−デビル・ポーラスター


 第二章−
【昏迷路−フレイムウィッチの章−】



  
−王宮編−





 ―――――――――――――“千里”…?

 その言葉は、呼び声は、あり得ないものだった。
「…蔵……?」
 驚いて、ただ驚いて白石を見下ろした。
 自分をそう呼ぶ、白石は知らない。見たことがなかった。
 呼んで欲しい、と強請ったことは、あったけれど。
 茫然と自分を見上げる白石は、繰り返し“千里?”と呼んだ。
 疑うように、それとも、怯えるように。
「……いや、ちゃう。千里は…千里は…俺、………俺を………」
 そう呟くように吐いた唇。手は額を押さえて、もう一度見上げた千歳を確かに認識した瞬間。
 その顔は、一色に塗り替えられた。
 ―――――――――――――完全な恐怖に。

「…ぁ」

「あああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 その喉を裂いた悲鳴に、扉の外にいた石田が一番に反応して飛び込んできた。
「し…殿下…!?」
 駆け込んだ石田と茫然とする千歳の前、白石は恐怖に怯えきった顔で頭を抱え込んで壁際に後ずさる。
「………や……イヤや……ッ」
「く、……蔵……?」
 千歳の顔が、引きつったような乾いた笑みを浮かべた。
 何故、俺を見てそんな怯えるのだ、悪い冗談はやめてくれ、と。
「……蔵……?」
「触るな!」
 伸ばしかけた手が拒絶に強く振り払われる。
「…来んな…触るな…やってお前…俺を……ッ!」
「…殿下……!? 千歳はん…いったい」
 なにが起こったか石田にはわかるはずもない。千歳にすら、わからない。
 声を聞きつけた橘が覗き込んで、冗談はやめてくれと白石にもう一度手を伸ばした千歳の名を呼んだ。
 よせ、と。
「ッ…ブラックカーテン!!!」
 間に合わなかった。橘は、魔法の発動を察したのだろう。千歳は、察せなかった。その動揺故に、あり得なさ故に、信じられずまさかとすら疑わなかった。
 漆黒の闇の壁に弾かれた手から、血が僅かに出血するのを、気付かず千歳は白石を見下ろす。
 今、なにが起こったのだと。
(……蔵が)
「……蔵が、俺ば…魔法使うて……拒絶した…………?」
 茫然と呟いたことが紛れもない真実。
 信じたくなくて、感覚を失ってよろけた千歳を橘が咄嗟に支えた。
「しっかりせんか千歳!」
「だけん…桔平…蔵が」
 ほとんど茫然自失に近い千歳を見遣って、誰かと橘は探した。
 千歳は落ち着かせればいいが、ほとんど錯乱に近そうな白石を誰かが抑えなければならなかった。
 その時、気配さえ感じず部屋に入っていた黒髪が、そっとその白石のしゃがむ身体を抱き締めた。阻む漆黒の闇の魔法など、まるで空気のように受け流して。
「…穏やかに安らぎを紡げ、帳の夜は思いを伝う――――――――ルーンブラーム」
 その声がそう魔法を紡いだ瞬間、白石の身体は促された深い眠気に逆らえず、その黒髪―――――――――――――財前の腕の中に倒れ込んだ。見ると、静かに眠っている。
「一応、落ち着きましたけど、多分しばらく起きません。かなり強く沈静化したんで」
「…すまん、財前」
 助かった、と石田が言った。
 いえ、と言って財前は白石の身体を抱き上げると寝台に寝かせる。
「じゃ、石田さんと橘さん。部長の見張り頼みます。千歳先輩はしっかりして、状況把握」
「……」
「気持ちわからんくないけど、あんたがそれやったら部長救えんで」
「………、……うん」
 後輩の言葉に、様々な心の嵐を無理に抑えて、千歳は一言頷いた。
 その絶望のような不安に揺らいだ瞳は、眠る恋人を見つめていた。





