歪ん だ 北 極 星 −デビル・ポーラスター
第三章−【貝悲雫−ノームウィッチの章−】
−蒼宮の嵐編−
散っていく鮮血。 倒れた屍。徐々に、壊れ行く、彼の笑顔。 「…っ」 飛び起きた黒羽を、心配そうに覗き込んでいた天根が「起きた」と呟いて椅子から立ち上がった。 「バネさん、起きた」 「…あ、ダビデ。…傍にいたのか」 北方国家〈ジール〉、辺境の街シエイラ。 その奥のノームウィッチの館の一室。 熱を出して眠っていた黒羽の額に手を伸ばして、樹はうん、と笑った。 「だいぶ、熱下がったのね」 「…ああ、すまん樹っちゃん。…サエは?」 「サエなら、買い出し。俺たち忙しいから、自分が行くって」 「サエには、五大魔女の自覚ないんだよ」 亮が態とぞんざいに言った。 「…一人、で?」 「一人で」 「……」 「大丈夫だよ。サエは強いし、第一サエがノームウィッチだって知ってるヤツなんかいるもんか」 「………」 「バネさん?」 「…お前らは、怖くないのか?」 黒羽の言葉に、意味がわからないという顔を全員がした。 「ほら、バネさんまだ寝てなきゃ! みんなは仕事! 後は僕がやるよ」 「…あ、ああ剣太郎。いいのか?」 「いいよ。たまには僕も働かなきゃ。だから、バネさんを見てるよ」 「楽したいだけじゃん」 言いながら、亮は任せたと後輩の肩を叩いて部屋を出る。 「じゃあ、任せたのね」 「うん」 ぞろぞろと出ていった先輩たちを見送って、閉まった扉を確認してから、剣太郎は言った。 「バネさんも、サエさんが怖い?」 「…剣太郎」 「…僕も、怖いな。サエさんが、じゃなくて」 「……あいつ、背負い込み過ぎなんだ。五大魔女になんか選ばれて…、最近、あいつを狙ってくるヤツが後を絶たない。 樹っちゃんたちが気付かないのは、…その前にサエが始末してるからだ。 わかってる。あいつは俺たちを守りたいだけだって。 こんな世界で、人殺しにならない方が無理だって。 …でも、」 黒羽は額に手を当てて、俯く。嘆くように。 「…最近、あいつがどんどん壊れていってるように見えるんだ。 殺すことに、感情が麻痺して、どんどん…あいつの笑顔が、…壊れてる気がする。 あいつが………もう帰って来れない岸の果てに行っちまう気がするんだ」 「…バネさん」 「悪い、大袈裟過ぎる話だよな」 「ううん、…わかるよ。最近、サエさんの笑顔が、…おかしいなって、僕も思う」 剣太郎が立ち上がって、窓を開けた。 「僕、サエさん迎えに行ってくるよ。みんなには内緒ね」 「ああ、…頼む」 「うん!」 ぴょんと飛び降りた後輩の背を見送って、黒羽は空を見上げた。 館を出て、すぐ走り出した。 黒羽のいうことは、事実だと思っている。 あの優しい人が、最近徐々になにかを違えていることを、知っている。 早く見つけなきゃ、そう焦った思いが足を急がせる。 その耳に魔法の気配を感じて、背筋を走ったのは恐怖ではなかった。 (…ああ) 哀しみ、慟哭。それらの感情だ。 あの魔法の感触を、間違えようもない。佐伯だ。 そっと、木々の向こうに足を降ろす。 そこに倒れ伏す、鮮血に濡れた十数人の人間。 「…よっ…荷物無事でよかった。面倒だなぁ。最近多いし、俺は狙われるようなこと、してないけど」 人を殺したとは思えない声が、響く。 その笑顔が気付いて、剣太郎を振り返った。 「あ、剣太郎? どうしたの?」 「…サエ、さん」 笑おうと、思った。そうでなければ、駄目だから。 彼に、理解させてはいけないんだ。 「…迎えに来たんだ。荷物、重いんじゃないかなって…」 「そっか。ありがと。じゃ、ちょっと待って。片付けしなきゃ」 佐伯が踵で地面をとんと蹴る。 「食べていいよ」 そう地面に囁くと、地面がぐにゃりと海のように歪んで死体を全て飲み込んだ。 後には、血の後すら残らぬただの大地。 「じゃ、行こうか剣太郎。バネさんに桃買ってきたんだけど、食べられそう?」 「……」 「剣太郎?」 いぶかしみながら笑う佐伯をただ必死で抱き締めた。 「…剣太郎?」 それでも、笑んで自分をそっと抱く手が、これ以上染まらないよう願うことしか出来ない。血の、赤に。 