撮影開始から三日。
必然、仕事は千歳と白石が一緒のことが多くなったが、前から一緒にいるのは同じだと気にしなかった。
奇しくもその日はあの日のような鏡前でのキスシーンで、終わった瞬間「カット」という監督の声が響いても、白石はなかなか現実に意識が戻らなかった。
(…どうでも…よくあらへんけど…、撮影中は本気のキスするんやめて欲しいかも…)
うっかり本気になってしまう自分が経験不足なのか、千歳が馴れているだけか。
『馴れてるだけやないん?』
休憩の合間に財前に電話すると、そんな風に言われた。
「…やけど」
『あんた、気にならへんの?』
「…なったかもしれへんけど」
『なんで過去形』
「…今、本気で俺んこと好きでおってくれるんなら、…別にええもん。
千歳さん、前の彼女に会ったって、絶対俺選んでくれるし」
『…あんたもノロケ言えるようになったんなら充分ですね』
「…あ、ごめん」
『いやいいです。ほな、俺戻らんと』
「あ、うん、ありがと光」
通話が終わって、少し赤くなった頬を押さえる。
(あれが世間一般でいうノロケってヤツやったんや…初めて知った…)
「あ、白石くん? ちょっといいかな?」
「あ、はい?」
映画のスタッフに呼ばれて、顔を上げる。
「ちょっと、監督が話があるんだって」
「はい。あ、じゃ千歳さん…」
「いや、なんかキミだけに」
「…?」
監督の部屋は広い八畳ほどの部屋だった。
よくここを利用するらしく、撮影中はいつもこの部屋にいて、そのため部屋に置きっぱなしの私物も多いと聞いた。
「白石です」
「ああ、入って」
「はい…。あの、なにか?」
中に入って、多少不安げに椅子に座る自分を見遣る白石に、ああ違うと手を振った。
「演技になんら問題はないよ。大丈夫。千歳くんといい、素人とは思えないよ」
「あ、そうですか。よかった」
「…で、それとは別にね。キミに聞きたいんだ」
「…はい?」
「…キミと千歳くん、恋人なんだってね?」
首を傾げた白石に向けられた言葉に、白石は一瞬理解が追いつかない顔をした。
「…え」
「恋人なんだろ?」
「……それは、演技ですし」
「そんなベタな受け答えはいらないよ。普通に日常でお付き合いしてるんだろ?」
いくら白石でも、そういうことが知られるというのが、世間でどうマイナスかくらいわかる。
わかりやすく青ざめた白石に、監督は思惑通りという風に笑った。
「……あの、でも…、そんなこと、あなたが言ったくらいじゃ、誰も信じひんと思います」
「…意外と打たれ強い子だね。初めてみた時とは大違いだ。
…そんなことは承知だよ。…だから、こんなものを用意してみた」
ぱさ、と机の上に置かれたのは、白石と千歳の家での風景の写真だった。
当然、キスを交わしている写真も多い。
「…こんなものもあって、信じない、はないだろう?」
「………どう、して」
「……キミに興味があったから、だね。
キミが言うことを聞いてくれるなら、写真はネガも燃やすよ。約束しよう。
なに、撮影が終わるまで触れさせてくれればいい。絶対最後まではしないよ。
キスさせて欲しいだけだ。
撮影が終われば、二度と手は出さない。
写真も世界から消す。
…悪い取引じゃないと思うが」
「……、」
「…どうする?」
喉がさびたように声が出ない。
逃げ出したい程怖いのに、それが許されないことも知っている。
なにより、千歳のために、そんなことは自分に許してはいけなかった。
キスもそれ以上も、俺以外とせんでな?
「………、」
蘇るのは、あの暖かくて、幸せだった声。
今すぐ会えるなら、思い切り胸の中で泣いてごめんなさいと謝りたい。
「………わかり、ました。
でも、絶対千歳さんには、なにもせんでください」
「…約束しよう」
立ち上がった監督が近づいて、手を掴む。それだけで震えた白石を見て笑い声が降った。
「やっぱり初めてみた時と変わっていないね。
デビューした時の番組で見たんだ。隠していたみたいだけど、ひどく純真無垢で素直で、可愛い子だってわかったからね。
おまけに経験もないなら、満点だったんだけど、それは千歳くんに汚されてしまったか。
まあ、彼のおかげで手に入るんだから、文句はあんまり言えないけど」
言葉から、汚されていく気すらした。
千歳をそんな風に言われたくなかった。汚されたなんて思ってない。
そんな汚いものじゃない。
顔を寄せられ、逃がさないように抱かれて唇を塞がれる。
千歳と毎日しているはずなのに、恐ろしい程気持ち悪かった。
離れた瞬間、彼は満足そうに笑った。
「やっぱり、キミは極上に素直で無垢だね。キス一回で泣いてしまうんじゃ、可愛くて仕方ないだろうな」
「……っ」
今ので知らず泣いていたと気付いた時に解放されていた。
「また明日、来てくれるね?」
「……失礼、します」
ぱたぱたと出ていく白石を見送って、彼はまた笑う。聞こえたそれが、耳を犯すような気がした。
洗面所で水を流すでもなく、ただ縁に手を付いていた。
「……っ」
そのままその場に座り込む。
「……う…」
(怖い…怖かった……。それよりなにより…千歳さんを裏切った……!)
