「あと三日で終わりですね」
自室に引き上げた白石がそう伸びをして、不思議そうに背後を振り返った。
「千歳さん?」
沈黙した巨躯は、なにかに堪えるように白石を見る。
「……?」
対して、心底不思議そうな顔をする白石の頬を、千歳は撫でて上向かせた。
掠めるだけのキス。
「……」
「千歳さん?」
「…でも、なか」
嘘。
なんでもなく、あって欲しいのは自分。
なにか、ある。
あの小石川という男の対応。そして、
アメリカ二日目のコンサート。
その会場の裾で出番を待つ間、千歳は白石から目を離さなかった。
なにかある、と、言っている。
あの男の対応が、なにより、自分の第六感が。
千歳の様子がおかしい。
なにか、ずっと気を張りつめさせている。
(千歳さん…?)
そういえば、なんで俺、あんな夢見たんやろう。
あいつの、夢。
あいつがおる国やから?
『…約束』
「……え」
頭に浮かぶ、声と光景。
演奏は始まって、歌わなければならないのに。
『ずっと、……行くから…』
頭を、走る記憶。
なに、なに…これ。
頭が引っかき回される。
『待ってて』
違う。
これは、あいつの記憶だけど、違う。
怖いのは、俺が怖いのは。
あいつじゃ、
最初に歌うパートに来たと気付いて、咄嗟に唇を開いた。
喉を裂いた声は、なにも変えてない。
なのに、まるで、違っていた。
「……え」
最初に自分を見て驚いた顔をしたのは謙也だ。演奏の手こそ止めないが、財前も同じように見ていると思う。視線を感じた。
一番強い、驚きの気配は千歳から。
声が違う。
自分の声じゃない。
なのに、訊いたことがある。
止められない。変えられない。
あいつの記憶の所為。
違う。怖いのは、あいつじゃなくて。
何故そう言い切れる。
だって、
『奈鶴だ』
演奏が終わった。
次の曲までの合間、裾に戻った千歳達の視線を多分白石は気付いていない。
彼はそもそも並はずれて肺活量も体力もある。
なのに、たった数曲歌っただけで、今、白石は椅子にもたれて荒く呼吸をしていた。
全身が汗で濡れている。
それより、なんだ。あれは。
あの声は、あの歌声は。
知らない。
白石の、歌声じゃない。
「もう少ししたらスタンバイして。
続行」
あのマネージャーだ。
「その代わり、数日、他の日程は延期。ずらす」
「…え、」
「…あのままの歌声で続ける気か?」
小石川に返す言葉がない。
「…白石?」
「…、あ」
荒い呼吸で肩を上下させる白石の視界に、見慣れた姿が割り込んだ。
なのに、いつもより遠く見える。
「…とせさ」
「どがんしたと?」
「え」
「…いつもと、違うばい」
千歳の言葉の意味を、よくわかっている。
あの、声は違う。
「…けど、千歳さん」
「ん?」
「俺、どうやって出したかわからへん」
「……」
「どうやってあんな声出したか、出せたかわからへん。いつものように歌っただけやのに。いつもの声どないしたら出せるんかわからへん。いつもの声どんなんやったかわからへん」
「ちょ……白石、落ち着くばい?」
そっと背中を撫でられ、抱きしめられる。
心臓の音が聞こえて、自分の心音も徐々に静かになっていく。
「………夢が」
「…?」
「夢が、歌う最中にも見えて…」
「…あいつの?」
「………はい。でも…」
ホンマに、怖い夢は、それやない。
頭上で、千歳が歯を噛みしめた音がした。
「……とせさ……、ちがう」
「なにが…」
「あいつやない。怖いんは…あいつやない」
「……?」
「……俺を、誰かが……呼んでたんや」
怒りに青ざめかけた千歳の顔が、一瞬不思議そうに揺らいだ。
「……『奈鶴』て」
現実と、夢の狭間で俺を呼ぶ。
誰かの声が。
お前は――――――――――――だ。 じゃないって。
寝台に寝かせた白石は、あのあとも歌った。
でも、声はやはり違っていて。
眠る頬を撫でると、微か息が和らいだ。
「…歌声が変わってたのは見たよ」
俺もいたし、会場。と答える青年を小石川が見下ろす。
「どない思う?」
「俺は、そもそもあの人の歌声を知らない。白石蔵ノ介の歌声しか」
「……せやったな。
取り敢えず、今後もガード頼む。
またいつ、あの調子になるかわからへん」
「……俺の夢って、言ったの?」
「…言ったには言った。せやけど、…根本は多分、奈鶴の夢や」
青年が「彼の?」と訊く。小石川は首を振った。
「…正確には、奈鶴って呼ばれる―――――――――――――」
言いかけ、小石川はぱっと顔を上げて越前に繰り出された拳を手で止めた。
越前がハッとして背後を見ると、小石川に手を押さえられた千歳の巨躯。
「…あんた、白石蔵ノ介レーダー搭載?」
ふざけた内容を真顔で言った越前を見下ろし、拳を彼の手から引き剥がして千歳は小石川を睨み付けた。
「どぎゃん状況な?」
「なにが?」
「なにがやなか! なんでこいつがここおっと!?
