確な答えさえ千歳から奪った。
 きつく抱きしめて、繰り返し「すまん」と謝った。
 止めてやれなくてごめん。お前より、仕事の保身を優先してごめん。
 …守れなくて、ごめん。

 そのまま床に押し倒すと、最早虚ろにしか自分を見ない身体を抱いて下肢を貫いた。
「……ごめん…」
 嬌声をあげるだけの彼には届かないと知っていても繰り返したのは、自分が苦しいだけだ。
 彼を守れなかった自分が、…自分が苦しいだけだ。
 千歳の頬を涙が伝って、白石の首筋に落ちて流れた。

「―――――――――――――ごめん…」



 この声は届かない。
 裏切ったのは、彼じゃない。
 …俺だ。

 なんだっていいから、俺にぶつけろと願ったって、優しいお前は出来ないから。
 償う方法なんかわからない。

 それでも。

 それでも俺は、彼の傍にいたかった。








→NEXT