「…帰ろう、サエさん」 「うん」 (帰ろう、サエさん…。これ以上、サエさんが壊れる前に、…あの、世界に) 微笑む顔。無邪気な笑顔が、歪んでいく。 何故、彼だけ壊れ行くのだろう。 他の、魔女はそうじゃないのに。 何故。 そう、思うことしか、剣太郎には許されていなかった。 月が走る。 夜の中。月の下を走る人影が追いつめられたように足を止めた。 「…何故、何故俺を狙うんですか…!?」 少年の問いに、相手は密かに笑うだけ。 「…っ」 「無駄だ」 「ブラックカーテン!」 少年が発動させた闇の檻に阻まれて足を止めた相手に背を向け、少年が駆けだした。 すぐそこに、宿の明かり。 「結局、“王が王位を追われている”以上はわからなかったな…」 柳の言葉に、その部屋に集っていた赤也、真田、甲斐、知念が曖昧に頷く。 もっと情報が欲しい。だが。 「木手は?」 「永四郎なら、白石たちと宿の延泊の届け出に…」 知念の声が硝子の拡散する音に阻まれた。 「ぅわっ!?」 外に面した硝子窓が外から割れたのだ。外気が流れ込む。 その窓の淵に足をかけ、中に一歩片足を降ろした傷だらけの血塗れの姿を見て、甲斐と知念が顔色を変えた。 「永四郎…!?」 その少年は、木手に間違いなかったからだ。 「…俺を、…いえ、あの少しでいい。どうか匿って…!」 荒い呼吸で言葉を迷うように、それでも必死に紡いだ身体がけいれんのように震えた。 肉を裂く、鈍い音。 その胸を背後から貫いた、一本の腕。 「……っぁ………」 「木手!!!!!」 「わかるか、木手永四郎。今、お前の心臓を握っている。このままえぐり出せば…」 背後から“木手”を抱くように腕を回した身体が囁いた。 「……や、…いや…だ…。なんで…俺…を」 「…さよなら、“もう一人”の“サンダーウィッチ”」 一気に腕が引き抜かれる。頭上に掲げられた手には、心臓が握られている。 散る鮮血。同時に開いた廊下の扉から顔を覗かせた姿が、心臓をえぐり取られて床に倒れ伏す“もう一人の自分”を茫然と見た。 「…えい、しろう…?」 「…これ、は」 木手がただ意味も経過もわからず、床に倒れた心臓のないもう一人の自分の身体と、それから心臓を奪った窓に佇む男に目を向ける。 「ご機嫌よう。麗しきサンダーウィッチさま。 ご気分はいかがですか…? もう一人の自分が死ぬ様を、見る気分は」 仮面をまとった男の声に、木手を中心に風が舞ったが、それより早く別の二つの風がそれを更に覆った。 「…平古場クン、知念クン…?」 「さがれ木手!」 「こいつはお前を狙ってる!」 「まさか。俺は本物の魔女を相手にする程命知らずじゃない。 俺が狙ったのはあくまでこの世界の木手永四郎。サンダーウィッチ。あなたに用はない」 「…こちらの俺への、個人的な恨み、だと?」 「どうとでもとってください。…だが、気分はどうだ? …“平古場凛”」 急に自分に矛先を向けられて、平古場が一瞬驚きに目を見張る。 その男が仮面を外し、頭に被っていた布の装飾を取り去ると、露わになるのは金の長い髪と瞳と、平古場と寸分違わぬ容貌。 「…“もう一人の自分”が、“もう一人の木手永四郎”を殺した様を見た気分は、どうだ? 平古場凛…?」 「……お、れ……? 俺…もう、一人の…こっちの…俺が、…永四郎…」 「落ち着け平古場! 見るな!」 知念が庇うようにその小柄な身体を抱き締めた。 「これは予言。サンダーウィッチ。これから未来、これと同じことが、あなたと、フレイムウィッチの周囲で起こる…。待つといい。仮初めの平穏が、崩れる様を」 「誰が…!」 「いいのかサンダーウィッチ? 俺を殺して。 知らぬのか…? “もう一人の自分”…対を失った北極星還りの末路を」 「…な、に……?」 「“もう一人の自分”を、対を失った北極星還りは、滅びが定め。 この世界に生まれ生きるもう一人の自分、己の対は…北極星にさらわれた北極星還り…星の子の存在をこの世界に繋ぐ絆…。 対が死に絶え…その対の魂がこの世界を去った時、星の子の身体は崩壊を始め…消滅…死ぬ。それが星の子の掟」 「……」 「そのうえで、俺を殺せるかサンダーウィッチ。 お前の平古場凛の対を…。