 広間に集まった面々の中。千歳は壁際に座ったまま無言で、白石に追わされた右手の傷をウィッチに癒してもらわなかった。右手は包帯に覆われている。
「今、木手が軽く心を見てくれるから、しっかりせ」
 心を覗く力が、五大魔女にはある。だが今の千歳には無理だとわかるので、木手が眠る白石を見ている。橘が安心させるように千歳を宥めた。
「……桔平」
「ん?」
「…怖か。……蔵が、おらんくなったらどげんしよう…」
「そんなわけなかろ。なに言うちょるか」
「……記憶まで同調酷かなって…命まで」
「馬鹿言うな! お前が落ち込んでどうする…。
 お前がしっかりするんだ。…なくしたくないんだろうが」
 肩を強く叩かれて、か細くうん、と答えた。
「記憶、覚えてたんですね…」
「今回はそうらしい。だから、その影響を考えるべきだったな」
 赤也の言葉を橘が受ける。そこに木手が平古場を連れて帰ってきた。
「…どうだった?」
 橘の質問に木手は軽く俯いた。
「正直、悪いニュースばかりですね…」
「…そんなに悪いの?白石さん」
「というか、一つが今朝方届いた復讐王――――――――偽りの王からの書状ですね」
「あの人の?」
 リョーマの問いに、木手はええ、と。
「至急謁見を願いたい、とあったそうです。東方国家〈ベール〉王と白石クン宛に。
 或いは俺たちがいることを知ってのことかもしれませんが」
「受けんの?」
「本音を言えば、受けた方がいいとは、思います。千歳クンには酷ですが。
 四大国家会議などでなく、今回は偽りの復讐王にとって完全なアウェーでの話し合い。
 例え強いウィッチやウィザードを連れていても、一国の懐に入って暴挙を起こせば殺されるのが普通。
 それなら越前クンが王座を取り戻す好機ですし、逆に誤解を解く好機でもありますから」
「……確かにな」
「ただ、今の白石クンの状態を考えると、受けられるものか…」
「白石の状態はどうなんだ?」
「……記憶が」
 木手は一度、言葉を切って嘆くように吐いた。
「…記憶の全てが、変わっていました」
「…全てが」
「え? どういうこと?」
「記憶の中に、俺たちの世界の記憶が全くなかったと言いますか。
 逆にこの世界で生まれ育った記憶が当たり前のようにあった…。
 記憶が、完全に入れ替わっているんです。この世界の、…南方国家〈パール〉弟王と」
「…………」
 千歳が、完全に言葉を失った。
「じゃ、今の白石には…」
「…千歳クンの…少なくとも…ここにいる千歳クンへの記憶は…、皆無と言っていい」
 がたん、と大きな音が鳴った。
 千歳が椅子から落ちたのだ。
「…………」
「…千歳」
 流石の橘もかける言葉がなく、戸惑う。
「……じゃ、じゃあ記憶、記憶は、なんて言ってた!?」
 甲斐が咄嗟に言った。
「記憶?」
「だから、弟王の方の記憶! そっちがあるってことは、殺された時の記憶がはっきりあるってことだろ?」
「……ええ」
 木手が頷いて、千歳を落ち着かせるように、これから話す記憶は、絶対にあなたのことじゃないですからと言い聞かせた。

「どう言い分けましょうか。そうですね。俺たちの知る、東方国家〈ベール〉の王子の方を“白石クン”。この世界の白石蔵ノ介…南方国家〈パール〉の弟王を“蔵ノ介殿下”と呼びましょう」
 ややこしいですからね。
「…まず、三年前の一ヶ月日蝕〈ダークムーン〉。俺と千歳クンは一緒に、儀式のために南方国家〈パール〉に滞在しました。蔵ノ介殿下はまだ存命でした。
 …俺も千歳クンも会いませんでしたが、蔵ノ介殿下には、歳の離れた幼馴染みがいました」
「…誰?」
「…この世界の、千歳千里です」
「………この世界の、俺…?」
「ええ。蔵ノ介殿下とは年が六つ離れていた。幼い頃からの親友だったそうです。
 この世界の千歳クン―――――――――仮に、“千里”。千里の妹君は蔵ノ介殿下に嫁ぎ、生まれたのが今の偽りの復讐王。
 それからより一層、二人の仲は確かなものになって、千里は重臣の一人になった。
 ですが、一ヶ月日蝕〈ダークムーン〉の儀式を終えた、あの夜」




