抱きしめる腕があった。
キスをする、優しい笑顔があった。
なのに、
なのに、何故抱く腕はないのだろうと、願ったらあなたは泣いた。
「…なあ」
「はい?」
いつものスタジオ。財前に話しかけた白石に答えた彼に、白石は俯いて言う。
「…千歳さん、変やない?」
「別に?」
そうあっさり否定されると、なにも言えない。
千歳はある日から、自分を抱かなくなった。
それは気のせいを過ぎて、今日で二ヶ月。
いくらなんでも、長すぎる。
長身をくぐらせてスタジオに入ってくる身体を見上げた白石に気付いたのに、千歳は困ったように笑うだけ。
「千歳さん…」
家に帰った後、呼びかけるといつも通り笑った声が抱きしめる腕と一緒に降る。
「……千歳さん…して…ください」
「…………」
それでも、彼は笑って、白石にキスを一つするだけだった。
「…絶対おかしい」
ある日の喫茶店。
そう呟いた白石に、梶本がまあまあと新しく珈琲を頼む。
「千歳くんも愛情深い人だから、そんな心配することじゃないと思うよ」
「…そうかな」
「ああ」
「……うん」
納得行かないように俯くと、さらりと髪を撫でられた。
「梶本は…そない思う?」
「え?」
「…抱きたいて相手を、抱かん気持ち」
「…白石くんに聞かれるのが、一番困ります」
苦笑した彼の顔は、確かに非常に複雑きわまりなかった。
失敗したと、顔を背ける。
「…梶本とは、おるん楽や」
「そう?」
「…ほんまは、…謙也さんも光も、おかしいんや。
なんか隠して…俺一人だけ…知らん。…一人、置き去りにされたみたいな」
「考えすぎでしょう?」
「…前は…前は…ちゃんとお前も聞けって逃げる俺を連れ戻した…。
今は…連れ戻さんで…、帰ってきた俺にやっと気付いて………。
…なんか、…また、…一人に、なった気がした……」
「………」
梶本は曖昧に笑うことも出来ず、その髪を撫でた。
その瞳は、柔らかいながら、隠すように揺れたが、今の白石には気づけなかった。
その日の楽屋。
帰ってきた白石を迎えた千歳が、今日帰りなに食べる?と伺う。
「……な?」
「…白石?」
見上げた白石に、千歳が笑ったが、それすら、今は不安で。
「……今日、抱いてください」
だから、早く証が欲しかった。
俺が、あなたのものだという、証。
…困ったように笑うから、あなたが。
泣きそうな程に、怖い。
「お願いします!」
叫ぶように願って、部屋を飛び出した。
残された千歳たちが、沈黙の中で視線を交わした意味も、自分は知らなかった。
あの日、千歳は家に帰って来なかった。
一人で、寝た部屋もベッドも、死ぬほど寂しい場所だった。
千歳と出会ってから、一人で眠る夜はなかった。
いつだって、あの優しい自分を呼ぶ声と、髪を撫でる手と、身体を抱く腕があった。
起きた時、笑う顔があった。
「……そんな、泣きそうな顔しないでいいんですよ」
買い物に付き合ってくれた梶本が言う。
「そない…つもり…」
「…でも、…雨が降りそうな、顔してる」
「…そっか」
飽きた、のかな、と呟くとそれはないと否定してくれた梶本が、傍の店のオルゴールに目を留める。
「…ああ」
こういうの好きだったでしょ、と言われて、確かにと笑う。
好きだったことを、よく覚えていたな、と。
「…なにがあっても、キミを嫌いになったりしない。僕もそうだから、千歳くんたちもそうですよ」
「…うん」
そう、諭されて頷いた時だった。
店から離れた道の方で響いた悲鳴。
見遣って、心臓が軋んだ。
――――――神様、もしも存るのなら、あなたは、今、なにを考えているんですか?
