−デビル・ポーラスター


 第三章−
【貝悲雫−ノームウィッチの章−】



  
−蒼宮の嵐編−




 穏やかに、夜は訪れる。
 明日、白石と手塚で、南方国家〈パール〉の秘術を破ることが決まった。
 その前の夜は、とても穏やかだった。
「…木手は?」
「今日は、手塚の傍にいるそうだ」
「そっか…とうとう、木手を手塚に獲られちゃったな」
 知念に木手の行方を聞いた甲斐が、そう言って、少し寂しげに笑った。
「寂しいんか裕次郎?」
「そりゃな。凛だって。…今まではさ、“俺達だけ”の木手だったのに」
「裕次郎、それ直球に永四郎愛してる、って言ってんのと一緒だぞ?」
「やー違う…わないか…でも、木手を傷付けてまで、手塚との邪魔をしようとは、思ってない」
「ならいい」
「知念は手塚とのことを容認すんのか?」
「…、思っただけだ」
「…?」
 知念の言葉に、平古場も甲斐も首を傾げる。
「乾が、…消滅したのを、見て。
 …永四郎の消滅までの時間を、邪魔したくないと」
 呟くように言った知念の頬を、平古場の手が張った。
「…縁起でもねえことほざくんじゃねえよ」
「あり得る話で、あり得ない話じゃない。
 ………平古場、……お前だって、気付いてるんじゃないのか?」
「………なにを」
 本当は、気付いている。知念の言葉の意味がわかる。でも、そう答えた。
「…逢魔が時は過ぎた。…もう、鮮血の太陽が沈む。
 ……わかっているんだろう?
 ……白石が消滅するのが、おそらく…今日だと」
「…え」
 驚いた声をあげたのは甲斐一人で、平古場は矢張りわかっていた。
「だから、千歳と二人きりにさせてる。違わないだろう」
「…違わねーよ。でも、永四郎は間に合う可能性だってある」
「……だからって、白石の死を悲しまなくていい理由にはならない」
「……」
「俺は、宿の外の森を軽く見てくる。無粋な刺客が、白石の邪魔をしないようにな」
「う、ん…いってらっしゃい、知念くん…」
 力無く見送った甲斐が、その背中が消えてから、俯いた。
「…本当に、死んじゃうのかよ…白石」
「泣いたってしょうがねえよ。死ぬしかねえ。俺達はせめて結界張っとくくらいだ。出来ることはな」
「なんでそんな淡々としてんだよ凛…」
「いいから結界、裕次郎も魔力貸せ。白石が死んだらぜってー千歳暴走するからな。
 被害をなるべく小さくするために結界を…」
 甲斐の手が平古場を殴って、そのまま踵を返す。
「…凛は、泣かないのかよ…!」
 もう既に涙声に滲んだ声が呟いて、いなくなる。
 頬を押さえて、平古場は床の自分の爪先を見下ろした。

「…泣くくらいはするに決まってるだろ…。でも、ぜってぇ…千歳の前では泣かねえよ」

 千歳の前で、泣いていいわけがないんだ。平古場は一人、そう呟く。
 その声も、既に嘆きに歪んでいた。





「……急がないんですね」
 執務室で雑務をするでなく、椅子に腰掛けたままの手塚の横の、机の上に腰掛けて木手が伺った。
「秘術か?」
「ええ」
「……本当は急ぎたい。乾の犠牲でなりたったチャンスだ」
「……」
「でもだからって、そんなことのために、…白石の最後の夜を、使っていい理由はどこにもない」
「手塚も、わかってるんですね…。
 白石クンの消滅が、今日だと」
「…乾を見て、わかった。あの、瞳の揺らいだ金混じりの色。
 あれは、消滅を控えた北極星還りの、シグナルだ」
 ぎしりと、椅子に深く座って嘆息を吐く手塚の手を掴んで、木手は自分の方に振り向かせた。
「木手?」
「……見えませんか?」
「…なにが」
「俺の瞳には、それが見えないんですか?」
「―――――――――――――」
「言うべきじゃない。そう思っていました。
 あなたを、余計に悲しませるだけだ。
 今じゃない。すぐじゃない。可能性だってある。あと数年はあなたの傍にいられる。
 でも」
 手塚の胸板に額をこすりつけて、木手が呟くように言う。
「俺の対も、いないんです。…あなたと再会する前に、殺されてしまった。
 …俺も、いつか死ぬんです………乾クンや、白石クンみたいに…!」

