−デビル・ポーラスター


 第四章−
【擬煌珠−フリーズウィッチの章−】



  
−黄泉比良坂編−

  第二話−【純粋すぎる愛は狂気となって】




「千歳は?」
「白石部長のベッドサイドから離れませんよ」
「そうか」
 部屋の中を見遣って、幸村が頷く。
 寝台の上で眠る白石の傍。ベッドに上半身を預けて千歳は眠っている。
「じゃあ、俺達は、千歳が会ったもう一人の赤也について話そうか。
 大体聞いた後だし、千歳はああさせてあげよう」
「そうですね」
 ぱたん、と閉じた音で目が覚めた。
 むくりと起きあがる。見知らぬ寝台の、見知らぬ部屋。
「……ここ」
 あれ、どうしたんだっけ。ああ、そっか。
 一回、消滅して、そんで、蘇ったのか。
 記憶は身体のない時のものまで鮮明だった。
 白石はベッドから降りると、周囲を見渡す。
「ここは西方国家〈ドール〉王宮だとして…“千歳はどこや”?」
 きょろきょろと見渡すが、誰もいない。
「あの馬鹿。絶対俺が起きるまで傍おると思ってたんに…」
 扉まで歩いていって、開けると廊下が見えた。
「おらん。…どこや、千歳」
 なんだろう。帰って来れたのに。
 不安が、消えない。
 千歳、どこ。
 廊下にふらりと出た。




「あ、財前! 白石まだ起きへん?」
「まだや」
「うー」
「遠山、お前待てるようになったんとちゃうんか? …まあ部長に関しては無理か」
 財前が頭を抱えて、不意に向こうから聞こえる声に耳を澄ませた。
 合流したリョーマが警戒を覚えて呟く。
「…これ、悲鳴?」
「!」
 一斉に駆け出す。向こうは、白石の部屋だ。
 角を曲がって、言葉を失った。
 廊下に倒れている何人もの血塗れの死体は、侍女や文官たち。
 その中心に立つ、翡翠の瞳の人。
 全身が血に濡れている。
「部長!」
 呼ぶ。なのに、白石は視線を動かさない。
「……」
「まずい。そっか。目覚めて、蘇生したばっかだからだ!
 俺もあの時は魔法の制御効かなくって、魔法が暴走しっぱなしだった」
「はよ言え!」
 リョーマに言い捨て駆け出す。
 自分に次ぐ魔力の闇のウィッチの魔法が暴走しているのだ。
 死者がこの程度で済んでよかったのかもしれない。




「…ん?」
 意識がふっと戻る。
「…」
 だが、言葉を失った。
 寝台に、白石がいない。
「白石!?」
 立ち上がって愕然とする。
 開かれたままの扉。その室内に倒れる、血塗れの死体たち。
「……これん、誰が」
 声が、外からする。
「白石!?」




「…部長?」
 呼ぶのに、白石は自分の向こう側を見ている。
「部長!」
「っ!」
 思わず肩を抱くと初めて反応があったが、それは手を払う拒絶だった。
「な、なに…今、誰が触ったん…!? 誰…誰かおんの!?」
「…部長…? まさか、目が見えて…」
「白石!」
「先輩…! 今来たら…!」

「―――――――――――――!」

 千歳が顔色を変えて白石を抱き留めようと触れた瞬間、闇が膨れあがって千歳の皮膚を裂いていた。
 血が散る。
「…白石?」
「…な、今、…また、…誰、…誰かおんの…?」
「…白石? なに、言うとると」
「…なに、…誰もおらん…千歳、千歳! どこや!」
「目は、見えてる…? 俺達が見えてへんのか…!?
 まさか、」
「…声も、…聞こえてなかと………?」
 とにかく、暴走した魔法を沈静しないと。
「すいません!」
「や…っ!」
 見えてないなら、とその身体を抱き締めて拒む動きを押さえ込むと、財前は力を強めて、暴走した魔力を押さえ込む。
 徐々に、闇が消えていく。
 完全に薄らいだ時、初めて声がした。
「…財前?」
「…部長…部長…俺が見えるんですか!?」
「…当たり前やろ?」
「声も…、よかった…」
「財前? …あれ、金ちゃん?」
 ようやく気付いた、と白石。
「白石!」
 もう大丈夫だとわかった金太郎とリョーマが駆け寄ってくる。
「金ちゃん、越前くん」
「はよゴザイマス白石さん」
「うん、」
「兎に角、…着替えが先。遠山」
「…はぁい」
「え? 着替え?」
「え? だって服も顔も血塗れ」
 言いかけて、異常にもう一度気付く。
 リョーマも、金太郎も、財前も。

