その日は、仕事に行った矢先から騒がしかった。
「…相談?」
「…うん」
白石にいつものごとく話しかけられて、財前ははて?と首をひねった。
白石と出会って半年。彼もだいぶ馴れてきたし、千歳との付き合いも概ね順調なはずだ。
「…ええけど、今ちょうど誰もおらんし」
「ごめん」
「いや…で、なに?」
「……あの……俺と千歳さん…付き合うてもう半年やん?」
「ああ、そやな」
「……」
そこで白石は口ごもって、俯くと真っ赤になって手を握りしめる。
「……もしかして、セックスがしつこいから嫌…とか?」
「ちゃ、ちゃいます! …そうやったらどんなに楽か」
「…え?」
「……あの、…普通、男の人…て…ほんまに好きな人と付き合うたら…。
我慢出来て二ヶ月くらいやんな?」
「…まあ、大事にしててもそやな」
「…………俺、…ほんまに好かれてへんのかな」
「……、え?」
頭に、まさかの三文字が浮かぶ。
いやしかし、千歳は手が早い。まさかそんなはず。
「……千歳さん、キス以上のこと、してくれんねん…」
思わず財前は持っていたパックジュースを落とした。
幸いまだ未開封だからよかったものの。
「…ちょお待て。確か付き合うてすぐ、一緒に住みだした筈やんな?」
「うん」
「…それで? そんでしてへんの? セックス」
「…してへん」
「……っ」
「…おい、千歳。お前、なに考えてん?」
その二人のいるスタジオ入り口の扉前。
入ろうとして固まった千歳を、同じく聞いていた謙也が問うた。
「……い、いや」
「なんで手ぇ出してやらんねん」
「……いや、それは、すぐ出したか思ったけん。
綺麗やし…かわいか…。ばってん、すぐ手ば出したら怖がらせる思って。
…我慢しとったら……いつの間にか半年経って…逆にいつ手ば出したらよかかわからんくなった…」
「…お前な」
「…実は、そろそろ拷問たい…。いつ我慢切れっかわからんけん…。
一緒に寝とうて手が出せんは…」
「むしろお前が一緒に寝てるんに半年も手を出さないでいられたことが驚きや」
瞬間、勢いついた扉が向こうから開かれた。
「……丁度しばらくスケジュール暇やし、千歳先輩はさっさと今日にでも手ぇ出して来ぃや?」
「…ひ、ひか……っ、…」
開いた扉の向こうにはどことなく怒った後輩と、真っ赤になった恋人。
「…白石」
「……ほんま、ですか?」
「…え、あ………うん」
「……俺…よかった……。魅力ないんかなって」
「そげんこつなか! 白石は世界一かわいかよ!」
「……なら……欲しいです。
すぐ…千歳さんのもんにして欲しい」
「…っ!!」
「千歳先輩〜そこまで言われて手を出さないんはあんたもうそれただの優柔不断っすからね?」
「しっかりせえ」
言葉を残して去っていく二人の靴音が遠ざかる。そのまま細い身体を抱きしめて言う。
「…白石は、初めて、と?」
「…は、はい」
「女の子とも、なか?」
「…はい」
「………俺が、全部初めて?」
「……はい」
赤い顔で微笑んで言われて、心臓は早くなるのに、ひどく幸福になった。
「…俺ば…女の子とは多少経験あるけん…ばってん、ほんに好きになったんは…。
白石が初めてやけん……信じてな?」
「…はい」
「……が、もう…我慢出来んから……覚悟せ」
「……はい」
「……ずっと、お前だけを好いとうよ。
…だけん、…ずっと、俺だけのもんでおって?」
「……はい」
小さくキスを交わした。
「キスもそれ以上も……俺以外と…せんでな」
「…絶対、せえへんもん」
「…うん」
本当に幸せだった。
彼はこれも縁だと言った。
こんな自分が、それでもこんなに幸せな縁に会えたなら、これ以上の幸福なんてないと本当に思った。
「今度は加減してやれたんですね、先輩」
「う…」
「最初にヤった日なんか、相当回数ヤられた上大変であいつ動けへんかったしな」
「…う」
「「よかったよかった」」
謙也と財前に揃って言われて、千歳はぼんやりとキーチェック中の恋人を見遣った。
あれから半月。最初こそ、我慢が切れて相当しんどい思いをさせたものの、お互い馴れてくると回数をセーブしてやれるようになった。昨日抱いたばかりだが、白石に調子の悪そうなところはない。
「…ばってん、なんで俺が白石に手ば出したこと毎回わかっとね?」
「キスマーク」
「え!? 俺ちゃんと見えんとこに…」
「ってのは嘘で。…そうっすね。雰囲気が綺麗っちゅーか、色っぽいんですわ。
あんたに手ぇ出された次の日の白石さん」
「やから、まあただの勘やな」
「……そげんもん?」
「そんなもん。安心せえ。いくらそれで余計綺麗に見えても絶対手は出さへんから。
つかお前に殺されんの嫌やしな」
「同意見ですわ」
「あ、いたいた!」
