男のコの事情

◆男のコの事情◆










 そもそも喧嘩というものは。

 周りを巻き込むにしてもどちらが悪いのかは大抵一瞥して判るもので。
 片方が一方的に怒っている場合もあればお互いで険悪な場合もあって、巻き込まれた方は知るかと放って高みの見物を決め込むか、仕方がないと巻き込まれた自分の不運を諦めて打開に乗り出すか。余程薄情であるか、相手が自分に取って苦手な人種でない限り大抵の人間が取る行動は後者。
 それにしても、喧嘩の発端が導き出されればこそ第三者の介入もあるわけで。

 ――――――――――――――すなわち、発端すら不明な場合、打開の仕様がない。





 台風、到来。





「――、不二」
「………………」
「…おい、不二」
「……………」
「…不二、聞こえてるんだろう? 返事くらい――――――――――――…」
 遮ったのは、頭一個分低い彼の随分失礼なため息。
「――――――――――――――――見下ろさないでくれる?」
 もの凄く不愉快なんだよね。
 普段の笑顔は何処へやら。完全に冷め切った表情でそう宣うと、不二は足音も立てずにその場を後にする。
 その場=図書館。
 図書の係りの人からは遠く、他の生徒の姿も見られない日曜の館内。
 入り組んだ棚の影に当たる場所であった会話を、偶然、居合わせて訊いてしまった後輩は、巻き込まれたかななんて不運を物ともせず、しかし呆れて、相当上にある相手の顔を見上げて問う。

「今度は何やったんスか? 乾先輩」
「………………、企業秘密」
 ずっと見ていれば首が痛くなる程の距離を見上げているし、そもそも彼は青学テニス部内でも表情に感情が混ざらない人間の筆頭で、だから表情から感情を伺うなんて、越前には到底不可能な所行だったのだが。
「………………………」
 こちらも足音を立てずに過ぎていく乾の背を見送りながら、怪訝な顔で一呼吸。

 あの人が防戦一方なだけの台詞で去るなんて、おかしい。

「………絶対何かあったな」
 この時期に厄介事になんか巻き込まれたくはないんだけど。
 だけど、相手があの二人だし。
「…ま、いっか」
 何があったか知らないけど、隠せないようじゃ二人共まだまだだねなんて思っていられる辺り、彼はまだ強者な部類であった。



「はい、菊丸」
 差し出されたジョッキに並々の野菜汁を眼前に、菊丸は心底ミスした自分を後悔した。
 午後から始まった今日の部活で、以前にもやったカラーコン当てをやっていたのだが、単純な不注意で外してしまった。
 それがこの結果で。
 一度、飲んだことがあるとはいえ。いや一度飲んだ事があるからこそ。
(…もう絶対飲みたくなかったってのに…………)
「…………………、………っ!」
 意を決して深呼吸、一気に口の中に注ぎ込む。
 周りでうわーなんて表情で見守る面々も飲んだ経験があるだけに、菊丸の葛藤やこの後の行動は予測できる。
 ジョッキの中身を一気に飲み干した菊丸の手からジョッキが零れ落ち、彼自身の足の上に落ちる。が、菊丸は無反応だ。少なくとも背中を向けられているレギュラー陣からはそう見えた。

「………英二?」

 足よりむしろ水道へダッシュしないことを訝った大石が声を掛ける。
 それですら反応のなかった菊丸が、飲み干してから約一分経過後に突如我に返ったように全速力で水道へダッシュした。
 竜崎先生との話でコート内に居らず、戻ろうとした矢先内側から乱暴に開けられたフェンスががしゃんと揺らぐのよりも去っていった菊丸を果てまで見送って、手塚はゆっくりと乾の方を見遣る。

「………改良版か?」
「飲んでないのによく判ったね」
「菊丸の顔が完全に真っ白だったからな。死人かと思ったぞ」
 とりあえず他人事の域で話す手塚の言葉に、周囲の顔色が一様に低下する。
 明日は我が身。
 流石に心配になって何度も水道の方を気にする大石だったが、追う為には同じ物を飲む必要が必須のようで、追うことすら出来ずに視線だけが行き来している。
 そのテンションの中で全く怯えもなく。
「手塚、やろ?」
 なんて声を掛けられる不二にある意味尊敬するが。
 何か、思考に引っ掛かった気がして、越前は大石と同じように水道の方を見遣る。


 ボールがフェンスに跳ね返る音。
 相変わらずノーミスで野菜汁を回避した手塚の横で、ミスした不二のボールが転がっていく。
 乾に差し出されたジョッキを素っ気なく受け取って、一気に飲み干して、乾に突き返す。
 そこまでは常の不二のリアクションだったのだが。

「…………、……っ――――――――――――――――」

 乾から踵を返して数秒後、一瞬足が止まったかと思うとぱっと自身の口を押さえて、菊丸の消えた方向へと駆け出してしまった。


『………………………………………………………………………………………………』

 以下同文の沈黙。


「…………………………………嘘、っしょ…不二先輩まで」
「…………………不二でも堪えられないって……………」
 背筋に、否応なしに走る怖気。冷や汗。
 茫然とするレギュラーの中で、同じように言葉を失いながらも、越前は乾の方を見る。