 彼には、周囲の死体や血が見えてない。

「……部長、今、ここに見える人間、何人ですか?」
「は?」
「後ろも振り返って、数えてください。死体込みで」
「…はぁ?」
 意味がわからない顔をしながら、白石は振り返る。
 その視線にしっかり千歳は収まった。なのに。
 彼は財前に視線を戻すと。
「俺と、財前と金ちゃんと越前くんの四人。死体込みで」
「……見えて、ないんですか」
「…なにが?」
「…後ろに、ずっと、……千歳先輩、おるのに」
「…」
 言葉を失った白石が、思わず背後を振り返って、それから翡翠の瞳に一杯に不安を映して、何度も千歳やその後ろを見る。
「……ほんまに、今、俺の目の前に、千歳、おるん…?」
「…はい」
「……なんで、誰も、見えへんの…………」
「声も、…聞こえへんですか」
「……」

「……蔵?」

 冗談だ、と千歳が呼んだ。
「……聞こえへん。なんも」
「……嘘や」
 財前が言った“嘘”が、現実だ。
「…蔵……嘘、たい」
「や…財前…!」
「それ千歳先輩です!」
「…ぇ」
 身体を抱き締める巨躯の感触に、拒もうとして言われ、反応が止まる。
 おそるおそる、白石にとってはなにもない空間に手を回す。
 感触は、ある。この、大きな感触は。
「……ちとせ?」
「…蔵?」
「…ここおんの? 千歳…? 俺、抱き締めてんのが?
 千歳なんか? なぁ…千歳?」
「…蔵…っ」
「…なんで、…なんでなんも、…見えへん。
 なんも、聞こえへん……。
 なんで、…千歳が」


「なんでや……!!!」


 声が届いた先、幸村たちも駆け寄って来たが、白石の目に彼らは見えなかった。
 声すらも。
 白石が見ることが出来る、聞くことが出来るのは、同じ蘇った星の子の金太郎とリョーマと、魔法を通じて介入した財前のみだった。
 それは、蘇る前に、彼の結晶(魂)に罅が入ってしまっていたことを、示していた。





「白石は?」
「多少、落ち着きましたけど、あれやと無理ですわ。秘術破るなんて」
 広間、あれから三日経った。
「俺達のことも全く見えない。それはいいとしよう。
 …だが、千歳すら見えないとは」
「それに、木手のこともある」
「…そうだね。第二十代の方の赤也の言葉が、本当なら、木手は彼らの駒にされるために連れ去られたんだ」
「…近いウチ、一緒に来る、か」
 それでも信じられない手塚と、平古場たちが拳を握った。




(ほんまに、)
「ほんまに、…俺、千歳が見えてへんのや…」
 急に寝台に横になっていた彼が言ったので、千歳はやっと自分を見えるようになったのかと期待して、視線を落とした。
 彼は独り言を言っただけだ。
 寝台脇に腰掛けている、自分に気づけない。
「…千歳。どこやろ」
「……ここに、おると」
「千歳…」
「ここ、おる」
「………」
「ここ、おると白石…!」
「……会いたい」

 零された言葉に、涙に、なにかが切れた。

「っやぁ! 誰…っ! イヤや!」
 暴れる両腕を片手で上に固定して、ズボンを一気に脱がす。
 いつも、絶対拒まないのに。
 彼は、自分が見えてない。声も。
「イヤ…っ。イヤや…千歳! 千歳ェ!」
「俺はここたい!」
 暴いた下肢を指で抉るとびくりと震えた身体が、恐怖に歪んだ。
「…いや、…やぁ…っ…とせ…千歳…っ!」
「…俺は…」
「…や、イヤや…イヤや…!」
 いつの間にかその両頬を涙が濡らしている。
 白石にして見れば見えない誰かに無理矢理犯されている心地なのだ。
 けれど、なんで。その声は、最早言葉にならなかった。
 その代わり、下肢のそこに充分な形をした雄を宛うと、更に恐怖が顔を彩る。
 そのまま貫いた。
「っ―――――――――――――」
「…蔵…」
 もしかしたら、彼の中にいる今なら。
 そう願って呼んだ。
 なのに、
「…イヤ……千歳……千歳…っ……」
 見えていない。
 なんで、声、すら、届かない。
「なんでん…!」