ビルの合間、映し出されたニュース。
凍り付いた白石の横で、梶本が茫然とした後、白石を抱え込んだ。
それは、『柊』の千歳が新人歌手の少女と付き合っているというニュース。
どこにでもあるゴシップだ。それでも少女とのツーショットは、もう目に焼き付いていた。
「…梶本…」
腕の中で掠れた声が紡ぐ声を、背中を抱きしめて聞くしか出来ない。
「…あれが、理由なんかな…俺を、…抱かん理由…他に恋人がおるから…」
「そんなわけない」
否定しながら、震えてさえいる身体を抱いて呟く。
「…千歳くん。いくらなんでも…タイミングが悪すぎる…」
あの局は捏造も多い番組だから、常の白石なら気にしない。
けれど、今は状況が違う。
翌日のレコーディング。
結局家に帰らなかった千歳に白石が会うのは、スタジオが初めてだった。
「…」
「あ、白石。おはよ」
「はよゴザイマス」
いつも通りの挨拶が、歪で笑える。
「…白石?」
いぶかしがった謙也に、扉の前に立ったまま白石は笑う。泣きそうに。
「……なんでですか…なんでいつも通り…。
みんな…いつもしてくれるフォローもなんも……。
…謙也さん…、あれ、嘘ですよね…?」
昨日のニュース。
そう聞いた白石に、謙也は否定しかけたように口を開き、すぐ閉じる。
その横で後ろを向いた財前に、「光?」と白石の声がかかる。声は、震えている。
「……こんな余所余所しい……。こんなん…ちゃう…。
……俺が、…おったらあかんのですか?」
「…それは」
思わず顔を上げた謙也を通り越した向こう、千歳は無言で見つめるだけだ。
「……わかりました。…も、ええです」
「…しら」
財前の声が、やけに遠い。
「俺、『柊』抜けます」
「…また、謙也さんたち三人だけでやってください。俺は、一人でやるから」
「……」
目を見開いて驚いた謙也たちが、泣きそうに顔を歪めて“そうやない”と言うように俯くのを、見た時、喜んだ自分。
だから、これは罰?
「…好きに、したらよか」
そう、言ったのは、誰より引き留めて欲しかった、声。
「……、………」
一瞬、瞳が破れる程見開いた白石の瞳が、すぐ涙に歪む。
「……っ……、…も……らん…っ」
声にならない叫びを発して、走り去った白石を追おうと千歳を振り返った謙也を、千歳は首を左右に振りながら、握りしめた手は、痛いほど爪を皮膚に食い込ませた。
スタジオから相当離れた休憩所。
走っていた足は途端、ぴたりと止まって、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
頬を、涙が幾筋も流れて、拭っても、後から後から溢れた。
―――――――――生まれて初めての、脅しだった。
自分を担保にした、脅しだった。
自分が抜けると言えば、話してくれる。引き留めてくれる。
そう思ったから、脅した。自分を、餌にした。
生まれて初めての、汚い、賭け。
――――――神様、あなたは、きっと今笑ってる。
俺を壊したくて、あなたが考えた悪戯なら、あなたは笑うでしょう?
神様、今の、俺の惨めな姿を。
あまたが考えた通りの愚かな、姿を。
どう、考えますか?
救いを、もたらしますか?
もしもあなたがいるのなら、なにをかんがえたのですか?
