−デビル・ポーラスター


 第三章−
【貝悲雫−ノームウィッチの章−】



  
−蒼宮の嵐編−




 アカイ アカイ ユキ ガ フル


 目を覚まして、涙が零れた。
「…木手、起きたのか?」
「…柳、クン」
「もう昼だ。ずっと起きないから、みんな心配した」
「…みんなは」
「…別の部屋で、話をしてる」
 そっと、指が零れた涙を拭う。
「怖い、夢を見たのか?」
「……」
「木手?」
「……別に」
「…木手、俺達は、今までお前に沢山助けられた。
 今だって。
 俺達にだって、弱音を言っていい。
 俺達を子飼いにしたって構わないくらい、お前は俺達を守ってくれたんだ」
 怖いんじゃないのか――――――――言いかけた柳の声は途切れた。
 起きあがった木手が、柳の両肩を押さえて床に押し倒した。
「…眼鏡、なくても結構見えるんだな」
「…驚かないんですか」
「…少しは驚いた」
「…なんで」
 木手は泣きそうに顔を歪めて、呟く。
「…あんなの、全部あなたたちのためなんかじゃない。
 自惚れてますよ…俺はそんな、善人じゃない。俺達比嘉がどんな、俺が、どんなテニスをするかご存じでしょう?」
「……」
「俺は俺のためにあなたたちを守った…いいえ、巻き添えにしたんですよ。
 守って、そうすればあなたたちは俺を親しく思って帰れない俺に情を持ってくれるから。
 あなたたちは俺の我が儘に付き合わされただけ。
 …みんな、……付き合わされただけ。…知念クンたちも…」
 木手の手が、ずるりと柳の肩から離れた。
 力無く座り込んだ木手の下から抜け出して、柳は俯く顔を覗き込む。
 その顔は、今は降りたままの髪に隠されている。
「……怖い、のか?」
「……………」
「お前は、まるで切ないくらいがむしゃらに、俺達が必要だって叫んだようにしか聞こえなかったぞ?」
「……どうかしてました。こんな弱い…とこ、誰にだって見せたくなかったのに」
「…とても、怖い夢を、見たのか?」
 柳の手が、そっと背中を撫でる。
「……赤い、赤い雪の降る、夢でした。
 …まるで」

 まるで、昨日彼の血を貪った自分。
 それが、いつか見境なくヒトを貪る化け物になりそうな。
 彼らを、致死量に達する程、血を喰らいそうな、自分。
 その血が、降ってくるような、夢。

 どうして。

 昨日は、幸せだったのに。
 手塚と、想いが通じ合って、なのに、どうして。

 黙り込んで、ただ謝る木手を、ただ柳は背中を撫でて黙っていた。





 その刹那のように、響いた悲鳴は外からだ。
 弾かれたように立ち上がった木手と柳が、反射で外に飛び出す。
 宿の庭には既に、赤也や千歳たちがいた。
「…あれは」
 遙か向こうの、丘。
 確か、蒼宮の丘と呼ばれる場所。
 そこに、漆黒の巨大な竜巻が渦巻いている。
「…そうか…。北方国家〈ジール〉の蒼宮の丘から生まれる漆黒の風〈ブラック・ジール〉。
 大きさを増し、例え魔法でも沈められない人の悪意が生む台風。
 …あれは、一ヶ月日蝕〈ダークムーン〉の時期に発生する…」
「それも、忘れてた…」
 甲斐が呟く。
「じゃ、どやって沈めてたんですか!?」
「王だ。北方国家〈ジール〉の。
 北方国家〈ジール〉の王族の王だけが、沈められる」
「なら…」
「無理だ」
 赤也の期待をクラウザーが断ち切った。
「え…」
「あれは、生まれながらの王族の血が沈められる竜巻。
 手塚は婚姻で王族に、王になった人間。
 沈められる血を、持っていない…」
「…そんな」





 くすくすと笑う声。
 王宮の門の前で、馬にまたがった手塚を見上げて、不二は微笑んだ。
「では、約束だよ。陛下。
 重臣みんなが納得したことだ、キミが務めを果たせば、みんなキミを見直し、味方に戻ると」
「…」
「キミが、あの漆黒の風〈ブラック・ジール〉を収められたら…ね。
 期待しているけど、……辞退してもいいよ。
 キミがすぐボクに王座を譲れば、ボクが沈められる」
「…いや、…やってみせるさ」
 言い切って、手塚は手綱を引く。
 馬が鳴いて走り出した。
 自信も展望もない。無茶だとわかっている。
 けれど、昨日勇気をくれた彼のために、決して逃げられない。
 それに、きっと――――――――力をもらえる。
 彼は約束してくれた。