「イヤや…ぁ…!」
 喉を裂く悲鳴は、一瞬ではなかった。
 彼は繰り返した。
「イヤ…ぁ! せ…千歳…っ…千歳…っ!
 たすけて…っ…千歳どこ…っ!」
 今お前を抱いているのが、千歳なのに。
 貫いていた熱塊を引き抜く。お互い達していなかったが、これ以上壊れたように叫ぶ白石を見てはいられなかった。
「…蔵」
 駄目なのか。抱いても、どうしても。
「……千歳…どこ……ちとせ……いや………どこ…ちとせ」
「…ここに、いると…」
 聞こえない。彼には、自分の声は、何一つ。
「ちとせ…ちとせ……たすけて…なんで…傍おってくれんの…?
 なんで…抱き締めてくれんの…なんで抱いててくれんの…?
 千歳……千歳……どこ…………」
 掠れた声で、泣きながら静かに繰り返す声が、痛い。
 ああ、自分も泣いてしまえたら、楽なのに。
「……千歳」
 濡れた下肢を無視して身を起こした身体が、不意に枕元のテーブルナイフを掴んだ。
「しら…っなにすったい!」
 自分の眼球目掛けて振り下ろされたそれを手の平で咄嗟に受け止める。
 手の平が貫かれて痛いが、それどころではなかった。
 目に降る血液すら、彼には、見えていない。
 (千歳)自分のものだから―――――――――――――。
「離せ…こんな目、いらん。誰かしらんけど離せや!
 こんなんいらん…千歳が見えへん目なんかいらん!」
「やめ…やめんね蔵!!」
「これもいらん…!」
 おもむろに押さえていない方の手が自分の耳をかきむしった。
 相当遠慮ない力で繰り返しかきむしる。千歳があわててその手も押さえた頃には、白石の右の耳の傍の皮膚は破れて真っ赤だった。
「……いらん…いらんこんな…千歳、どこ…千歳…どこ……千歳…」

「どこ………………千歳……………………」






 入った瞬間、これはなんだ?と思った。
 自分の目を疑ったのは、リョーマだけではなかった。
「…ち、とせ…せんぱ…?」
 財前もだ。
「…あ…っ…ざいぜ…! これ外し…痛っ!」
 自分に視線を向け、寝台の上で助けを求めた白石の顔が痛みに引きつった。
 その両腕は背後でワイヤーでギリギリに縛られていて、足も同じだった。
「ああ、光。なんか布なか?」
「…せん…なん、これ」
「布」
「先輩、あんた部長に自分がなにしてんかわかってん…!?」
「もうよか。これでいい」
 相変わらず抑揚のない声が、棚に置かれていた白石の服を掴んでおもむろに破り捨てた。
 ミニタオルくらいの大きさまでちぎると、千歳はまた寝台の上、両腕と両足を縛られて痛みに呻く白石の身体の上にまたがって、暴れるその口に布を押し込んだ。
「んぅ…っ!!」
 そのまま布の端を白石の首の後ろで縛って猿ぐつわのように固定して離れた。
「…ん…う…ん…っ!」
 苦悶の顔をただ浮かべる白石がもがくのに、ワイヤーが軋んで肌に食い込むだけ、布が唾液を吸い込んで言葉にならない呻きが漏れるだけだ。
 千歳が、恐ろしい程顔色を変えない。
「…外で話さん? 俺ばともかく、蔵には二人は見えとると。
 人の姿が見えっと、蔵は助けてもらえる思ってしまうけん」
「…な!」
「よかから」
 あまりのことに停止していた脳が動いて、リョーマは掴みかかろうとしたがその手を掴んで押しとどめた千歳の手が誰の目にも明らかに震えていることに、そしてその手が血塗れであることに遅蒔きに気付いて、言葉を失った。
 千歳に促されるまま部屋を出る。
 ぱたん、と乾いた扉の音が響いて白石の姿も呻きも聞こえなくなった。
「それ、…自分の血…だよね」
「…しかたなかね。ああでもせんと、蔵は自分の目ば抉ろうとすっし、俺の声聞こえんて耳も爪でひっかくたい」
 確かに、あまりの異常な姿に見逃していたが、白石の耳には手当の跡の白いガーゼがあった。
「そんで、あのままほっとくと絶対舌ばかみ切ろうとするとやろ?
 だけん、ああするしかなかし、他に両手足固定出来るもんばあっても蔵の魔力じゃ切られてしまうけん。あれには絶対蔵の皮膚に傷つかんと、魔法を使えんよう魔法かけてあると。それに、俺の目が届かんとこやとやっぱいややけん」
「…」
「まあ、そげん理由。けんど、頭でわかっとうても、やっぱり蔵に苦しかことするんば、手が動かんかったけん…自分で傷つけんと指ば動いてくれんとよ」
「…それで、自分の手をそんだけぐちゃぐちゃにしたんスか…」
「しょんなかとやろ」
「……そうですね。白石さんが、千歳さんを見れない、聞けないことで苦しむなら、他に最善策はないです。あれが見た目悪くても一番っスね」
「…だろ?」
「でも、やっぱり俺の考え当たった」
 リョーマが軽く俯いて言う。千歳がえ?と明らかに異常な笑みで問い返すと、リョーマは見上げてはっきり言った。