壊したいと願ったのなら、それが何故俺だったのですか。
どうしたら、いいかすら、見えないこの暗闇。
敗れた賭けで失ったのは、生まれて初めての、最初で最後の、愛しい絆。
「……っ………けんや…さ……」
汚れてもいい。
「ひかる…っ」
どんなに、惨めに落ちてもいい。
「……っ」
どれだけ、ぼろぼろに傷ついて、馬鹿みたいに笑われていいから。
「…ちとせさん…ッ……!」
引き留めて欲しかった。
―――――――――“ここ”にいてくれ、と。
たった一言、引き留めて欲しかった……。
それから、数日もしないうちに、マネージャーから知らされたのは、白石がソロに戻る話だった。
謙也も、財前も驚いた。千歳も。
白石がああ言っても、彼は自分たちとの絆を切れないと、自惚れた。
彼の優しさに甘えて、隠そうと謀ったツケ。
「白石くんは、『柊』から脱退出来ないなら、事務所をやめるって言うから、本気だったから、そうするしかなかったの」―――――――――マネージャーの声が、脳に頭痛のように響く。
「…謙也、光、ごめん」
ぽつり、と言った千歳が大股で歩いて、部屋の扉まで行く。
「…俺はやっぱり、…あいつを、…離せなか」
振り返って笑った千歳は、今にも泣きそうだった。
見送った謙也に財前が持っていたギターのピックを投げる。
「…やっぱ、アカンですよ。…俺達に、…こういう、…待つやり方は。
…俺ららしく、やらな」
「…うん」
受け取った謙也が、少しいつものように笑った。
ソロに戻ってから初めての番組のリハーサル。
ステージへの扉に手をかけた白石の身体が、背後から強い腕で抱きしめられる。
一瞬、強ばった身体が、それでも誰かわかって、掠れた声が呼ぶ。
「…ちとせ…さん?」
「……今日、楽屋で、待っとうよ…」
「…とせ…さ?」
強ばる身体を解くように、その服から出た肩に、首に、引き寄せた手首にキスをして、振り向かせた身体を抱いて、唇にキスを重ねた。
「…ちゃんと、抱くたい。お前を」
何度もキスを繰り返すたび、身体が徐々に弛緩して、おずおずと手がすがりついてくる。
「…泣かせて、悲しませて、ごめん。…また、きっと泣かせる。
ばってん…もう、お前を、一人にせん。…約束する」
見下ろす瞳は、いつもの優しい、慈しむ、自分が大好きな千歳の眼。
「……千歳さん……………」
呼ぶように腕を伸ばした背後で、スタッフが呼ぶ。
急かされるように、キスをもう一度だけした。
帰ってきた楽屋で、千歳は約束通り待っていた。
それだけで、嬉しくてすがりついた白石の手を取って、手首に、爪に、指の隙間に、手の平にキスをする千歳に強請るように抱きつく。
そのまま押し倒されて、重なった唇から降りた千歳の唇が、首筋をなぞり、耳を噛む。
電流が走るような刺激に、びくりと背を震わせた白石を抱きしめて、千歳はそっと服を脱がせる。
どこまでも優しい手順は、脇腹を掠めて触れて、くすぐったがる白石を笑って、露わになった白い内股を吸い上げる。痕の残ったそこを撫でて、しつこいほど太股を舐めた舌が、やがて奥の割れ目を伝って、双丘をなぞり、窄まりに触れる。
やんわりと刺激するように舐めた後、唾液でべとべとになったそこに、千歳の太い指が触れて、つぷりと入り込む。
それはさほど痛くない侵入なのに。
「…―――――――――――――…っ!?」
びくり、と大袈裟な程震えた肢体を押さえ込んでも、千歳が更に指で中を抉った瞬間、喉から悲鳴が零れていた。
後ずさった白石から離れた濡れた指を拭わないまま、千歳は恐怖を映す顔で自分を見る白石に優しく触れた。
「……なんで…ちとせさん…に抱かれたいんに…ほんまやのに…ッ!
なんで怖い…ッ…千歳さ…俺、…千歳さんが怖い筈ないんに……こわ…ッ」
泣きじゃくる白石を抱きしめて、千歳は見えないように顔を歪めた。
その瞳から、涙が零れる。それは白石には見えない。
「……ごめんな。…ほんなこつは、抱きたかった。
ずっと、ずっと…!