 部屋の扉が開いた音に、蔵ノ介は顔を上げた。
 そこに立っていた幼馴染みに、どないしたん?と笑った。
「…いや、蔵ノ介の様子見に来たと」
 千里の言葉に、そうか?と駆け寄る。
「今謙也が千里の様子見に行ったんやで? 会わへんかった?」
「いや会わなかったと」
「すれ違ったんかな…」
「蔵ノ介。……もう、随分経ったとね」
「…なにが?」
「知り合うてから。俺と」
「ああ」
 それがどないしたん?と言う蔵ノ介が、千里を疑う筈がなかった。
 そっと千里は蔵ノ介の肩を抱いた。
「千里?」
 伺うように笑む蔵ノ介の身体を更に引き寄せ、千里は顔を近づけて傾けた。
 その迫る意味に気付いた蔵ノ介は思わず顔を背ける。
「…なに…、千里」
「……やっぱ、逃げると。蔵ノ介は、いつまでも俺のことば拒むけん」
「…なに言うてん。俺に妹やるって言うたんお前やし…。お前は幼馴染みで…。
 ……俺ら、男同士やんか」
「…まだ、冗談思うとると」
「…冗談やろ」
 掠れた声が響いた。
 長い沈黙の後、千里は不意に笑った。
「…せんり?」
「……今んは、丁度よか。俺もけじめつける時探しとったと。
 ……今、俺と同じ顔の魔女が来とるたい」
「……それがどないしたん…」
「……矛先は、そっち向いてもらうたい。お前の人望厚い幼馴染みと、名前以外信用でけん魔女。謙也がどっち信じるか、賭けすると?」
「………せん、り…?」
 がちゃり、と扉がその時開いた。
「あ、お兄ちゃん…?」
 千里の妹が訝るように見遣った瞬間、千里の手から飛来したのは一本の光のナイフだった。
 信託魔法の一種だ。呪文がいらない。
 鮮血を散らせて倒れた妻に、蔵ノ介は初めて恐怖を眼前の幼馴染みに覚えた。
「…千里…ッ! なにして…あれはお前の妹やろ…ッ!!!?」
「さて、そげんもんはしらなか」
「…ッ!!」
 人を呼ぼうとする前にその首と両手足が同じナイフの閃光で貫かれた。
 足から力が抜けて倒れ込むようにしゃがみ込んだ。
「……せ」
「…」
 千里は笑う。暗く。その幼馴染みを見下ろして。
 その白金の髪を後ろから掴み上げて、視線を合わせる。
「……せん、り…」
「………長いつきあいだったと。それなりに楽しかったとよ。
 …ばいばい、蔵」
 そうとても優しい笑顔を蔵ノ介に向けた直後、千里の手に握られていた銀のナイフがその心臓を深く突き刺した。
 最早言葉もなく事切れるように血を吐いた身体を床に投げ捨てる。
 そのまま身を翻した姿が部屋から見えなくなった刹那、靴音が近づいた。
 蔵ノ介には微かに息が合った。
「陛下。蔵ノ介陛下。俺たちはもう帰りますが…」
 魔女の声が響いたのを最期に、蔵ノ介の意識は永遠の暗闇に沈んだ。