 見送って、溜息を吐いた不二を、乾がたしなめるように撫でた。
「態とか?」
「……馬鹿な陛下だよ」
 キミに止められっこない。それでも立ち向かうキミは、間違いなくこの国の王。
 わかっているよ。キミが本当に国を裏切っていないことは。
 それでも、抗いたくなった。
 父上、あなたが何故ボクではなく彼に王位を譲ったか、ずっと恨んでいました。
 ボクはあなたに認められる王子ではなかったのかと。
 あなたは、ボクを恐れていらっしゃった。
「可哀相な鬼籍王弟〈レーヌプリンス〉…。
 生まれた時に毒を盛られ、なのに助かり、それで死の神に愛されていると思われ、父王にまで恐れられ…、キミに仕える使用人はみな病で亡くなる。
 いつしか、死の王子…鬼籍王弟〈レーヌプリンス〉の名がついた。
 …わかるよ。キミは死を呼んでいない。
 キミは命の神に愛されている。だから助かった。
 キミにある、……この国の神の加護が、キミを救った。
 使用人の死はただの偶然…。
 …見極めたいんだろう? 手塚の王としての力を」
 乾はその細い背中に囁くよう、呼んだ。
「不二…いや、北方国家〈ジール〉の守護神―――――――ヘカトンケイル」
 神が人の姿をとった化身は、ただじっと、巨大さを増す竜巻を見つめていた。





「陛下が来たぞ!」
「よかった…これで助かる…!」
 民の歓喜の声に、気圧されないよう立って、丘に立つ。
「陛下、早く、血で沈めの儀式を…」
 民は知らない。その血は、生まれながらの王族の、王の血でなくてはならないと。
「陛下…?」
「まさか、陛下は本当に…」
 王位を危うくされているから?それとも国を捨てられるおつもりなのか?
 囁く不安声。
 守りたい。例え、王座を失っても。
「……木手」
 そう、囁くよう、呼んだ瞬間だ。


 激しく舞った白き竜巻が、漆黒の風〈ブラック・ジール〉を絡め取った。


「…え?」
「風…? でも、あんな大きな、強い風…誰が」
 民の声を背中に、手塚は微笑む。
「…木手、来て、くれたのか」

“あなたが無茶することは、知ってますから。
 本当に、変なところ他力本願なんですから”

「俺は、お前に甘えただけだ。いけないと、知りながら…。
 それでも、きっとお前が助けてくれると、…思うことは弱さだろうか」

“いいえ。いけないと言う人も多いでしょうけど。
 …俺は、嬉しいですよ。
 今から封じ手に入ります。
 漆黒の風〈ブラック・ジール〉は五大魔女一人の力では静まりません。
 属性を変え、巨大化を増すのが漆黒の風〈ブラック・ジール〉。
 だから王が沈めを担っていた”

「…なら?」

“…折角ですからね。連絡を取りました。
 ただ、若干一名、間に合うか不安ですが”

「……?」

“交換期以来の、同窓会ですよ”

 瞬間、風の中で漆黒の風〈ブラック・ジール〉が炎に変貌した。
 炎では風は威力を煽るだけで無力だ。

「……めんどぉ……。
 まあええか…。
 静かに降り注げ―――――――――――――沈静の雨よ」
 教会の天辺に立った少年が、そう囁いた瞬間、漆黒の闇の雨が炎に降り注ぎ、炎を小さく押さえ込んでいく。
「そのまま、包み込んでしまうたい。
 …フレアミシェイル」
 その上から降った異なる炎が、小さくなった炎を包み、相殺するように更に押さえ込み、熱を消して包み込む。
 その隣に、冷気が降り立った。
「俺様をパシりにするたぁ、いい度胸だ。
 今回きりだ。もう貸しはなしにしてくれよ。手塚」
 その手が降ろした一滴の水が、刹那巨大な吹雪となって炎を囲い、きぃん、と凍り付かせた。
「……来たか。お前で締めだ。しっかりやれ。佐伯」
「わかってるよ。
 …さあ、北方国家〈ジール〉の母なる大地。
 大地を害する漆黒を、飲み込め―――――――――――――」
 地面が震動して盛り上がり、凍り付いた漆黒の風〈ブラック・ジール〉を一気に飲み込む。
 その跡には、なにも残らない静寂があるだけ。
「…漆黒の風〈ブラック・ジール〉が、静まった」
「…でも、今の魔法…まさか」