しかも…っ」
会話の流れから、どう見ても彼が白石に関わることは容認されていたようにしか。
「頼まれてるから。引き受けたから。
白石蔵ノ介のガード。この国にいる間」
「…っで……」
「俺は、……彼の息子だった頃の白石蔵ノ介を知っているから」
息子、だった頃…?
「あの歌声は、過去のものだ。亡霊だ。…蔵ノ介の声じゃないんだよ」
そういう、越前の声こそ、亡霊じみていて。
「……」
千歳から事情を聞いた謙也が、椅子に座り込む。
「越前リョーマが…、なんで」
「しかもマネージャー公認…」
財前の言葉に謙也が軽く顔を上げた。
「……それより」
千歳が話の方向を変える。今、問題なのはそれじゃない。
白石が怖がっていたのは、越前じゃない。
「……奈鶴……」
財前が零した名前に、二人も沈黙した。
「……似てるってこと?」
「…顔が?」
「声、やないですか?」
「………ばってん、赤の他人でそうそう似っとや?」
「…いや、あの人が繋がり隠すとかしとったし…。やから、」
導き出されるのは、親子、しかない。
「…っでも、証拠がないし」
「それに十五年前やろ。死んだん。普通、知らない」
「白石さん、最初から知らない言うてたやないですか」
「いやそうやけど…」
「今更否定すんなや」
押し問答になりかけたその場の会話を断ち切った声は、謙也達と同じ、関西弁。
そこに立つのは、今のマネージャー、小石川。
「今更、ここまで証拠揃っとって、否定してなんなる?」
「……え、あれ……関西弁」
「俺は元々関西人や。そんなことはどーでもええ。
兎に角、白石蔵ノ介の出自を認めぇ」
思わずその『関西弁』に突っ込んでしまった謙也に言い置いてから、小石川は繰り返す。
「……それ、ホンマに…ホンマに」
財前が、本当に?と問いかけた。
本当に、あの人は、あの『歌手』の…?
「白石奈鶴。奇跡の歌声を持つ、亡き天才歌手。
そして、―――――――――――――白石蔵ノ介の、父親や」
「……」
「今は亡き、彼の、生みの親や」
ならば、何故。
何故、隠すのだ。世界に、…白石に。
何故、白石自身が、その事実を知らない。
そう問う三人の視線に、小石川は持っていた鞄を降ろす。
「ちょお来い」
「え」
「見ぃひんことには、お前らは信じられへんやろう」
小石川が案内したのは、ホテルの一室。
そこのテレビ。傍のDVDプレイヤーに小石川があるDVDをセットして、再生した。
テレビ画面に広がるのは、どこかのライヴ会場。
「これは、二十年前、この国で行われた白石奈鶴のコンサート。
歌、よく訊いてみ。…鳥肌立つで」
すぐ始まった演奏と、それに乗る歌声。
文字通り、鳥肌が身体中を撫でたのが、三人ともわかった。
なんだ、これ。
女、とか、男、とか、そういう、わかる、声じゃない。
そういう、線、さえいれられないような、なんか、人間って思うのも難しいくらいの。
歌? 声?
違う。
これは、もう、曲に乗った歌声じゃなくて。
「…………『音楽』…そのもの…………」
完全に、演奏する楽器の音と混ざったような、一緒の『音』。
『声』というのも、馬鹿馬鹿しい程の、『音』だ。
こんな音で、歌える人間が、いるのか…?
その歌が終わってしばらくした後、映像が途切れた。
「こっちは、今から五年前、十四歳の白石蔵ノ介の歌声」
どこかの会場の舞台に立つ姿は、確かに白石だ。幼いけれど。
けれど、歌い出した彼の声も、同じ『音』だった。
声、なんて言えない。『音』。
彼、と全く同じ。
「わかったやろ」
気付けば終わっていた映像を切って、小石川が重ねて言う。
「あれは、白石蔵ノ介の父親や。例え万が一DNAが二人の関係を否定したってこの『声』が否定させへん。
あれは、親子や」
受け継がれた、奇跡の歌声。
「……ばってん、声が、」
千歳が不意に言った。
「声が、違か」
「え?」
「…白石、歌声が……さっきのと、…違か」
聞き返した謙也も、意味を悟る。
そうだ。違う。
自分たちが知る、自分たちの前で自分たちの曲で、歌詞で歌う白石の声は。
綺麗だけど、違う。
あの、映像の中の、幼い白石の声と、全然。
「さっきの映像…白石蔵ノ介の、この国でのデビュー後の最初のライヴ。
白石蔵ノ介は、最初アメリカにおって、この国でデビューした。
…白石奈鶴も、そうや。
…そしてこの直後、白石蔵ノ介は病気になって、入院した」
「!?」
「心の病気。…お前達が知る、あの『病気』の大元の病気や」
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