 肉体の欠片すら、残さずに―――――――――――――。

 そのすがる身体を、軋む程抱き締めた。
 かき抱く。木手が痛いと感じる程、滅茶苦茶に抱き締めても、彼は痛がらない。
 それが、余計に痛い。
「…俺は、お前も失うのか…? いつか、…お前を…よりによって…お前を…!」
「手塚」
 貪るように、唇を奪われる。
 深く吐息が混ざって、舌が絡まり、零れた二人の唾液が木手の首筋を流れた。
 長い長いキスの後、手塚が堪えきれない声で耳元に囁いた。
 それは、激しい、愛情と絶望の混ざった、声だった。

「お前が、欲しい……抱かせてくれ」

 一度も、今まで願われたことのないことだった。
 ああ、もっと早く、好きになりたかった。
 もっと早く、この人のものになりたかった。
 木手は髪を手でかき乱し完全に降ろしてしまうと、眼鏡を外して、シャツのボタンを一つ外す。
 目を一度閉じて、静かに、囁くように答える。

「…………はい」

 そのまま乱暴に机に押し倒された。書類が散らばる。
 雑に服を剥ぐ手も、のし掛かってくる身体も、なにもかも乱暴で。
 それでも、ただ瞳を閉じた。
 乱暴であればあるだけ、余裕がないということ。
 それだけ今、自分の存在が手塚の心も身体も一杯に満たしていると、わかるから。
 胸に浮かぶ、喜びと、僅かな優越感と、哀しみ。
 自分を、偽善者だと思い知る。
 告白することで、手塚は確かに絶望を感じた。
 けれど、それで胸が一杯な今夜は、白石の消滅の瞬間に気付かない。
 二度も、あんな光景を見ることもない。
 今夜だけは、彼は凍るような悲しみに暮れずに済む。
 だから、身勝手に嘆きを嘆きで覆い隠した。
 白石のためではなかった。手塚のためでも、きっとないのだ。
 …自分のためだ。
 自分が、一瞬でも多く、この人のものになりたくて。
 そして、滅茶苦茶に抱かれている間は、きっと、白石のことで嘆かずにいられるから。
 だから、嘆きに嘆きで蓋をした。
 自分は、きっと――――――――――一人きりで消えるのだろう。

 卑怯な偽善者の末路は、それがきっと相応しかった。






「明日とね」
 寝台に腰掛けた千歳が、少し子供のように言った。
 こちらに来て五年になる。もう、子供と呼べる年齢ではないけれど。
「そうやな」
「少し、楽しみたい。…不謹慎と?」
「いや、ええんやない? 流石フレイムウィッチっちゅーか」
「どげん意味と」
「いや、火は完全攻撃型属性やからなぁ」
「…遠回しに、火のウィッチは好戦的過ぎるっていいたか?」
「…まあ」
 半笑いで答えた白石の腕を掴んだ大きな手が、そのまま引き寄せて自分の膝の上にその身体を座らせる。
 膝に乗った身体。支える手の格好がまるで姫抱きのようで、白石は顔を染めながら、怒ったん?と聞く。
「いや、…はりかかんとよ。ただ、白石をギュってしたかっただけと」
「…そうか」
「まあ、真田と切原が聞いたら、怒ると思うけんど」
「…どうやろなぁ」
 笑いながら曖昧に言った白石が、不意のように身を震わせた。