ただ、涙が止まらない。
怖い。
また繰り返されるだろう行為も、千歳に知られることも。
なにもかも。
「……ふ……っ」
「白石!?」
聞こえた声にびくりと身が震えた。
見つかったのかと思ったが、姿は視界にない。
遠くから自分を捜しているらしかった。
(今見つかったら、…涙まだ止まってへん。
絶対おかしがられる…)
はっと目に留まった蛇口をひねる。
「白石! …どこ行っとったと?」
近くまで見つけて駆け寄ってきた千歳に、洗った所為で濡れたままの顔をあげて微笑む。
「…あ、すいません。ちょっと打ち合わせに呼ばれてて。
今日もう終わりですよね?」
「あ、ああ」
「なら、はよ帰りましょ。あ、」
「ん?」
「今日…、シてもろてもええ…ですか?」
「……あ、ああ。……うん」
「…はい」
珍しいおねだりに思わず顔を赤くしてから、ふと白石に声をかける。
「…顔、拭かんでよかと?」
「あ、今拭きます」
持ってきていたタオルで顔を拭って、白石は洗面所から出ると行きましょと促した。
(…顔濡れてれば気付かれへんし。…もう、止まった)
その時は些細な違和感に、千歳はほんの少ししか異変を感じられなかった。
「最近、おかしいですわ」
それでも念のため、財前たちにも聞くとそう返ってきた。
「映画の撮影日んなるとやたらおかしいわな」
「…やっぱり?」
「ええ」
「…千歳も心当たりあるんやろ?」
「…うん」
最近ずっとうなされていることが多い。
一度心配になって起こした千歳を見上げて、彼は今にも壊れそうに泣いた。
「白石、」
「はい?」
「…なんか、隠してなかね?」
「…いいえ?」
「…ほんに?」
肩を掴んで問うと、少し怯えた顔が、それでも否定した。
「なんにも」
「……そか」
千歳の声に、すがれたらよかった。
納得したように離れた千歳に、もっと酷く追求してくれとすら身勝手に願った。
そうすれば、素直になれたかもしれない。
「…白石です」
この扉を叩く悪夢は、いつになったら終わるのか。
中で招く声に、逆らわず入った。
「相変わらず、泣きそうな顔をしているね。まあ、その方がキミは可愛いが」
「…はよ、済ませてください」
「……そんな強い言い方をしても、声が震えていては相手を欲情させるだけだ、と」
肩を抱かれて、その千歳以外の感触に身が跳ねた。
「千歳くんに教わらなかったのかい」
答える暇なく唇を重ねられる。いつもより長いそれに、恐怖を覚えた白石が服を引っ張ると、更に深く舌を絡められた。頬を伝う涙をようやく離した口でなめとって、そのまま首筋に這わせる。
「っ…キスだけや言うたやないですか…っ」
「これもそうだろう? 千歳くんを思うならじっとしなさい」
「……っ」
きつく瞼を閉じて背けた顔の下、首筋を強く吸われてチリと痛みが走る。
それでも離された身体に、もう終わったと安堵した矢先。
「…え…っ」
身体を易々と抱き上げられ、あわてる暇なくソファに降ろされる。
起きあがる前に上に乗り上げられた。
「…キミほど無垢な子でも流石にわかるだろ?