 無言、静寂が部屋を支配する。
「……じゃ、白石さん…いや。俺の弟を殺したのは、…あの千里殿ってことか」
 最初に口を開いたのはリョーマだった。
「…ええ。だから、全く同じ顔、全く同じ名前の千歳クンが傍にいて、白石クンに記憶が戻らない方がおかしかったんでしょう。
 多分、千里は蔵ノ介殿下の息子の謙也殿下に促した筈です。
 殺したのが、俺と、千歳クンだ、と」
「……………なるほど、俺を失脚させた首謀者ってことか」
「…じゃ、じゃあ、白石さんは…どうしたら」
「……このまま目覚めるのを待つのは、危険です。
 千歳クンが危ないし、なにより、長い期間他人の記憶で生きることは、まだ心の深層で生きている筈の本来の白石クンの記憶を削っていってしまう。
 …白石クンが目覚める前、謙也王が来る前、財前クンの沈静魔法が解ける前に、ケリをつけなくてはならない。
 だから、キミにしっかりしてもらわなければ困る。千歳クン」
「…………俺」
「そうです。キミが助けなければならない。……このまま、失いたいなら、自由ですが」
「そげんわけなか!! 助けられる…助けられるとね!?」
 立ち上がった千歳に、多分可能性として、と木手は強く頷いた。
「多少荒療治ですがね。白石クンの精神に潜ります。
 心を覗く力を応用すれば、俺たちの精神体を心の深奥に送ることが可能でしょう。
 本来、一ヶ月日蝕〈ダークムーン〉の儀式の後に使える魔法ではありませんから、俺たち自身、危険です。魔力が底を尽きたそれ以上を使えば死にますから。
 でも、…それでもやるでしょ?」
「……当たり前と」
 木手はよかとね?と伺われて、今更訊くなと笑う。
「でも、いくら魔力をフルで使ったって、二人じゃ無理じゃないか?
 一度行ったことが俺たちの代でもあったが、最低でも五大魔女が三人は揃わないと心に潜るような大がかりな魔法は使えない筈だ」
 橘の言葉に、それでは無理ではないかと柳。
「木手。焦る気持ちはわかる。だがお前たちも危ないのだろう?
 あと少し様子を見てはどうだろうか」
 木手たちが、本来三人でなければ使えない魔法を二人で行使する―――――――死ぬ覚悟の無茶をしようとしていると思った柳が止めるために立ち上がった。
「白石を軽んじるわけではないが、白石も悲しむ筈だ。
 自分のために千歳や木手が死ねば…」
 背後で笑いが響かなければ、柳は言葉を続けていた。
「…………財前。何故笑う。なにがおかしい」
「意外と、柳さんは頭が悪いんやな、って」
「お前っ馬鹿にしてんのかよ!」
「はやんな切原。大体、誰が木手さんにそれ教えたったんや」
「…え?」
「心に潜る方法。本来それは光の分野や」
「………」
「俺は、先ほどウィルウィッチに訊いたんです。そういう手があると。
 ウィルウィッチは儀式で魔力を全く消費していませんから、俺たちの不足を補ってあまりある筈です」
「…ウィルウィッチがいるんですか!?」
「木手の時のように、助けに来てくれた、ということか?」
「……と、言いますか。」
 木手が初めて、頭を抑えた。頭痛がする、というように。
「…初めからバラしておいてよかったんじゃないんですか?」
 その声は千歳を向いている。
「…そげん言うても、口止めされたったい…。なんでん知られるんイヤやったと?」
 まるでウィルウィッチがこの場にいるような問いかけだった。
 財前がやって、と思い切り欠伸をした。
「面倒ですし? そんな五大魔女が三人も一カ所おるとかなんとか。
 俺は本来一カ所にとどまっとらんかったし、面倒ですやん。危ないんが部長やなかったら俺はシカトしとります」
「…えらい自己中なんだか先輩思いなんだか」
 木手のぼやきが決定的だった。
「でも、いけるんでしょ? ウィルウィッチ――――――――――財前クン」
「…ま、いけるでしょ」
 立ち上がって手を打った財前を見上げて、え!?と赤也が声を上げたが、甲斐たちも同じだ。
「財前がウィルウィッチ!!!?」
「そうですよ。キミは今年も儀式サボりましたね」
「千歳先輩が余計な人ら連れてこんかったらやっとりましたよ」
「何故そんなに秘密主義なのやら」
「俺は臆病もんですから」
「答えになってませんし」
「………光は難しかからね」
 千歳が少し復活したのか、投げやり的に言った。
「………ん? ということは、さっきの頭が悪い、というのは」
「あ、気付きました? 柳さん」
「ああ」
「え? なにがですか?」
「ほら、俺たちが来た時財前は“王子付きの光のウィッチだ”と名乗っただろう?
 だが白石が木手を起こす時に言っていた。光の領域は再生。闇の領域は沈静だ、と。
 そして錯乱状態の白石を財前は魔法で沈静してしまったんだ」
 光のウィッチなら、出来る筈がない、と。
「そうか、そもそも闇の属性を持っていなければ白石の魔法に阻まれた筈だな」
 橘が納得した、と頷いた。
「ほな、自己紹介終わったとこで決まりです。部長んとこ、行きましょうか」




 流石はウィルウィッチの魔法だけあって、沈静魔法の眠りは深く、白石は深い寝息をたてている。
「ところで、全員で行くのか?」
「まさか、一属性につき一人いればええです。火は千歳先輩。てか、千歳先輩がおらんと話になりませんわ。
 部長を一番強く引っ張れんのあんたなんやし」
「わかっとう。初めからそのつもりたい」
「木手さんは遠慮してください。五大魔女が二人も精神に潜るんは、魔力でかすぎて精神がパンクしてまう」
「わかっていますよ。…じゃあ、風は平古場クンか知念クンですね。
 力だけなら知念クンが強いですが」
「応用効く方がいいだろう。応用や魔法のレパートリーは平古場の方が俺より上だ」
 知念が言外に任せる、と言うと平古場がわーった、と頷いた。
「水は甲斐クン」
「うぃっす。慧くん弱いしな」
「デブは不勉強なだけだっつの」
「凛、だからその呼び方は駄目」
「火、風、水はいるから…」
「地は俺だよね!」
 いつの間に現れたのか、千石が挙手した。
「…盗み聞きは感心しませんが、…まあ最初からキミに頼むつもりでしたし…」
「そげんつもりなら最初から訊いとってくれんね? 千石」
「ごめんごめん」
「あとは」
「闇はいらんですね。部長自身の属性が闇やから、同属性は入らん方がええ」
「残るは光か」
 真田の言葉に、それも問題ない、と千歳。
「ま、五大魔女は属性に秀でてるだけじゃなかよってこったい」
「…?」
「では、魔法で入り口を開きます。いいですね?」
 わかった、と声があがる。
 千歳が願うようにその眠る手を握って、頬にキスを落とした。
 この目が覚めたとき、また、千歳、と呼んでくれることを、


 ただ願って。















→王宮編五話