 どくん、と。鼓動が鳴る。わかる。これは―――――――――――――。

「…白石?」
 いぶかしんだ千歳の膝に座り直して、その広い胸板に頬を寄せた。
「し、白石?」
「……千歳」
「な、なんばい?」
 珍しく甘えてきた白石に、頬を染める千歳を見上げて願った。
「ギュってして。…痛ぁくらい、…ギュってしてや」
「…白石?」
「頼む…」
 目を見張った千歳は、すぐ柔らかく微笑んでその細い身体をギュっと抱き締めた。
 願われた通り、細い腰に手を回し、痛い程力を込めて腕に閉じこめた。
 白石が胸にすり寄ってくる。
「どげんしたと、白石」
「その呼び方…」
「え?」
「…イヤや。その、呼び方…。…“蔵”て、呼んで…一回でも多く…早く」
「…蔵、どげんしたと…? なにか、怖か…?」
 そっと、大きな手がそのさらさらした髪を撫でる。

 最後まで、知られてはいけない。
 だから、泣くな。
 泣くな。白石蔵ノ介。
 泣くな。
 笑え。笑え。笑え。
 でも―――――――――――――

 この人の、最期の記憶になる自分は、笑顔がいいから、笑え。
 だけど

「…蔵?」
 堪えきれず、涙が目尻に滲んでしまう。
 千歳の舌がぺろりとそれを舐めて、優しく聞いてくれる。
「どげんしたと…?」
「…言って」
「蔵?」
「…俺んこと、“好き”って言って。…言ってくれ。
 …お願いや」
「……好いとうよ」
「もっと…」
「…好いとう」
「もっと」
「…何回、言うて欲しか?」
 蔵の望む分、言ってやるたい、と微笑む、彼に。
 自分はとても酷い顔をさせる。もうすぐ、きっと。
 それでも、願ってしまう、浅ましい自分。
「…一万回」
「よかよ。言うちゃるよ」
「今夜中にや」
「…今夜中は、難しか」
「……」
「分割でよか? 毎日、絶対三十回ずつ言っちゃるたい」
「…じゃあ、今三十回言うて」
「…好いとう。好きとよ。好き。好いとう。ほんなこつ、好いとう…」
 紡がれる言葉。与えられてばかりの自分。
 違う。だって乾は言った。“伝えろ”って。
「千歳」
 呼んだ瞬間、心臓が強く鳴った。
 待って。待って。あと、一言だけ。
 お願い、神様―――――――――――――。

「千歳…俺、今、すごいどきどきしとる」
「うん、俺も」
「すごい幸せや」
「俺もたい」
「…すごい、…幸せや」

 本当は、怖い。

「…千歳、…」

 怖い。怖い。すごく寂しいよ。怖いよ。怖くて堪らないんだ。

「…今までで、一番どきどきした。一番楽しかった。一番嬉しかった」
「蔵………?」
「一番、……お前を、今愛してる……………………………」

 だから、せめて、一番大好きな、お前の腕の中を。

「…今までで、一番」

 一番大好きな、此処を。

「……大好きや。千歳………………………」

 最期の居場所に、させてください―――――――――――――………………。

 微笑んだ瞳から、涙が零れて、それが千歳の腕に落ちた瞬間。
 白石の身体は一瞬にして透明に変貌し、薄い羽根となって、散った。
 瞬きすら忘れた千歳の前、彼の腕の中で、一番、望んだ最期の場所で。
 白石は、世界から消えた。
 千歳の膝に、青い結晶を残して。



“好きって言って、一万回”



 一万回。
 言えた回数は、たったの七回。
 一万回の、百分の一にも満たない回数。
 たったそれだけの好き。
 残りの回数、99993回。
 この数が、減ることは、ない。
 もう、永遠に―――――――――――――。



「……く、ら………」
 掠れた声が呼んでも、なんや、と笑う声は、もうない。
 もう、いない。
 今、俺の腕の中で消えた。
 こんな、結晶だけ、残して。
 消えた。消えた。消えた。
 誰より、誰より愛しい人。
 いない。もう、いない。
「…く………」
 何故、気付かなかった。欠片でも、疑わなかった。
 何故彼の恐怖に気付いてやれなかった千歳千里。
 お前は、白石蔵ノ介のなんだ?
 たった一人の、恋人じゃなかったのか……?