大人は口約束なんか守らないものだ」
「……や」
口角をあげた監督の手がシャツの襟にかかって、はたと気付いたように傍のペーパーナイフを取り出す。
そのまま恐怖に潤んだ瞳で見上げてくる白石のシャツを下から上まで一気に裂いた。
すべらかな肌に手が這わされて、身をよじる白石の耳元で囁く。
「そこのテーブルにおいてある新しい服を帰りは着るといい。
汚したとでも説明しなさい」
「……、…や」
今すぐ殴ってでも逃げ出したい。
だけど、その先で千歳にかかるものを思えば、身動きすら出来ない。
千歳を守りたいのに、それが千歳を裏切っている。
怖かった。
「……?」
不意に身体を離される。
「嘘だよ。そんなに泣かなくていい。
私は口約束も守る大人だからね。安心しなさい。さあ、もう戻った」
はい、と代わりの服を渡されて、掴みとると部屋を逃げ出した。
息が切れる程走って、誰もいない楽屋にたどり着く。
服を着替えることも忘れて、しゃがみ込んだ。
(怖い…今度は…ほんまに裏切ってまうって思った…)
ああ言われたけど、次はわからない。
今度こそ本当に。
「…怖い…助けて……千歳さん………」
今すぐあの腕に抱きしめられたかった。
「白石、白石!」
「あ、ああ…すいません」
「どないしてん? ぼーとしすぎやで今日」
「…はい」
新曲の話がやっと立ち上がった翌日、久しぶりにメンバー全員で集まった。
謙也にいぶかられて、ぼーっとしていたと気付く。
「どないしたんほんま…」
「…いえ、すいません。ほんま、大丈夫です」
「…そうかぁ?」
「はい…」
「…まあ、いざとなったら千歳先輩おるし大丈夫でしょうね」
「…はい」
財前の言葉に、どこか悲しそうに頷いてしまった白石に、いよいよ二人もいぶかしがった。
そこにジュースを買いに行っていた千歳が戻ってくる。
ほんまおかしい、と千歳に振ろうとして、謙也はふと気付いて笑った。
「やけど、そんでもヤることはちゃんとヤってんやな?」
「え?」
「白石、首筋。千歳のキスマーク見えてんで?」
「……え?」
一瞬意味がわからないような顔をした白石を、千歳がじっと見つめた。
キスマークなんて、千歳は絶対見えるとこになんかしないのに。
そこまで思った瞬間、それが誰がつけたものかを鮮明に思い出して、手で思わず覆い隠した。
「………」
それでも、千歳の目にはもう焼き付いている筈だ。現に、彼は無言で、恐ろしい程静かな表情で自分を見ている。
「白石」
低い声で呼ばれて、心臓から震えた気がした。
「……それ―――――――――――――なんね?」
「…え?」
驚いたのは謙也たちだが、千歳は構っていない。
「それ…、誰と」
「……っ」
一瞬にして、脳裏に浮かぶのはただの恐怖故の想像だ。
それでも、想像だけで千歳に突き放されるかと思うだけで泣き出したい程恐ろしく、思わず椅子を蹴倒して立ち上がり、その場から逃げ出した。
「…え、まさか…千歳や…ない?」
「後、任せっと」
すぐ後を追った千歳を見遣って、財前は頭をかく。
「謙也くん、俺ら相当平和ボケしてたみたいですわ。
…ちゃんと、俺らも真剣に考えなあきませんね」
「…やな。とりあえず、千歳がちゃんと連れてくるん待ってや。
そやないと、話してくれそうにない」
「大丈夫でしょ。千歳先輩なら。
あの人が白石さんを傷付けるわけ、ないわ」
「…そらそうや」
(どこか、どこか隠れられる場所…)
眼前に映った使われていない更衣室を見つけて、扉に手をかける。
かちゃっ、と開いた瞬間背中から伸びた長い手が扉を叩いてもう一度閉めた。
ばたん、という大きな音がエコーのように響く。自分の頭の辺りで伸びている手は、振り返ればわかるだろう。振り返らなかったが、千歳だとわかった。
「…白石」
「……、……」
「……なんね? …って聞いたとよ?」
「……ち、…さ」
「…答えられなか? …とりあえず、目立つたい。中入るとよ」
かちゃりと開けられた扉に逆らえず、背中に刺すような視線を感じて足を踏み入れた。
ばたんと扉の閉まる音と、施錠される音。
逃げられない。けれど、千歳から本当の意味で逃げたくはない。
「…白石。…答えて」
「……なに…を?」
「その、首。誰か?」
「………答え、たくな」
「白石」
はっきりと、強く呼ばれて身がびくりと震えた。
「言わんね?」
「……っ」
「……白石。…はりかかれたか?」
「……え」
「ああ、意味わからなかか。
…本気で怒る、…て言うたよ?」
「…っ」
「…白石、…俺にひどいことされたかね?」
壁まで下がってしまった白石を囲むように腕で追いつめて囁くと、白石は身を竦ませて千歳を見上げた。
その見上げる顔が見たこともない程残酷に歪んでいるのを見た瞬間、張っていた何かの糸がふつり、と切れた気がした。
「………っ」
「しらい…」
「…っ…さい」
「え」
「…ごめ…なさ…ごめんなさ…っ…ごめんなさい…っ!
お願い…します。捨てへんで…嫌いにならんで…っ…!
なんでも…するから…いらんくならへんで…!
捨てへんで…!