(……、)

「…………………?」
 同じように、表情の全く読めない様子で不二の去った方向を見つめる、姿。




「……っ……ぇ………――――――――――――――――……うぇぇ……………」
 水道の捻られたままの蛇口。
 絞める気力もなく地面にへたり込んでぜーぜー荒い息を吐く菊丸の耳には、蛇口から垂れ流しの水の音も、当然誰かが近づいてきた音も耳に入らなかった。
「……………し………、死ぬひゃとももったぁぁ………」
 何だかろれつの回らない言葉が泣き声のような調子で漏れる。
 というか、泣き声だ。拭う暇も気力もない意識外の涙がぼろぼろと頬を伝う。余程身体が吃驚したらしい。
 精神も吃驚だったが。
「…英二?」
「…………ぅえ…?」
「英二――――――――――――――――…大丈夫?」
 太陽の陽で表情が影になりながら、問い掛けてくる柔らかな声。
「……ふじ……?」
 なんでいんの? なんて呼び声に、不二は少し申し訳なく笑った。


「………――――――――――――――――喧嘩? 乾とぉ?」
 ようやくまともに響くようになった声が、思い切り語尾を上げて吐き出された。
「……………て、不二と乾が?」
「…うん」
 菊丸の被った被害に流石に申し訳なくなって事情を説明した物の、やっぱり機嫌は不二も悪いらしく、やや憮然として頷く。
 しばらくは大丈夫だと腰を下ろした草原。過ぎ去る風は心地よいのだが。
「………………」
「驚いた?」
「……ってか、お互いがそこまで怒ってるって事に。
 今までそこまでいかなかったっていうか、喧嘩自体稀だったじゃん」
 お互い冷静な質で、しかも感情のセーブが上手い二人であるだけに。
 喧嘩してもお互いの範囲だけで収めてたし。周りに被害が及ぶなんて初めてのことだ。
「……だから、お互いそのセーブがなくなっちゃってるんだ」
「……なんで?」
「判らないから」
「………何が?」
「喧嘩の発端が。
 もっと詳しく言えば悪い方が」
 笑顔もなく、あっさりと不二から吐かれた言葉をまともに理解するまでに時間が掛かって、菊丸はたっぷり十回長い呼吸を繰り返した。
「………――――――――――――――――不二、が?」
「ううん。僕と乾がお互いに」
「…何ソレ。原因も分からずに怒りあってんの?」
「うん。判らないから打開しようもなくて、で今の結果」
「…………でって」
 流石に俺、もっかい同じの飲みたくないよ。
 不二には悪いけど。

「…――――――――――――――――……、不二、よく抜けてこれたな…」
 乾機嫌悪いのに。
「野菜汁飲んだ後に、気分悪い振りで途中までダッシュしたから。
 今頃僕まで脱落したことに驚いてるだろうね」
「…って事はお前、あれですら平気だったんかい」
「まだまだだよあのくらいじゃ」
「………………………………………………」
 俺、一瞬三途の川見たかもってくらい思考がフリーズしたんだけど。
 こいつ本当に人間の味覚してんのかなとか、本気で思ったり。





「…――――――――――――――――よかったっスね、免れて」
 一方コートの方で。
 途中竜崎先生に、手塚と共に乾が呼ばれた為、野菜汁の被害から逃れられた面々は胸を撫で下ろして佇む。
 そこに今の越前の台詞。
「…お前、いやに平静だな」
「んなわけないっしょ。俺だって嫌っスよあんなん飲むの。
 でも今の状況打破しないとまた同じ目にあうっスよって言ってんです」
「……今の、状況?」
「気付かなかったんスか? 乾先輩滅茶苦茶機嫌悪いっスよ」
 不二先輩もね。とは胸中で。

『……全然』

「あの人隠すの上手いっスから……」
「お前、何で判ったんだよ…」
「今日午前、来る前に図書館寄って来たんスよ。
 そこで乾先輩と不二先輩見たんです」
 再び訪れる沈黙。
「………喧嘩?」
「じゃないっスか? どっちが悪いか知らないっスけど」
「それじゃどうしようもないだろ…」
「でも、不二先輩乾先輩と口訊くのも嫌って感じでしたから――――――――…。
 一度、二人きりで話し合いさせた方が、いいとは思いますけどね」
 また被害被らないうちに。
 ぼそりと呟かれた物騒な台詞に、先程の恐怖を思い出してか、レギュラー面々は顔を互いに見合わせた。