“初めまして。北方国家〈ジール〉の民よ。
 私は五大魔女が一人、風のサンダーウィッチ”


 風に運ばれた声が、今度は民全員に届く。


“そして”


「同じく…ぁ…五大魔女、光と闇の、ウィルウィッチ…」
「欠伸してんな。…同じく、水のフリーズウィッチ」
「火の魔女、フレイムウィッチ」
「そして、…ノームウィッチです」

 それぞれの声は、木手の風によって民に運ばれる。

 五大魔女!?五大魔女さま全てが、この国に…!?

 民のざわめきを沈めるように木手が紡ぐ。

“私たち魔女は本来国と不可侵。
 ですが私たちを狙った南方国家〈パール〉との折り、我らの味方となり南方国家〈パール〉を留めようと尽力くださった北方国家〈ジール〉王のため、此度だけ、国のため力を行使しました”

「…陛下のため」
「陛下への、恩返しってこと…?」
「じゃあ、やっぱり陛下は、俺達のために…!」

“敬愛なる北方国家〈ジール〉王へ。
 我ら五大魔女より、あなたへ永遠の、敬意と祝福を――――――――――――”



 瞬間、世界に眩しい光が降った。
 触れても燃えない小さな炎、癒しの水、粉のような宝石の欠片、光と闇の混ざった不思議な小さな結晶、それらが風に吹かれて、北方国家〈ジール〉を覆っていく。
 そして、消え去った魔女の気配に、民は声を上げる。
 それは紛れもない、王への感謝の声だった。





「アッという間に帰っちゃったんですけど、跡部さんと佐伯さんと財前」
 あと謙也さんも。と赤也。
 彼らは遠巻きに宿の庭から全てを見ていた。
「まあ、事情があるでしょうし。特に跡部クンには無理を言って……あ」
「どうした木手」
「…また聞きそびれました。ノームウィッチの館の場所…」
「…あーあ」
 甲斐が呆れたように笑った。
「…白石、どげんしたと?」
 戻ってきた千歳が顔を伺うと、白石はすぐ笑ってなんでもないと言う。
「?」
「ほんまに…」

(……なんやろう。あの、祝福の魔法)

 あれの全てが、自分の身体をすり抜けてしまったような…。
 まるで、自分の身体が消えたような…。
 思いかけて、首を振る。
 けれど、気のせいだと思っていたけれど。
 最近、よくあるんだ。
 受け取った筈のコップを落としたり、肩を叩いた筈の手が、届かなかったこと。
「…まさか」
「蔵…?」
 まさか―――――――――――――。

 馬の蹄の音が響く。
 止まった馬上から、声が降った。
「手塚」
「有り難う……。と、いう礼すら待てないのか…跡部たちは」
「らしいですね」
「だが、俺のためではない。本当は、南方国家〈パール〉阻止のための秘術を手に入れるため、だろう?」
「あなたのためにやった魔女も、いるとは思いますけどね」
「そう自惚れておく。…王宮に行くぞ」
「…では」
「重臣から、鬼籍王弟〈レーヌプリンス〉の傍を離れるという俺への支持を聞いた。
 もう、問題はない。そもそも、…鬼籍王弟〈レーヌプリンス〉は最初から、本気の反逆心はなかったらしい」
「…それはそれは」
「王宮の隔離区域、冷暗宮に南方国家〈パール〉の秘術を破る秘術があるそうだ。
 一緒に行くぞ」
「ああ」
 柳が頷き、千歳たちもようやくだ、と笑う。
 目指すは王宮。
 仮初めの太陽は、まだ沈まない。





「こっちだ」
 迷いそうです、と赤也が呟く。
 きょろきょろしすぎだ、と柳がたしなめた時、手塚が足を止めた。
「手塚?」
「…乾」
 その声が呼ぶ。
 その男は、剣を持って、冷暗宮への唯一の道を塞いで佇む。
「お帰り、…手塚」










→蒼宮の嵐編五話へ