俺を殺せば、お前の平古場凛は…死ぬ」 木手は拳を握りしめ、堪えて、声を紡ぐ。 「…そのために、…俺の対を殺したのか?」 平古場の対はその問いにただ微笑むと、強く窓を蹴って空に飛ぶ。 “さよならサンダーウィッチ。また、会うことがあれば会おう” 風に運ばれる声を、残して。 沈黙がその場を支配する。 「……ぁ…っ」 小さく漏れた声に、反応したのは知念の腕の中の平古場だった。 「…まさか」 木手が呟き、倒れた自分の対に駆け寄り、抱き起こす。 「……………、…………さんだ…うぃっち……? あなたが…俺の……」 「…生きて…そんな…心臓をえぐり取られて何故…」 「…五大魔女の…対は…生命力が強い……だから…きいて…俺の対」 必死に手を伸ばし“木手”は木手の耳元に唇を寄せた。 「……………あの…平古場クンは…」 そう、数秒耳元に囁くと、今度こそ糸が切れたようにその身体は力を失った。 「……木手。…」 “死んだのか”が聞けない。 「…、…死にました。…当たり前ですね」 「…ぁ」 「…平古場…? おい、落ち着け…!」 「ぁ…あ…あ…ぁ…あ…」 「凛! あれはお前じゃ…!」 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」 悲鳴をあげて恐慌に陥った平古場の鳩尾に拳が遠慮なくたたき込まれた。 それに、意識を奪われて倒れた平古場を知念が抱き支えた。 「…永四郎」 「…俺は、闇のウィッチじゃありませんから…。沈静魔法なんて使えませんしね」 「……永四郎。お前は…」 「俺は平気です。…多分、まだ、時間がある」 「なんで言い切れんだよ!」 「三年前に対が死んだ白石クンがまだ生きているんですよ?」 その言葉に、全員がはっと気付いて息をのんだ。 「おそらく、消滅までには一定期間が必要な筈。すぐ消滅はしないでしょう。 …それより、このことを、いえ…俺の対が死んだことは隠せないにしても。 対が滅んだ北極星還りは死ぬ。それは、決して千歳クンと白石クンには内緒に。 言ってはいけません。…理由は、わかりますね…………?」 木手の泣きそうに歪んだ顔に、ただ全員が頷いた。 やっとの想いで白石を取り戻した千歳に。やっとの想いで千歳の元に帰った白石に。 もうすぐ本当の“さよなら”が来るなんて、言える筈はない。 いえっこない。 「…平古場クンは、…、もう一人の自分が俺を殺したから、錯乱しただけだと…説明してください」 平古場の悲鳴が聞こえたのだろう。この部屋に駆け寄ってくる二つの足音に、全員がもう一度頷いた。 「……平古場さん、今日も食事食べてないですよ」 あれから三日が過ぎた。 白石と千歳にはただ“自分の対が木手の対を殺したのを見てショックをうけているだけ”と説明し、それ以上を、話していない。星の子の、末路も。 部屋の前に置かれたままの、手をつけられていない食事。 閉ざされたままの扉に、赤也が俯いた。 「…仕方ない。もう一人の自分の所為で、木手に死が迫ってしまったと知ったんだ」 「…そのうえ、木手は平古場のために、その仇を討てなかった。それもおそらく…」 柳と真田が重ねた声に、赤也はもっと俯いてしまう。 「それだけじゃないです…甲斐さんも、知念さんも…元気ないっつか…白石さんたちの前でだけ空元気で…。…俺、…甲斐さんになんもうまいこと言えない」 そういえばそうだ。下手な赤也の魔法の訓練を一番熱心に見て、世話を焼いていたのは甲斐だった。 心配でないはずがない。木手のことも、白石のことも心配なはずだ。 それでも、自分を可愛がった甲斐の心を真っ直ぐに心配する後輩の正直を、柳はただ愛しいと思って頭を撫でる。 「…柳さん…?」 「…甲斐のところに言ってやれ。あいつは、この時間は横になって魔法の詠唱のトレーニングをしている。甲斐も、本当は寂しいんだろう。一番の悪友が、天の岩戸から出てこないからな」 そういって柳は閉ざされた平古場の扉を見遣った。 「…はい」 詠唱トレーニングは、いわばイメージトレーニングだ。 甲斐は部屋だろうと、赤也は食事を置いて向かった。 「今日も食べないのか?」 気配なく聞かれたが、驚かなかった。もう、知念のこういうことには馴れた。 