「あ」
「…? 英二?」
 部活終了して間もなく、部室に向かっていた足が止まった事に、訝ったのは一瞬。
 反対側で大石が呼んでいる姿が目に入った。
「……じゃ、僕は先に部室行ってるから」
 行っといで。と告げる不二に、ごめんと目配せして菊丸が駆けていく。
 まだ完全に暮れてはいない、けれどもうほとんどの空を夜に沈めた暗い天上。
 校門の向こうの空の片隅に残る黄昏。建物の影はただの黒。
 一つ、小さな息を吐いて、不二は部室のドアを捻った。

 窓硝子は、僅かな太陽の残りに照らされて、中身なんて見せてはくれなかった。
 ドアを開けて、ろくに中も見ずに閉めて数歩踏み出して。から、気付く。

「………………………………………」
 お互いの沈黙。
 よりにもよってこの状態で。
 二人きりになる状況だけは避けたかったのに。

「………………………………………………………………………………」
 お互いの言葉もない息遣いと、衣擦れの僅かな音。
 誰か来ればいいのに、こういう時に限って誰もドアを開けてくれない。
「………………不二、」
 先に口を開いたのは乾で、無視すれば良かったのに、この状況でそれもはばかられて。
「……なに」
 返った言葉のきつさに、自分で睥睨する。
(仲直り、したくないわけじゃないのに)
 彼にだけ、こう言うとき優しくできない。
「…何か、話したら?」
「じゃあ、他の皆どうしたの? 鞄置きっぱなしなのに」
 いないのはおかしい。
「いてほしかった?」
「当たり前じゃない。何言ってるの?」
 着たばかりのカッターシャツが振り返った身体の動きで皺を造る。
「いないほうがいいわけ君は?」
「そういう意味で言ってるんじゃないだろ」
「そ? それにしては今日は随分酷かったんじゃないの? 英二なんか涙目だったのに」
「そういうお前まで脱落するとは思わなかったよ」
「あんなの嘘だよ。あのくらいじゃ僕には効果ないね。
 本気で僕が脱落したと思った?」
「――――――――――――――――嘘? なんで?」
「英二の様子見たかったの。だっていつもと明らかに違ったんだもの。一人で放っておくのはあんまりにも薄情」
「不二は何するにしても菊丸が先に来るんだな」
「だって大事だもの。原因を作ったのは君でしょ?
 そんな言い方って酷いよね」
「自分は悪くないって?」
「当たり前じゃない。あの状況で君以外の誰が悪いの? 責任転嫁するなんて最低。
 そもそも君はさ、昔から“自分は関係ない”って体勢だったよね。
 僕にまでそういう態度取るとは思わなかった」

「同じ面で笑ってる奴に言われたくないけどね」

 嘆息と、諦め。同時に吐き出された言葉。
 空気に拡張していく言葉を、後悔するにはあまりにも遅い。

(だって僕にはこの顔しかない)

 売り言葉に買い言葉の自覚はあるけど。
 仲直りしたくないなんてはずなくて。だけど普通の女の子や菊丸ほど素直でも可愛くもない自分は。同じだけの言葉で話すしかなかった。
 いつも君にだけ優しくなれない。
 最後の意地で造り上げた笑顔は、我ながら仮面のようで。

「――――――――――――――――……、いけない?」

 そういう事で一杯。惨めに泣く事も出来ない程度には、意地っ張りな自分。

 眼鏡の所為で、見えない双眸の色。表情。
 いつもそれでも分かれたのに、今は全然表情が見付からない。
 かつ、と鳴る靴音。言葉もなく近寄った身体が、腕を持ち上げて、ゆっくりと不二の髪を撫でた。


「………ごめん」
(言っちゃいけないって判ってたのにな)
 くしゃりと、色素の薄い髪を撫でる。指に絡んだ、懐かしい感触。
「……ごめん、不二」
 仲直り、したいはずなのに。傷つけたいはずじゃないのに。
 素直になれないのはお互い様。
 同じ視点で話せる君だから、何時だって優しく話せなかった。
「…………………………………………………痛くしたよな」
 髪を手で掻き上げて、額に口付ける。
 拒まずに、それでも泣かずにいる彼を、強いと思った。
 いつも、言わなくても判ってくれたから。それを理由にしていた。

(頭がいい癖お互いにお互いで自分の感情を伝えるには不得手で
 相手が読んでくれるのを待つ――――――――――――――…子供じみたプライド)

 抱き締めて、腕に力を込めれば、不二の手が服を掴んで縋り付いた。
 ぽとりと落とされた言葉と、子供のような仕草に、込み上げるのは苦笑と感情。

       ごめんなさい。



 もういいよ。どっちが悪いかなんてもうどうでもいい。
 そう思ってから、ふと思い出す。

(ああ、そうか)

 何時だったか、少し前の日だった。
 学校で、用があって一階下に降りた時。
 君のクラスで見た光景。

(笑ってたから)

 俺だけに見せてくれる顔で、菊丸に笑っていたから。

 部活で話しかけられた時、つい冷たく返して。君もそれに乗って。

(ああ、そんな切欠にも思いつかない事が原因)


 忘れていたよ。

(何時だって、自分だけに笑って欲しかったから)




Side:f+after