…ごめ……とせさ……千歳さ…っ…捨てんといてください…っ!」
必死に泣きじゃくって、最後には立っていられず座り込んでまで訴え続ける姿を見て、千歳は今まで胸に浮かんでいた怒りはどこへやら、しまった、と己を責めたくなった。
(…阿呆たい、俺。
光に白石はパニック体質やって聞いとったとに…それを責めてどげんすっとね…)
自分の頭をかいて自分に溜息を吐くと、それも自分へだと怯えた身体にあわせるようにしゃがみ込んで、つとめて優しい声を紡いだ。
「…捨てなかよ」
「……ごめ…なさ」
「白石、…」
手をそっと握って、顔をそっとあげさせてやる。
怯えて涙を流す頬にそっと口付けて、怖がらなくていいと伝えるように頬や瞼に口付けを繰り返した。
「白石、俺の声、聞いて?」
「……」
「聞こえっと?」
涙を拭わないまま、こくりと小さく頷いた白石の手にちゅ、と口付けた。
「…俺は、白石を絶対捨てなか。…絶対、なにがあっても」
「…ほんま…に?」
「うん。…白石は俺と別れたか?」
「そんな!」
「俺も」
ぱちぱちと瞬きして、見上げる瞳に伝える。俺も一緒だ、と。
お前が俺と別れたくないように、俺も別れたくないと。
お前が怖いように、俺も怖いんだ、と。
「…な、白石。俺がなんで怒ったかわかっと?」
「…俺が…千歳さん…う…裏切っ…たから」
「…裏切ったつもりでおると? 裏切りたくてやったと?」
「っ…違う!」
「俺もそう思っとう。
俺が怒ったんは、ただ、俺の白石に触れたヤツがおったことにたい。
白石に怒ったんじゃなか。
白石に触れたヤツに怒っただけたい。…勘違いさせて、泣かせてごめん」
ぎゅ、と引き寄せて抱きしめた。
小さく震えている。
「…俺に、怒ってへんの?」
「当たり前たい。…ほんに白石の意志で浮気されとーなら怒ったかもしれんばってん、白石は絶対そげなこつせんって俺は信じとう。
白石、俺が前に彼女おったこと知っても、俺信じてくれたとね?
『彼女より俺選んでくれるって信じてる』って光に聞いた。
…俺も、…そげん風に白石を信じとうよ」
「…とせ…っ…さ」
「…ばってん…白石が一人で苦しんでるんは俺も辛か。
助けたかよ。…白石、…今まで一人やったけん、一人で解決せんとって思うんはしかたなか。だけん、今は俺たちがおる。
…一人で泣かんでよか。
…白石」
「………」
そっと、優しく顎を掴んで、抱きしめたまま口付ける。
「…愛しとうよ」
「…っ」
すぐ涙に歪んだ身体が、腕を伸ばしてすがりついてくる。ただ必死に。
「…ごめんなさい…っ!
ほんまにキス以上されてなくて…それ以上せえへんって…。
でもされそうになって…怖くて…っ。いつかほんまに千歳さん裏切ってまうんやないかってこわ…怖かっ……。ほんまはずっと…ずっと抱きしめて欲しかった…。
ほんまはずっと助けてて言って抱きしめて欲しかった……っ」
「…うん。わかっとうよ。
…一人で怖かったとね。…頑張ったと。…もう、大丈夫たい」
「……っ…千歳さん…………。ごめ……でも、ほんまに…俺……」
「……あなたが好きや…」
零された嗚咽混じりの告白に微笑んで、より一層強く抱いた。
「…ありがと。好いとうよ。白石…」
落ち着かせるように背中を撫で、しばらく抱きしめてやる。
嗚咽が収まったことを確認して、そっと身体を離した。
その濡れた唇にそっと指を当てる。
「…落ち着いて…深呼吸。
…ワケ、話せっと?」
「……あの、…俺…と千歳さんが付き合ってるって…知られて…写真もあって。
拒否したら…千歳さんも…謙也さんたちも大変になるって…。
キス以上はせんからって……」
「誰?」
あくまで優しく聞くと、白石は少しの沈黙の後、唇を震わせて答えた。
「…あの、…監督」
「…そか。…気付かないでごめんな。…もう、大丈夫。
怖いことは、終わりたい」
抱きしめてくれる腕は、あれほど願っていた場所だ。
また溢れる涙に構わずすがりついた。
(なにを一人で悩んでたんやろう…。俺一人の問題やないんに。
バレたら千歳さんの…、それに…謙也さんや光…、グループ全体の問題やったのに。
…それに、今は一人やなかった。
謙也さんも光もおる……千歳さんがおったんに…。
一人で抱え込む必要は……もうなかったんや。
…もう、独りやなかったんや)
「……ごめんなさい」
「謝らんでよか」
「……ありがとう…」
「…うん」
泣き疲れて眠りそうな腕の中、ただ心地よくて、ただ安堵して。
ずっと抱きしめられていた。
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