「あ」

 違ったのか―――――――――――――?

「っ――――――――――――――――――――――――――!!!!!」


 瞬間、身からあふれ出した業火が、宿を一瞬で浸食した。




「っ…!!!!!」
 結界のきしみに、平古場が身を震わせた。
「大丈夫か平古場」
 その小柄な身を抱きかかえて知念が問う。
「…あんま、大丈夫じゃねぇ」
「宿の人間は、避難させた」
「そういう、問題でもねぇ」
「………わかってる」

 ああ、本当に、いなくなってしまったんだ。

 思うことは、同じだ。
「……白石」
 だけど、泣かないよ。
 決めたから。
 千歳の涙が止まるまでは、絶対、泣かないよ。
 膨れあがった業火が結界を食い破った。
「…ぅあ…っ!」
「っ…」
 破られた痛みに、知念と平古場が顔を歪めた。
「大丈夫か凛! 知念くん! 少し、一旦逃げよう!」
「でも、ほっとくと千歳が魔力尽きるまで暴走すんぞ…」
「けど、…巻き添えになって俺らまで死んだら、千歳はもっと悲しむぜ?」
「……そうだな」
「魔力が弱くなってから、もう一度結界を張ろう。それまで、休むことしか、俺達は出来ない」
 だが刹那、焔はふっ、と消えた。
「…え?」
「あ、平古場さんたち…!」
「切原、柳、真田」
「……白石さん」
「…ああ」
「…千歳が、我に返ったのか?」
「いや、それは考え難いです」
「木手!」
 いつの間にか風を使って現れていた木手が、違うだろうと言った。
「……千歳クンは、白石クンを失って、我に返れるような人じゃ、ありません」
「じゃあ、なんで…」
「行って見ましょう」
 木手が先を進む。
 焼き崩れた宿の残骸をくぐって、一番酷い場所で座り込む千歳の姿を見て、木手はなんとなくの理由を悟った。
「……どげんして…」
「…千歳クン」
「…どげんして…っ……邪魔すると、蔵………っ……!」
 そう嗚咽になった声で零して、千歳はその場に崩れるように泣き出した。
 ただ、人の言葉など解さない獣のように。
 声だけが、ずっと夜の空を覆っていた。




「なんで、千歳の暴走が収まったんだ…?」
 王宮に部屋を借りて、五日。
 誰となく避けていた話題を、平古場が最初に口にした。
「…白石クンの、あの結晶が、…抑えたんです」
「あれって…」
「…多分、魂が塊になったものですね。だから、物になったその人、と言っていい」
「…白石の魂が、千歳の炎を消したって、こと?」
「ええ。…あのままでは、千歳クンは魔力が尽きて、死ぬまで魔法を暴走させて…死んでしまっていた。けれど、白石クンはいやだった。だから、結晶が暴走した魔力を封じたんです。
 …物になった後も、守ったんですよ。白石クンは、千歳クンを……」
「……」
 千歳はまるで、あの日の平古場のように部屋から出て来ない。
 だが、木手が語ったことを、千歳もわかっているのだろう。
 食事だけは、毎日食べているらしく、盆はいつも空になっていた。

『木手の言うこたぁ間違ってねえな』

 響いた声。
 それは、この場にいない人間の声だ。
 いつの間にか現れた通信画面が、木手たちの前に浮かんでその声の主を映す。
「跡部……?」









→遅れて来た魔女編一話へ