「やっぱり“白石蔵ノ介は千歳千里の所為で苦しむ”。“千歳千里に白石蔵ノ介は幸せに出来ない”ってのが事実だ、って話。どこでも誰でも一緒だね。
 白石蔵ノ介と千歳千里である以上、千歳千里はどこでも白石蔵ノ介を傷付けない運命はな―――――――――――――」
「黙れ!」
 その胸ぐらを掴んで叫んだのは千歳ではなかった。千歳はただ、リョーマの言葉に小さく瞳を細めただけだった。
 財前だ。
「それ以上言うてみい。自分が復讐王やろが知ったことか…。
 今すぐ殺したる!!!」
「……」
「光、よか。越前は間違ってなかし」
「よくあらへん!」
 叫んでなお力を強める財前の手を掴んで、千歳があくまでゆっくり言う。

「よかよ。光」

「……」
 血塗れの手で制されて、財前は顔を歪めて手を離した。
「早く、白石さんをあんたから自由にしたら?
 あんたじゃ、不幸にするばっかりだよ」
 今度は財前は手も口も出さなかった。手は、相変わらず千歳が制している。
 その手が大きく震えていると痛いほどわかるのに、叫べなかった。
 痛いのは、俺じゃない。
「…うん、わかっとう」
「なら」
「だけん、…俺は蔵を離せなか」
「…不幸にしたいんだ。白石さんより自分が大事…」
「蔵の方が大事たい」
 初めて、千歳がリョーマを遮った。
「当たり前とやろ。俺ば馬鹿にしとーと?
 俺自身はどうでもよかけど、蔵に対するこつだけは馬鹿にされんはごめんたいね。
 俺も、蔵が大事たい。なにより大事たい。
 ―――――――――――――だけん、俺は南方国家〈パール〉の千里のようにはならなか」
「……」
「蔵が、蔵が俺んことば忘れるだけで、俺んことば好きでなくなるだけで蔵が笑ってられるなら、あげなこつせんと、そん方法探す。
 それで、蔵が笑ってくれるなら、幸せなら俺はそうすっと。
 やけん、そげん方法はなか。
 蔵が痛い程俺んことば求めとるとに、無理矢理忘れさせるんはイヤと。
 そげんして、蔵が笑えるようになっても、心から、見えんとこから壊れてく気がすっと。
 手遅れになるまで、壊れる気がすっと。
 多分そうたい。蔵の魂が、俺ん暴走止めた時、そう心底思ったと。
 魂にまで刻まれとるとに、消すこつは、蔵の魂に傷付けるこったい。
 そげんこつ、出来なか。
 だけん、今ん蔵は越前と光ん姿ば見えてても、俺んこつ見えなか。声も聞こえなか。
 もう気にするな、いつか聞こえるようになる、見えるようになるて誰が言っても、蔵はじっとしとらん。
 待つこともなか。
 自分の身体が悪いって、自分のこつ傷付けったい。
 ……それで、あれ以上にやれるこつあると?
 他に、よか方法があると?
 忘れさせてやるこつもできん。眠るこつは本人が拒絶しとう。
 そげん上で、俺んこつみたい聞きたいって言う蔵を、どげんして止めるとね?
 他に、方法なかとやろ」
「…………」
 リョーマは長く続けられた言葉を俯いて聞いて、でも事実だと、反論なく廊下の向こうへと去った。
 彼もわかっている、他に、方法がない。
「…先輩」
「光、すまんね、俺んために怒ってくれたと」
「…そんなことは、どうでもええ」
 低く呻いた財前は千歳の手を取ると、その抉った傷を撫でた。
 片手で千歳の胸元を掴む。
「泣けや」
「…なんでん?」
「さっきから、部長に痛いことしとる時から、今まで、あんた一回も声荒げてない。
 泣いてもない。
 …部長が消滅した時より質悪い。泣けや…。
 部長傷付けて痛いって。
 部長がわかってくれんって。
 なんもできんって。
 部長を苦しめること自分でせなあかんかったって。
 …部長が自分を認識できん…自分を見れない、聞けないって。
 見てくれん、聞いてくれんって泣けや!!!!」
「…蔵の方が辛かね。俺は平気たい」
「泣けや! あんたのどこが平気なん。手ぇぐちゃぐちゃで!
 身体中痛いほど震えとって!
 泣きたいのに泣けへんと…どこが平気なんや!
 ええから泣けや!!!!」
「…光。俺ば、平気たい」
「泣けや!」
 財前の指が、ぐちゃぐちゃにえぐれた千歳の傷を更に爪で深く抉った。
 力を込めて泣けと叫ぶ。
 相当痛いほど力を込めて傷を抉って、泣かせようと思うのに、千歳は眉一つ動かさない。
「……っ」
 なんで、そう声が零れた。
 とん、と額を千歳の胸に押し当てて、その巨躯にしがみついて繰り返す。
「なんで、なんで、なんで…。
 なんで、部長、あんたんこと見えへんのや。あんたん声聞こえへんねん。
 俺とか、他のヤツがいっくら見えへんくてもええから、なんであんただけは見えるようになっとらんねん。
 なんであんな風にしか傍におれんねん。
 なんで笑って傍におれんねん。なんで部長が笑ってあんたん傍におれんねん。
 なんであんたがあの人抱き締めて笑ってられんの。
 俺、部長が帰って来たらそれが当たり前に見られる思うてたんになんで。
 なんでこんな狂ったもんしか見れへんねん!!!!!!!」
「…光」
 血に濡れた手が後輩の頭を抱くと、喉を鳴らして彼は叫んだ。