お前を…俺の中で、…優しく閉じこめたかった。
……触れたかった。抱きしめたかった。抱きたかったとよ。…白石」
「…とせさ」
千歳の声が、本当だとわかる。それは、真っ直ぐで、悲しい声。
「……ばってん、お前は、それを怖がるて知っとうた。
お前に、思い出させたくなかった。…泣かせたなかった。傷ついて欲しく、なかった」
―――――――――守りきれないまま、…触れてごめん。
千歳は話してくれた。越前リョーマのこと。彼にされたこと。自分がどうなったか。
「……ごめんな……全部…守りきれないまま……愛してごめん」
涙を零す白石を抱く、千歳も泣いている。声が、泣いている。
「…俺はそれでも…白石を愛しとうよ。
謙也も光も…お前と一緒にいたかよ。
……なあ、…傍、おって。
…遠くに行かんで。…俺達を、…一人にせんで…」
お前がおらん場所は、…きっと星が見えない暗黒なんだ。と。
「…白石……。………………世界で一番愛してるや足りなか。
…宇宙で、…時の果てまで、…ううん、夢の果てまで。
きっと……命の終わりの先まで……俺はお前に…恋をしとうよ」
「……千歳、さん」
「…な、白石。…俺を、好き?」
「…好きや。…この恋は散ることはない。
散るとしても、俺はあなたに恋をした…………………」
雪が降る。
寒い、東京の冬。
晴れた日、白石と千歳たちが別々に出ることになったコンサート形式の番組。
白石は一時的なソロ活動で、すぐ『柊』に戻ると報じられた。
「ほな、聞いてください!」
ステージに立った白石がメロディにあわせて歌い出す。
袖で見ていた謙也たちが不意に顔を見合わせた時。
観客席を見ていた白石の瞳に、ある一人の姿が明確に映った。
帽子を被った、黒い髪。帽子を脱いで、その黒い瞳と眼が合う。
『あんたを、最後まで犯したいだけ』
その唇が嗤った瞬間、脳裏を走る、記憶。
声なき声が、届く。
「あんたは、俺のモノだよ」――――――――――と。
「…―――――――――――――…っ」
「…白石…? …ッ!」
いぶかしんだ謙也の前で、傾いだ白石の身体がステージに倒れる。
観客からあがる悲鳴。駆け寄った千歳が抱き上げて、傍に立った財前がふと観客席を見て、声を失う。
「……謙也くん」
「…え」
「おった」
「……」
「越前リョーマ。……また、こっちにいた。あの人、あいつ見て、気を失った」
「………ッ」
既に姿なき人の群の間。
睨む瞳は、もういない人を見た。
意識が戻った時、白石が目覚めたのは自分と千歳の家だった。
寝台に寝かされた身体を起こすと、傍に寄りかかって寝てしまった千歳。
壁に寄りかかって寝ている謙也と財前。
「……風邪、引くやんか」
くすり、と笑ってベッドから降りると、毛布を謙也と財前にかける。
千歳の背中にもかけて、その癖のある髪に触れた。
「……ありがと」
「千歳さん…」
そう、呼んで、携帯を持つと家を飛び出した。
思い出した。
全て。越前リョーマになにをされたかも、全て。
「…はい、以前の仕事の失礼しました件で…。
……はい」
寒空の冬の街中。
携帯を片手に連絡を取っていた彼の事務所の女性が、それなら今事務所を出たばかりでと返答する。
「……ああ、わかりました。もう、大丈夫です」
そう答えたのは、渋谷の街のビルの下。横断歩道の前、その長身を見つけたから。
事務所にかけて教えてもらえるかは、確率は高かった。
あの男は、自分を獲物としてみている。蜘蛛の巣にかかる蝶々を喜んで誘うだろうから。
その高い背の傍に立つ。寒い風が髪をなぜる。
帽子を被った、黒い髪が流れて気付いて、振り返る。
「越前リョーマ」
その黒い瞳が、やや驚いて見下ろす。
「俺を犯した張本人。…そうやな?」
白石の声に、彼はすぐ微笑んだ。
それはとても、蜘蛛の巣にかかった大輪の蝶を喜ぶ、女郎蜘蛛のように。
「…顔、貸してくれんな?」
今にも雪が降りそうな寒い風が吹いた。
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