マネージャーが入ってくるのと、キーチェックを終えた白石が戻ってくるのは同時だった。
「映画出演依頼!?」
「それも、白石と千歳に…」
「そうなの。それも、うちの事務所の上の会社だから、断れなくてね」
「…まあ、俺はよかですよ」
「俺も…」
「本当? よかった」
「どんな映画?」
財前が蚊帳の外の余裕で聞くと、河野は笑って、本気にとらないでね?と言った。
「恋人同士の役らしいの」
「……え?」
「男同士ですよ?」
「あ、あのね。女の子が、男の子の身体に魂だけ入っちゃったって話。
で、それでもその子に惹かれた男の人と結ばれて、元の身体に戻った女の子を彼が探すところで終わるらしいの。
その女の子の魂が入った男の子を白石くんが演じるんだって」
「…なるほど」
「………」
「白石?」
「……あ、いえ」
「とにかく、断れないし受けてくれて助かったわ。
最悪千歳くんがダメでも、白石くんは引き受けなきゃいけないの。
特に白石くんを、って話らしいから」
「どげんしたと白石?」
マネージャーがいなくなった後、終始無言の白石を訝って声をかけると、はぁ、と生返事で頷かれた。
「どないしたんですか? はっきり言うてええですよ?」
「……引き受けた、…ないな…って」
「なんでや? 千歳とラブシーンやで? カメラん前が嫌?」
「…いえ」
「…白石?」
「……、俺はええけど、千歳さんが」
ちらと千歳を見て言われ、千歳は首を傾げた。
「俺は嫌じゃなかよ? 白石と」
「…でも、これ、最後、女の子と再会するんですよね…」
「……それが、ああ…」
白石が嫌がる意味がわかって、財前が手を打った。
「どういう意味?」
「ほら、最後千歳先輩は女の子役とラブシーンがあるんやろって。
それが嫌なんやろ、白石さんは」
「…はい」
「…そっか。白石は千歳の相手だけで済んでも」
「…だけん、断ったら白石が他の男と演じることになると。
俺はそっちの方が嫌たい」
「…あ、そか」
あまりに千歳と女の子の、ということに気がいっていて、そのことは頭になかったらしい白石が今頃そう言った。
「白石さんかて、嫌やろ? 千歳先輩以外の男にキスされたりとか」
「当たり前やないですか!」
思わず叫んでから、俯いてしまう。脳裏に声が蘇った。
“キスもそれ以上も俺以外とせんでな”
「……絶対ヤです」
「…なら、俺とやろ? な?
俺がなんとか言って、最後は再会したとこで終わるようお願いするけん。
な?」
「…ほんまに?」
「うん。ウチはちゃんと人気あるし、そんくらいは通るとよ」
「…よかった」
「ほな、俺ら、マネージャーに言うて来ます」
「俺も」
立ち上がった財前と謙也が、出ていく間際に視線で千歳に“しばらく戻らないから”と含んで笑った。
わかった、と手を小さく振って、向き直る。
「まだ、なんか怖か?」
「…え?」
「あるとだろ? なんか」
「………千歳さん……」
「…白石」
耳元で囁くと、そのまま白い耳朶を甘く噛んだ。
びくんと震えた身体を抱き上げ、そのまま楽屋によくある鏡前に座らせてしまう。
そうすると千歳を見下ろす形になる白石が、真っ赤になって顔を背けた。
「…るいっ」
「…なん?」
「…千歳さん…ずるい…」
「…どこが? …な、白石。…俺のこと、好いとうね?」
片手を服の裾から入れて、染み一つない背中を撫でると更に赤くなった顔が震えた。
「……知ってる癖に…なんで聞くん…。…千歳さん…全部ずるい」
「…俺のどこがずるかね?」
「……、…ええとこ」
「…ん?」
「…かっこええとこも、…俺に向ける笑顔が毎回心臓十年酷使するくらい優しいんも…、呼ぶ声も…触れる手も全部ずるい…。そんなんされたら、…毎日どんどん好きんなる。
も、…千歳さんおらんと…どう息したらええかわからんくらい好きやねん。
…たった半年でこんなんで…。
…千歳さん…ほんま全部ずるい…。
絶対、…あんたわかっててやってる。………好き」
「……俺にしたら、白石も充分狡か…」
伸び上がって、目を閉じた彼の唇を塞いだ。
なにもかも初めてな癖に柔らかい肌も素直な仕草も、呼ぶ綺麗な声も、綺麗な姿が自分の前でだけひどく可愛らしくなることも、向けられる笑顔が犯罪的に可愛すぎるのも。
(俺にしたら、そっちの方がずっと狡か…)
心臓を毎回十年はおろか、二十年くらい酷使させられているのはこっちだ、と言ってやりたいけれど、やめた。
そんなことを言ったら、彼は心臓を三十年は酷使してしまうだろうから。
告げた時の顔を見たいけれど、とても見たいけれど。
そんな顔はいつだって俺は見れるんだから、今は。
今は触れている、この唇だけでいい。
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