「なんでやねん…」

「なんでなんやぁああっ!!」

 その双眸から涙が溢れて、嗚咽になった。
 なんでと繰り返して泣く後輩の背中をあやすように抱いて、千歳は矢張り泣かなかった。
 震えた手も、最愛を傷付けた手もそのままに。
 彼は、泣かない。
「まるで、ほんなこつの黄泉比良坂たいね」
「ぇ…?」
「イザナギノミコトとイザナミノミコト。
 ヨモツヒラサカを戻る途中、イザナギはイザナミを振り返ってはいかん。
 けど、振り返って、顔見て、イザナギはイザナミを離して逃げた。
 …今ん、俺と蔵たい。
 俺が蔵を振り返らんと守りきってたら。
 そんで、俺ば蔵の苦しか顔見て逃げて。
 …けんど、見えるなら、そっちがよかよ。
 どげん醜か顔でも、俺は離さんで一緒に行く。
 蔵が俺から逃げん限り、一緒に行く。
 ヨモツヒラサカはいつか終わる。いつか地上に着く。
 俺は、イザナギのようには逃げなか。
 どんだけ、蔵の姿が痛くても、逃げんで、傍おると。
 手だけは絶対離さんね。
 そうしたら、いつか、絶対、…ヨモツヒラサカは終わる。
 そげん、…信じとうから」
(ああ―――――――――――――)

 この人は、泣かないんじゃない。泣けないんじゃない。

 信じている。

 部長とまた笑い会える。部長がまたあんたを見て、聞いて、笑ってくれる日が必ず来ると。

 この地獄が必ず終わるから、それまで信じて笑うと。

 彼の分まで笑うと、言うんだ。

 そのうえで、南方国家〈パール〉の千里のようにはならないと言うんだ。

 もし、ヨモツヒラサカが終わらなくて、あの人があんたを見ることも聞くことも一生なくても。

 それでも、彼が心から願って自分を忘れない限りは。

 傍にいると。どんな苦しみにも耐えて笑うと。

 絶対、手は自分からは離さないから。

 それが、一生の地獄でも、それなら死ぬまで笑って堪えると。

 彼は、言うんだ―――――――――――――。

「………あんた、馬鹿や」
「ひどかね」
「…でも…………………あんたやっぱり」

 顔を上げた財前は相変わらず泣いていたが、とても綺麗に笑っていた。
 見上げて、泣きながら笑って言う。

「すごいわ」

「うん、ありがと」
 千歳も笑って、ぽんと頭を撫でた。












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