「ああ…」 「少し、二人きりにしてくれ。なんとかする」 「…そうか。わかった」 柳は食事の盆を知念に渡し、その場を真田と共に離れた。 寝台に自分の髪が散って、金糸が月光に照らされている。 あの夜と同じ。 あの、男と同じ、金の髪。 「…っ!」 思わず起きあがって、平古場はテーブルサイドのナイフを掴むと自分の髪を片手で掴んでおもむろに切った。 金の糸のように、髪の束が床に落ちる。 別人のように短くなってしまった髪に彩られる顔に、少しだけ安堵する。 その瞬間、扉が無遠慮に開かれた。 「…っ…入ってくんな!」 風で一応結界は張った。入ってこれるとしたら、木手か、同じ属性で自分より上位の知念だけだ。だから平古場は遠慮なく枕を投げつけた。 知念は簡単に避けると、扉を閉めてから、軽く目を見張った。 「…切ったのか、髪」 「……気持ち悪ぃから」 「もったいない」 「どこがだよ!」 「綺麗だった。俺は、好きだった。あの髪」 真っ直ぐ見つめられて、言われて、平古場は一瞬だけ言葉を失うと、すぐ顔を背けた。 「食い物なんかいらねーかんな」 「それはだめだ」 「だから…っ…父親面すんなよな…! 父親がどんなもんかしらねぇ人間が!!」 カッとなって叫んで、平古場はすぐ自分の言葉に傷ついた顔をした。 知念には父親がいない。知念は、自分の父親の顔を知らない。それは、比嘉のものなら知っていることだ。 「…………」 言ってはいけないことを口走った自分に、嫌悪して俯く顔を、顎を掴んで上向かせた。 「…な」 声が詰まる。 「…っ……ん……っ…ぅ…」 唇を深く知念のそれで塞がれて、平古場は呼吸を失って呻いたが、喉にその舌が差し込んだものに、吐きそうになって、咄嗟に飲み込んだ。 唇が解放されると、ぜいぜいと涙目になった平古場がもう怒鳴る気力もなく俯いた。 うつむけばその顔を隠す筈の髪は、もうない。 「……わかったよ。食えばいいんだろーが」 「…わかったならいい」 「…わかんよ。…イヤだしな。力はどうしたってお前が強いし…。 何度も口移しで食わされんのなんか、気持ち悪ぃ」 「少し、いつもの平古場に戻った」 食事を口に運んでいると、知念が心底安心したという声で笑ったので、口に入れる筈だったスープがスプーンを伝って零れ、指に落ちる。 「って熱っ! 阿呆! お前が余計なこというからだ! っあっちぃ〜」 あわてて水で指を濡らす平古場に、知念は更に安心したのか、小さく声をあげて笑い出した。 それに、今度驚く番になった平古場が固まって、それからぽかん、とした顔で。 「…寛が笑った」 と言った。 「…寛。ぜってー声あげて笑わないのに……」 ただ驚いたと口にする平古場の頬をそっと大きな手が撫でて、“もう一回”と強請る。 「…もう一回」 「……寛」 うん、と満足そうに頷いた巨躯が細い身体を抱き締めて、今度はキスの意味を持って唇をもう一度塞いだ。 腕の中の身体は拒まず、受け入れてその巨躯にしがみつく。 「…食べ終わったら、甲斐に会いに行ってやれ。お前がいないから、わかりやすく消沈してる」 「…しょうがねえな裕次郎も」 溜息と共に言って、平古場はようやくのようににっと笑った。 「つか、いいわけ? お前、じゃなんで東方国家〈ベール〉で永四郎にキスしたわけ」 「…見てたのか」 「見えた」 「…弁解すると、恋心とかじゃない。あれは、……永四郎がどっか行きそうだったから、引き留めようとしたらあれしか出来なかった」 「…ちったぁ目をそらすとかしろよ…。そんな見つめられて言い訳されたら疑えねーだろーが」 「…言い訳じゃない。嫉妬したのか?」 「してねぇ。お前の永四郎への過保護は恋愛と紙一重だかんな。 いちいち気にしたらとっくにストレスであの世だ」 「ならいい。平古場が図太くて助かった」 「…死ねお前」 「じゃあ、食べ終わったら行けよ」 「うっさい知念!」 「わかった」 “知念”に戻った呼び方に、笑う知念に“なにが”とむくれた平古場の髪を撫でて、知念は部屋を出る。 「…ったく。………ロマンチックの欠片もねーわ」 あ、そうしたの俺か?と呟く平古場に、もうあの慟哭はなかった。 |